ごあいさつ

通信Back number2004年4月~2005年3月

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2005年3月 No.196

 一年が終わり新しい学年を迎えます。別れの時期出会いの時期です。子ども達は高校に進学,新しい広い世界に出て行きます。私としては喜ぶべき別れなのでしょう。でも子ども達には色々と不安もあるようです。特に新しい友達ができるだろうかと心配する子が毎年います。しかし,そんな心配は杞憂となり,新しい友達と楽しく高校生活を過ごしているようです。とにかく,子ども達は,不安があっても結局は,苦も無く新しい出会いを乗り越えていくようです。若さでしょうか?

 実際,大人のほうがよほど新しいものに対して手を焼くように思います。子ども達もよく知っているライブドアのホリエモン,経済界では目新しいことをやったようで,大の大人が大騒ぎしています。これは,新しい出会いと少し違うのかもしれませんが,今までにないことに出会うと,大人のほうが余程おろおろする例のようです。私にとって,そう新しくもありませんが,携帯は,新しい出会いに入ります。というのは,春,高校生になるとだいたい携帯をみんなが持つようです。まあ,最近は結構中学生で持っていますから,一時ほどではありませんが,卒業生が塾に集まると携帯のお披露目会のような感じがあります。

 中学生が携帯を持つ,良いのか悪いのか?私がはっきり言えることは,悪いことばかりではないけれど良いことばかりではない, こんな当たり前のことです。子ども達と連絡を取る,私自身が重宝させてもらっています。しかし,子ども達の携帯の使いかたを見ていると,高価なおもちゃを持っているというのが正直な感想です。子ども達だけの責任ではありませんが,メールのマナーなどもっと注意が必要と思います。特にメールはプライベートな内容がほとんどですから,取り扱いを注意しないと友達関係を悪くすることもあるようです。メールは個人情報の塊のようなものです。子どもたちは,そうしたことに無関心のように見えますから,大人が注意するしかないようです。これからは,どんどん便利になり携帯を持つのが当たり前になるかと思います。新しい機能と出会うことになり,私などは使えませんが子ども達はマナーを身につけ上手に使いこなすようになってほしいと思います。子どもたちが新しいこと,知らなかったことに興味や関心を持つことはいいことだと思います。当然,そこに危険が伴うこともあると思います。しかし,広く関心を持ち,新しいこととの付き合い方を身につける必要はあると思います。携帯との出会いが良いものになるよう,大人も子どもも,みんなが考えるべきことなのかもしれません。

★例年にない大雪の冬がようやく終わりそうです。何しろ,札幌の積雪量が岩見沢より多かったのですから驚きました。大雪のせいでもありませんし,冬だけではないと思いますが,冬場の運動不足のためか健康診断で引っかかりました。今まで自分には関係ないと思っていましたが,いわゆる成人病とお付き合いをしないといけないことになりました。うれしくはありませんが,私にとって新しい出会いであります。これから何年間かはわかりませんが,長いお付き合いになるのでしょう。今のところ,できるだけ歩くことを心掛け,食事のことも考えています。無理をせず,ぼちぼちと付き合っていこうと思っています。子ども達に日頃から勉強していない等と言ってきましたが,しっかり私自身に返ってきたようです。大人も子どもも毎日の心がけが大切ということですね。

 

★この春の受験は絶対評価一期生の受験でした。全般的にどの高校も高いランクでの争いだったようです。一方,道内の国立高専では,入試での内申比率を見直す動きがありました。内申点と実力との差が大きいため,内申点の比率を小さくしました。当日点重視の私立高校はありますが,道立高校などは絶対評価による内申点をどう評価しているのでしょうか?ちょっと聞いてみたいと思いませんか。

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2005年2月24日(木) No.195

 私立高校の受験が終わりました。ある子が「数学の問題に図が無かった」と言っていました。確かに,公立高校の入試の数学の問題には,必ずといっていいほど図やグラフが描いてあるのに,私立の問題には図やグラフが描いてないことがあります。考えてみると高校の数学の問題集や参考書は,解説の部分はともかく,問題の部分には図やグラフが描いてあるほうが珍しいでしょう。

 図のある問題は,図を見ながら考えることが出来ますが,図やグラフが無いとどんなことになるでしょう。簡単な問題だと図がなくても何とかなります。しかし,少し複雑になれば,頭に思い描くか,問題文を読み,自分で図を描いたりしないといけないかもしれません。頭に図を描くというのは結構難しいことです。図だけならまだしもアルファベットで表された点の位置なども覚えなくてはいけません。こうなってくると,図が無いと意味さえわからないことがあります。

 実際私は,平面図形は好きですが,空間図形は苦手です。平面図形は比較的簡単に正確に描けます。しかし,立体は平面上に正確に描くことが無理です。問題に図があり,問題文に直角と書いてあっても,図を見ればとても直角になっていない,そんなことがよくあります。図は直角には見えないけれど,頭の中で直角だと思いながら問題を解く必要があります。この場合,頭の中で直角と思うことに,図がかえって邪魔になることさえあります。無いと困るし,あっても不正確だともっと困ったりします。

 図形に限らず,グラフの問題でも,縦横の方眼が描いてあるときと縦横の軸しか描いてないときがあります。やはり,中学生には,軸しかないほうが難しいようです。同じ問題と思うことさえ難しいようです。

 つまり,図やグラフなど視覚からの情報は問題を解く上でとても大切なものだといえます。でも視覚だけですべて解決するわけではありません。グラフの方眼など自分で描いたりしたら,ごちゃごちゃになって余計に分かりづらくなったりするし,また,立体は正確に描けません。図や,グラフといっても,すべてを,それに表すことは不可能でしょう。

 同じ様なことは普通にあることです。例えば,象を実物大の図にすることは難しいことです。見たことの無い人は,文と小さな図から実物を思い描くのはなかなか難しいでしょう。でも,見たことのある人は大きさや動きなどを思い浮かべることが出来るでしょう。一枚の紙切れに言葉と図ですべてを表すことは無理ですから,読み・見ている側は,視覚プラス,思い描く,つまり想像することがどうしても必要なようです。

 さて,ここで想像してみてください。人間の頭を一億倍すると,どの位の大きさになるでしょう。中二の理科のときにする話です。理屈としては平均的な人間の頭のサイズに一億を掛け計算すれば問題ありません。でも数字が出たからといって,その大きさに実感はついてきません。私もある本から得た知識ですが,「人間の頭を一億倍する」と,地球よりも大きくなるそうです。そして,原子を一億倍するとピンポン玉程度だそうです。目に見えない原子ですが,想像することで,その小ささの感覚が出来るのではないでしょうか?

 

 私は,子ども達にイメージするようにと言葉で言います。想像することによって,知識が膨らみ覚えることも楽になると思いますが,どうも子ども達は勉強と想像するということは,無関係だと思っているような気がします。実際,日常生活とかけ離れた,理科や社会など想像することが難しい面はあると思いますが,練習すれば上手になると思えますし,何とか上手にイメージすれば,成績が上がると思います。そして,ついつい「イメージして」といっています。本当は私が想像できるよう,もっと手がかりを子ども達に与えればいいのです。これが結構難しいのです。

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2005年1月 No.194

 今,小学校の4年生と文章題の勉強をしています。私は,子ども達に文章を二つの部分に分けるようにと言っています。やったことがないせいでしょうか,私が思う以上に子ども達には難しいことのようです。

 分けるといったことは日常,色々な場面でしていることです。お菓子など食べ物を分ける,時には仕事を分担するといった具合に。ところが,子ども達と問題を解いていて,このごろ気になることの一つが,「問題を分けて考えない」ということです。計算問題,文章題や面積を求める問題など,いえ算数・数学に限りません国語でも同じです。

 四角形の面積を求めるのに,四角形を二つの三角形に分け,一つずつ面積を求め最後に合計する問題です。分けることによって問題が解決できるという代表的な問題でしょうか。文章題などでも兄と弟のように二人の人間が出てきたりしますが,兄のことと弟のことをきちんと分けて考えれば簡単なのですが,分けることを思いつかないようです。

 国語の漢字などいい例ですが,偏や旁に分ければ意味や読みが予測できるのですが,丸覚えが目立ちます。小説の問題で登場人物の気持ちを尋ねられれば,登場人物について書いてある部分を探せばいいのですが,この部分といった探し方をしていないように見えます。文章全体を何となく読んでいるといった雰囲気を強く感じます。

 問題の文章も小説も文の集まりです。それらの文は内容によって分けることが出来ると思います。特に問題の文章など目的がはっきりしたものですから,内容は分けやすくできていると思います。ところが子ども達にはなかなかうまくいかないようです。というよりは, 一つの問題だからということなのか,分けてみようという意図が感じられません。

 文章を分けると, 文の集まりですからまず文になります。文は単語の集まりです。分けることが大切とは思いますが,分ければすべて問題が解決するわけでもありません。文を単語に分け,単語一つ一つに意味がわかっても文の意味がわかるかということはまた違います。独立した単語の意味と,文の中で果たす単語の役割は同じではありません。実際に勉強は分けることと総合するという両方が要求されると思っています。生き物は,人間も含め細胞の集まりですが,ただ集まったものではありません。細胞の総和で人間が出来上がっていますが,部分に分けて人間がわかるかというとそうは行きません。勉強も分けることと総合することとを同時にしないといけないのでしょう。こんなことを考えると,なんだか大変なことのような気もしてきます。

 でも,何よりも,分けて考えるということはとても便利だし大切なことです。そんな難しく考えずに,食べ物を分けるように,いつでも使おうと思い,「だめもと」でも使えるようになって欲しいと思います。

 

 こんなことを書いてきましたが,楽をしたいのは私の常です。私は仕事柄プリントの印刷やコピーをすることがよくあります。人数が少ないですから,多品種少量の印刷がよくあります。そんな時面倒なのでなるべく一度にすむ方法をと考えます。自分では工夫し,いい方法を思いついたとやり始めますが,だいたいトラブルが起きます。面倒に思えても,一つずつ分けて丁寧にやるほうが早くうまくいくといったところです。それでも懲りずに一度に片付ける方法は,などと考えてしまう私です。多分,子ども達も同じなのでしょう。

★学力低下が騒がれています。そんなせいか,小学校の教科書が変わり削除されたものが復活したりするようです。高校入試の制度だってチョコチョコと手直しがされています。今の制度もいつまで続くのやら。いつも感じることですが,国のやることは小手先の手直しのようです。基本的な考え方やシステム全体といったようなことが論じられず,迷惑するのは子ども達だけでしょうか。まあ,国のすることは間違いがないんだという,思いがある限りそういったことを望むのは無理なのでしょう。

★今年の冬は寒いのか暖かいのか?雪が多いのは間違いないようです。冬の講習時期にこんなに雪掻きをした記憶がありません。なんだか変な気候です。特に受験生は風邪などひかないよう,インフルエンザも気になります,体調に十分に気をつけてください。受験生に限らず,元気に楽しく冬を過ごしたいものです。

 

★私の母親と携帯のことを書きましたが,実はまだ携帯を使えません。冬の講習と正月で特訓はお休みです。母親が一番ほっとしているかもしれません。でもまた再開するつもりです。私も良い勉強になりそうなので根気良くやるつもりです。

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2004年12月20日(月) No.193

 私事になりますが,私の母親が84歳にして携帯電話を持ちました。まさに持っただけで,まったく使えません。そこで,私が電話を使って母親に携帯の使い方を教えることにしました。私のほうに実物がないので,取扱説明書を郵送してもらい,わたしはその説明書を見ながら指示するという方法です。母親は携帯を片手に,私は説明書を片手に,ちょっと想像してみてください。電話で電話の使い方を教えるというなんだか妙な光景です。固定電話の子機を使っているから,キーの操作など,さほど面倒な説明もいらないだろうと思っていましたが,とんでもない間違いでした。二人とも同じ日本語を話しているはずですが,まるで,外国語のやり取りのようにお互いが要領を得ません。

 まあ,こんな調子です。まず,何といっても携帯電話ですから電話帳を開き電話をかける方法から始めました。何とか電話帳を開きア行からカ行など行から行への移動は出来るようになりましたが,後がいけません。例えば,私の名前は「のりゆき」ですから「中村」などの名があると,ナ行の先頭にはなっていませんでした。そこでカーソルの移動が必要になります。私はカーソルが上下に移動することと,カーソルを移動させるキーの操作法を説明します。タッチ音が聞こえますから操作をしたのは間違いないと電話でも確認できます。しかし,母親から帰ってきた答は「動かない」「今までと変わらない」ということでした。仕方がないので私は一から説明をやり直します。二度目もやはり「動かない」ということで,また最初から。何度か繰り返してもだめで,ふと,「私が説明書を見落としたところがあるのかな」と思ったりもしました。しかし,何も見落としがありません。その後も何度か同じやり取りを繰り返しました。このときばかりは,塾で小中学生を相手に色々説明していることが役に立ち,あまりかっかとならずに済みました。そして母親が「則幸が先頭に来ない」といったことから,ようやく解決しました。彼女は名前が入れ替わる,つまり画面上で名前の位置が上下して変わると思っていたのです。何が動くのか,お互い違ったことを思っていたわけです。たったこれだけのことに気付くまでかなりの時間が必要でした。電話代も掛かってしまった。

 私の常識と母親の常識が違ったというだけなのです。何が動くのかお互いに確認せず,自分の常識が相手の常識と思い込んでいた私のミスでした。話の最初からずれていますから,回数を増やしてもうまく進みようがありません。子ども達に「同じことを同じ様に」とよく言いますが,間違いを同じ様に繰り返してもうまく行くはずはありません。どこで食い違ったのか,しっかりと確かめ間違いを見つけなかったのが時間と電話代が掛かる原因でした。しかし,自分が当たり前と思っていることを疑うことは難しいことです。当たり前と私が思うことが子ども達の常識とは限りません。母親にはいい勉強をさせてもらいました。

 

 また,言葉を使って説明することの難しさを感じさせられました。目の前に実物がないので,どのキーか伝えるためにはキーの位置や形など細かく説明することが必要となります。ところが説明が細かくなるとそれはそれで母親にとっては難しいようでした。一言で如何に特徴を言い表すか,それに尽きるようです。実はこんなに苦労していますが,まだ携帯は使えません果たして使えるようになるのでしょうか?

★中三の講習は朝から行います。生活リズムを大切にしたいと思います。少し早いかもしれませんが,お正月明けからは受験の時間設定を念頭において一日の時間の過ごし方を考えてください。また,正月特訓などが行われるようですが,落ち着かない年末年始は勉強よりもゆっくりと過ごした方が精神的には良いと思います。追い込みの時期になりますが,勉強に集中できるよう,家庭では落ち着いた雰囲気が大切かと思います。

 

★二学期末のテストは,どの中学もいつもになく問題が難しかったようです。学力低下が騒がれる風潮のせいなのか,「5」の中学間格差の新聞報道が関係したなど,うわさもあるようですが,理由はよくわかりません。昔のように順位やSSが出ないようですから,子どもがどの位置にいるかわかりません。問題が難しかったのか,成績が下がったのか?点数だけというのは,わかりにくいことです。

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2004年11月24日(火) No.192

 定期試験の前に試験範囲表が子ども達に配布されます。その範囲表を持ってきてもらい,私達は試験対策を用意します。いつものことで,範囲表には教科書のページと共に対応するワークブックのページが書かれています。今回,ある中学の範囲表に「ワークから多数出題」とあったことが目に付きました。ワークブックからの出題は珍しくありませんから,私達も,必ず目を通すように子ども達に言います。しかし,こんなにはっきりと書かれてあるのは珍しいことでした。試験が終われば,ワークの提出が必ずあり,しかも,ワークなどの提出物は成績に大きく響きます。そこで私達は,子ども達に学校のワークを持ってこさせ,試験勉強に使うことにしました。

 軽い気持ちでしたことですが,ワークを仕上げるというのは大変な作業だと分かりました。二学期の中間テストのない学校が多くなり,昔なら二回のテストを一回で済ましますから,試験範囲が広いのは当然です。ワークだって全部の教科を合わせると莫大なページ数です。普段からこつこつやってあれば違うかもしれませんが,試験前に簡単に片付く量ではありません。「普段から」と言うのは簡単ですが,「言うは易く行うは難し」で,きちんとやる子は希でしょう。また,子ども達の実力はまちまちです。そんな子ども達に,一律にワーク全部をやれと言うのはかなり無理があるのではないでしょうか。また,ワーク全部をやるということは,難しい問題は解答を写すだけ,簡単な問題は実力がつかない等ということになり,労力と時間の無駄かと思ったりします。

 じつは,私とおばさんにとっても,何を子ども達にどうやらせるか?試験前でなくても頭の痛い所です。その子その子の実力にぴったりあった問題集などあるはずもありません。私にとって可能なことは,問題集を子どもの実力に合わせて利用するということでしょうか。たくさんの問題の中から,その子の実力に見合う問題を選び練習させるということになります。塾で顔をつき合わしているときは,問題を選ぶことができますが,宿題となるとそうもいきません。一律に問題集の特定のページとかプリントということになってしまいます。

 本来,勉強とは目的のはっきりしたものです。出来ないことをできるようにする,そう考えれば,一律に同じ問題を皆が解くというのはおかしなことです。私が出す宿題も,学校のワークやプリントの類もそうです。宿題やワークは,ある部分役に立つが役に立たない部分も含むということになります。ワーク全部をやる必要性はない,と言ってもいいのかもしれません。では,どこをやれば良いのか?その選択は非常に難しいものでしょう。適切な問題と必要最低限の練習量をどう選択するか?出来るだけ効率よく効果の挙がる方法とは?

 一人一人の実力にあった問題を用意する,私にとっていつも頭の痛い課題です。毎年子ども達は変わりますから,たぶん解決することはないと思いますが,より良い方向に向かうように工夫を凝らそうと思っています。また,子ども達自身にも自分に必要な練習は何かを考えさせるようにもしなければと感じました。

★こんなことを書いたのは,「勉強法が変わる本(心理学からのアドバイス)」市川真一著(岩波ジュニア新書)を読んだ影響があるのでしょう。高校生向けですから中学生にはわかりにくい数学や小論文などについて書かれていますが,子ども達にアドバイスをする上で,大人が読んで良い本だと思いました。

 

★先月「右ねじの法則」について書きました。その「右ねじの法則」の問題練習をしているとき,ある子がシャープペンをいじっていました。芯でも出なくなったのかと思ってみていると,そうでもなさそうです。シャープの先端の部分を締めたりゆるめたりしています。「どうした」とたずねると,「こうするとわかる」という返事でした。シャープの先は立派なねじです。そしてシャープは,試験中に使え,とても便利です。盲点をつかれたようで,なるほどと感心させられました。こうしたことを思いついた子は,右ねじの法則をしっかりと覚えて忘れることはないし,試験のときも困らないでしょう。創意と工夫の子ども達でした。

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2004年10月20日(水) No.191

 中学生の理科の勉強に,電気のところですが,「右ねじの法則」というのがあります。ねじを締める動作からついた名前だと思います。ねじを締める動作など,簡単だと思いますが,意外なことにねじを締めた経験のない子ども達もいます。また,電動ドライバーなどという便利なものがあります。どの向きに回転しているのか考えなくてもねじは締まります。そこで,例えとして水道の蛇口を締めることを話します。理科の実験器具のガスバーナーの使い方でも同じように水道の蛇口で説明します。ところが最近の水道の栓は上下に動かし,出したり止めたりするものが多くなっています。

 水道の蛇口といえば,近頃は自動のものがずいぶん増えているようです。スーパーやデパート,温泉のトイレなどの水道も自動で,手を出すと水が流れてきます。自動ドアなど当たり前のようですから驚くほどのことではないのでしょう。以前ある温泉に行ったとき,トイレの照明が自動でした。トイレのドアを開けると点灯し,出てくると消えます。体の不自由な人への配慮,バリアフリーの対策と説明がありました。便利な上に色々と配慮されている,なるほどと感心させられました。

 体の不自由な人,高齢化社会を考えれば自動化はより進むのかもしれません。しかし,ねじを締めたり蛇口をひねったり,人間が自分の体を動かし何かをする。自分の目的を果たすためには体を動かすことは当たり前です。自動になると人間は何もしなくてもいいのです。人間は当たり前のことをしなくなるとどうなるのでしょうか?

 お店のドアの前でボーっと立っている,別に考え事をしているのではありません。「ドアが開かないなー」ぐらいは考えているかもしれません。皆さんは経験していませんか?私は何度かやっています。自動ドアと勝手に思い込んで立っているのです。普通のドアですから開くはずはありません。そして,水道の蛇口にぼんやりと手を差し出している私の姿が想像できます。世の中,科学技術が進歩し何かと便利になります。こんなことを思い描いていると,機械が何もかもしてくれる,機械がどんどん便利に利口になればなるほど,人間はどんどんお馬鹿さんになるのだろうかなどと思ってしまいました。

 理科の説明からとんでもない連想になってしまいました。ねじを締める代わりのものは何か?困っていると子ども達の方からが助け舟を出してくれました。ペットボトルのキャップです。今,ペットボトルを知らない子どもはいません。私だって日常使っているものですが,思いつきませんでした。やはり私は一升瓶の世代なのでしょうか?ペットボトルは子ども達が生まれたときから身の回りにあります。生活に溶け込んでいるものは自然と身につくのでしょう。

 

 「右ねじの法則」が「ペットボトルの法則」と変わるはずはないのでこれからも説明に困る言葉が増えるのだろうと思います。機械装置などの言葉はどんどん死語になっていき,当然,大人の分からない言葉は増えるのでしょう。今の時代,子ども達と付き合うには,大人にはなかなかつらい時代なのかもしれません。ということは子ども達だって大人と付き合うのは大変なのでしょう。大人に説明することが多すぎるのかもしれません。ですから,大人も子どもも色々な変化に注意することが必要ですし,また説明をするために言葉のセンスを磨く必要があるのでしょう。子ども達は,生まれたときから変化の激しい世界を生きています。変わることが当たり前と感じているかもしれません。一方私の子どもの頃は今ほど変化が激しくありませんでした。私にすれば変化についていくのはちょっと大変です。まあ,世の中の変化のスピードがもっと速くなれば,今の子ども達が大人になった時,私と同じことを思うのでしょう。そうなれば,まさに因果はめぐるということになります。

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2004年9月 No.190

 9月21日の北海道新聞朝刊の一面トップ記事に,「小学生の天文についての常識がおかしい」とありました。記事によれば,全国の小学校4~6年生720人を対象にした調査したところ,「太陽が地球のまわりを回っている」と考える小学生が四割、約三割は太陽が沈む方角を知らなかったそうです。これは,新指導要領になり学校で教えなくなったことや,子ども達の自然体験が減ったなどが原因として考えられると同じ記事にありました。子ども達の経験不足は,私も日頃感じることもあり通信のいい題材かと思っていました。そうすると23日の卓上四季(北海道新聞の朝刊のコラム)に早速,都会では自然の営みを感じる時間が極端に少ないとありました。

 しかし,太陽が動くことは実感できますが,地球が球形をしていて「地球が太陽のまわりを回っている」というのは大人でも実感があるのでしょうか? 太陽が西に沈むのと違って,こちらは自然体験とは関係がなさそうです。考えようによれば,学校で習っていない小学生の六割近くが地動説を知っているのはすごいことかもしれません。子ども達は本から,あるいは映画やテレビなどから地球が球形であることを知ったのでしょうか。考えてみると学校で習わなくとも,子ども達は色々な知識を身につけています。今は,学校でパソコンについて勉強します。どうかしたら,教師よりも詳しいパソコンの知識を持った子どもがいます。

 今の子ども達は,実際の経験が少ない反面,文字や映像からの知識は豊富なのではないでしょうか?特に映像,テレビなどから手に入れる知識は格段に大きいかと思います。時々私は子ども達から妙な質問をされて困ることがあります。その質問の元はテレビで仕入れたとても細かな知識だったりして,私にはとうてい答えられません。これからは,もっとインターネットが普及するでしょうから,色々なことが簡単に調べることが可能になるでしょう。こうしてテレビやネットで得られる知識は実感の伴わないのが欠点だと思いますし,ネットには色々と問題があるようですが,後戻りすることは考えにくいことです。

 一体どんな世の中になるのか,ちょっと私には想像できませんが,いいことがいっぱいあるけれど,問題もたくさん出てくることだけは間違いなさそうです。これから大人になる子ども達は大変ですね。世の中の変化がゆっくりだった時代は,ついていくこともゆっくりでよかったのでしょうが,これからはどうなのでしょうか?パソコン一つとってもどんどん性能が良くなっていきます。二年半前に買ったこのパソコンもすでに型遅れです。もっとすごいものは携帯電話でしょう。中学生にもかなりの割合で普及してきているようです。今まで使ったことのないものですから,マナーやルールが確立されていません。信号もない田舎町がいきなり交通ラッシュの都会になったようなものでしょう。普及し,時間とともに解決はされていくのでしょう。でも,新しいものが生まれ,便利になればなるほど,新しい問題が生まれてくるのでしょう。

★仕事が終わって,なんとなくテレビを見ていました。チャンネルを回していると,ピーター・フランクルという数学者(彼は大道芸人でもあります)が話していて「数学の愛しかた」という番組でした。ピーター・フランクルはハンガリーで生まれ育ち,教育を受けた人です。

 日本の大学は色々なスポーツで大学一を競いますが,ハンガリーの大学は数学や物理の大学一を競うなど日本とはだいぶ違った雰囲気のようです。国が違えば制度や仕組みが違って当然ですが,言われてみると,日本でスポーツ以外の大学一と言えば,入試の難易度ぐらいかもしれません。なんだか,すごいなーと思いました。でも,最近は数学オリンピックが行われ,日本の高校生は,なかなか優秀な成績を収めるようになっていますから,日本からも将来もっとノーベル賞学者が出るのかもしれません。去年だって二人同時に受賞しましたからこれからも期待できるのでしょう。

 

★涼しくなりました。食欲の秋,読書の秋と色々ですが,中学はテストと行事の秋でもあります。試験勉強と行事との兼ね合いが私には,子ども達にとってもそうでしょうが,なかなか難しいことであります。何にせよ,みのりの秋になるようにしっかりやろうかと思います。

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2004年8月 No.189

 先日ある高校の校長先生の講演があり,子育ての話でした。子育てが終わったような私たちでしたが,子ども達と接するについて参考になりました。私の勝手な要約ですが,次のようなお話でした。

 小さいとき,手の掛からない良い子,こういう子ども達はとても無理をしているケースがよくあります。何故かといいますと親の期待に合わせ,我がままを言ってみたい,甘えてみたいといった子どもとしての自然な欲求を抑え良い子を演じているからです。子どもは親の期待に合わせていますから,叱る場面もあまり無く,どちらかと言うと手の掛からない楽な子育てになります。その一方,親は子どものため子どもに心配をかけまいと努力をします。親の努力は立派なものですが,苦楽を共にするはずの家族なのに,親と一緒に心配をすることの無い子は,家族の中で自分をどんな存在だと思うのでしょう。物分りのよい親とよく出来た良い子,どうもお互いに無理があるようです。無理はいつまでも続きません。疲れた子ども達は色々な症状を起こし,本当に大変なことになってしまうことがあります。

 友達同士のような親子関係などとよく言われます。物分りのよい親になり,良い親子関係を作ろうと無理をしているのではないでしょうか?そもそも友達との関係と親子の関係は根本的に違います。友達とは良い関係を保つためにお互いに気遣いをします。嫌になれば離れていけばお仕舞いです。しかし,親子はどんなことがあっても親子なのです。つまらない気遣いをするよりは,素の自分を出して子どもと向き合うことが大切です。親は子どもとしっかりと向き合い,物分りが悪くなっても,だめなものはだめ,叱るべきときは叱り,話し合うべきことはきちんと話し合うことが必要です。手が掛かる,それが子育てでしょう。何にせよ,楽な子育てなどあるはずもなく,手をかけてこそ子が育ち,育てる親も本当の意味で親として育つのでしょう。

 こんな中身でしょうか?よく裸の付き合いなどと言いますが,自分の良い所はともかく,欠点や弱みをさらけ出すのは勇気が必要です。思うに,私には我が子に自分の弱点を見せるのはどうも出来そうにありません。でも本当に良い関係を作るためには,親子に限らず友人でも同じだと思いますが,欠点も含め丸ごと一人の人間として認めることが大切なのでしょう。

 また,親が子どもに期待し,期待にこたえようとする子,ある意味では当然です。しかし,親の期待は子の成長に伴い変化するようです。子どもが生まれるときは,五体満足であれば良い,ではないでしょうか?その後どう変わるのか?現実的な話では,テストの点数が30点から50点になった。じゃあ次は70点,70点取ったら‥‥。どこまでいくのでしょうか,どこまで行けば終わるのでしょう。

 私はどうだったのでしょうか?私の場合は「うーん」とうなってしまいますね。なんとも耳の痛い講演会ではありました。しかし,人の話を聞くことなどあまりない私には,とても参考になりました

★今日は海水浴日和だという日まで,塾で大変だなと思いながらの講習もありました。本当に久しぶりに夏らしく暑い夏でした。私は冷房を入れたこともあって,体がだるく感じられましたが(歳ですね),子ども達は元気に通ってきてくれました。子ども達が持っている力に比べ,成績が悪すぎるとおじさんもおばさんも感じています。本当の実力をまだ発揮していないと思います。暑くて大変でしたが,夏の成果をこれから発揮してくれると期待しています。しかし,こんな期待を私が持つのは子ども達にとってどんなものなのでしょうか?

★中3にとっては,試験続きの2学期です。息が抜けないと言っていいのですが,上手に抜いて,勉強に集中できるようにしてください。部活が終わり時間は十分にあるようですが,限られた時間ですから有効に使ってください。また,体調管理には十分注意してください。体調などと馬鹿にしないでください。元気でなければ勉強は出来ません,勉強にも体力は必要なのです。

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2004年7月28日(月) No.188

 子ども達から見ると,やらない問題。私から見ると,やらなくていい問題。数学の計算練習をする時,右一列とか偶数番号の問題だけをよくやります。学校でも家でも全部の問題を解くのが当たり前で,やらない問題があるのは塾だけかもしれません。そんなこともあって,子ども達は時々全部の問題をやってしまうこともあります。時には「どうして全部やらないの」と尋ねられます。私は「出来る問題を練習しても仕方がないでしょう。九九の練習をしても点数は上がらないよ。」と答えます

 計算の練習を考えてみます。何のために練習をするのか?計算を正確に出来るようにするため,速く出来るようになればもっといいでしょう。この目的が達成されれば,後は腕前が落ちないようにするためでしょうか? 目的が達成されれば,必要のない練習は遊んでいるのと同じ,いえ,もっと悪いかもしれません。遊びは気分転換になって,次の勉強に取り掛かるのに役立ちますが,意味のない練習のための練習は勉強の意欲をなくすものと私は思っています。

 計算練習を例に取りましたが,漢字や英単語の練習なども同じことが言えるでしょう。これらの練習について,子ども達を見ていると,どこまで出来るようになればいいのかと言った目安が無いように思えます。私に言われたなら,言われた通り,しゃにむに練習をしているように思えてなりません。目安は私が設定するべきなのかもしれませんが,自分の目標と言うか目的といったものは自分でも考えるようになって欲しいと思います。さらに,私の疑問は,上達するためにたくさん練習するほうが良い,と大多数の人が思っていることです。本当にそうでしょうか?目的のはっきりした勉強は,必ずや問題にふさわしい練習方法があると思います。当然,その方法は個々人によって違いがあるでしょう。

 勉強のやり方がよく分からない。よく言われますが,これは目的意識が無いということだと思います。漠然と勉強をするのではなく,今,自分は何を修得しなければいけないのか,何を上達させようとしているのか?目的がはっきりすれば,することは決まってくるでしょう?勉強をする時には目的意識をしっかり持つことにより,どうすれば目的が効率よく達成できるかを考えることが出来るようになるでしょう。

 実は,目的意識を持つことがとても難しいことなのだと思います。勉強の中で目標が簡単に定まるのは,計算練習,漢字の書き取りと英単語のスペルでしょうか。それ以外となると,漠然と点数を上げるという言い方になってしまうようです。そこで,気になることは,出来ないことばかりに気持ちがいってしまうようです。それは良いのですが,出来ないことすべてを一度に解決しようとしてしまうことです。すべて,何もかも手に入れようとします。無理が生じます。

 すべて捨てればいいと思います。何も無しから,必要なものを一つ一つ拾う。順位をつけて重要と思うものから。捨てることは勇気が必要です。なくして本当に有難味がわかると言うこともあります。手に入れることばかりを考えず,発想の転換かもしれませんが,捨てることを始めてみてください。今までと違った見方が出来るかもしれません。

 上手な収納が色々と話題になったように思います。何のことは無い,大人が捨てることが出来なくて困っていると言う話です。こんなことを書いている私は,古い本をどうしようか私は今悩んでいます。捨てろと書いてきましたが,なかなか捨て切れません。ようやく古い雑誌を捨てることに決めましたが,文庫・新書版の本はいまだに迷っています。他人には気軽に言えますが,いざ,わが身となるとそうはいきません。

 「使い捨ての時代」は終わり,「リサイクル社会」と言われます。そんな時代に,捨てることの薦めもおかしいかもしれません。「しかし,すべてを手に入れよう」という時代ではないと思います。必要なもの,あっても良いけどなくても不自由がないもの,無くてもいいもの,後で必要になるものなど,難しいことだとは思いますが,判断することが必要なのだと思います。

★子ども達の会話から‥‥おばさんから聞いた会話です。「かまくらで3年間暮らす」「本当にそんなことできるのかな。」これだけで爆笑だったのですが,おわかりでしょうか?話を聞いても,私は何がおかしいのかよく分かりませんでした。雪でかまくらを作るにはそれなりの降雪が必要です。雪のない地方で育った私には思いもよらない発想です。「鎌倉」と「かまくら」ちょっと思いつかない間違いでした。同音異義語の多い日本語の難しさとおかしさでした。

 

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2004年6月28日(月) No.187

 模倣,創造の対義語として国語の問題によく出てきます。広辞苑を引くと,創造「新たに作ること・新しいものを作り出すこと」,模倣「自分で創り出すのではなく,すでにあるものをまねならうこと」とあります。ところが続きがあり模倣は「幼児の学習過程,社会的流行,さらには高度の文化活動など,文化的・社会的に重要な意義を持つ。」とありました。創造に比べ模倣はまねですから,あまりよい意味で使われないような印象が強かったので意外でした。

 でも考えてみれば,人間は赤ん坊の頃から人の真似をして様々なことを覚えていきます。話し方や言葉は赤ん坊に話しかけることで,赤ん坊は口の形などをまねて覚えるのだそうです。そういえば,私の息子が文字を覚える頃のことでした。息子と私はテーブルか何かに向い合せに座っていました。私は彼が見やすいようにと,彼から見て正しく見えるように逆さに文字を書きました。ところが彼は,すっかり私の真似をして,逆さまの文字を書いたのです。私は大変驚きましたが,上下左右があるなどとは考えないで形をそのまま真似たのだから当然かもしれません。文字に限らず,子どもは何でも真似をします。まねをしながら様々なことを覚えていきます,真似ることは学習にとって大切なのでしょう。

 模倣という言葉を広辞苑で引いてみようと思ったのは,数学の時間に何となく「プリントに書いてあることを真似してやってごらん」と子ども達に言ったことがきっかけでした。実は,私は子ども達が簡単に真似を出来るだろうと思っていました。息子のように形をただ真似るのと同じ様に考えていたと言っていいでしょう。考えれば,プリントには問題がいくつかあり,どの問題を見本に真似るのかを自分で決めなければなりません。自分がこれから解く問題といくつかの見本の問題をよく読み比べなければなりません。同じ真似でも相当レベルが違います。模倣といってもそう簡単なことではありませんでした。特に,読み比べ,一つずつ言葉をつき合せて行くことが難しかった様です。ただ,子ども達は私が思った以上に真剣に問題を読み,苦労しながらも何とか解いたことに感心しました。「真似をしてごらん」ほとんど使ったことのない言葉です。でも,広辞苑にあるようにとても大切で,上手に使えばより効果的に学習が出来るのではと考えさせられました。

 そのとき使ったプリントは,真似をさせることを考えて用意したものではありません。見本とする問題やそのほかの問題の配列を工夫すればもっと効果的かもしれないと思いました。模倣といってもその通り写すわけではなく,少し違いがあります。どこまでが同じか注意しなければなりません。そして「真似をして」ですから,私が指示をするのではなく自力で読まなければなりません。指示がない,子ども達とっては大事なことのように思いました。だってテストの時には誰からの指示なく問題を解かなければなりません。それに指示がないことは子ども達にもうれしいことのように感じました。模倣・真似することができる上手な見本を作ればいいと,これから心掛けようと思っています。

★定期テストが終わりました。テスト,特に中一は初めてですから,張り切って,いえ,やみくもに勉強をしたかもしれません。一年生に限らずこんなに勉強したのに出来なかったとか,やった所が出なかったとか子ども達が言います。そして私が子ども達に「何時間勉強したにしろ2ヶ月間も学校で勉強した範囲です,テスト前の数時間の勉強で間に合うなら学校になどいく必要もないでしょう。」と言います。ポイントをどこに置くのか,つまりどこを捨てるのか,私達なりに子ども達に話しているつもりです。でも,なかなか捨てることは難しく,気になるときりがありません。また,出来ないこと,気持ちは分かりますが,全体で何点の部分でしょうか。捨てる部分を上手に決め,自分なりの短時間で効率のよい勉強を工夫して欲しいと思います。

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2004年5月26日(水) No.186

 「勉強が分かる,分からない」子ども達だけではありません。親もよく言います。勉強が分かるようになりたい。子ども達の気持ちは分かります。そして,その気持ちがあるから塾が成り立ちます。さて,その子ども達の気持ちですが,次のような文章にお目にかかりました。

 「英文多読の薦め」と言う指導法に取り組んでおられる中沢健次さんという方の文章です。面白かったので一部引用します。『中学生が,数学が分からないとか、英語が分からないとか言ってきますが、そんなセリフを言うのは10年早いと言えます。本気になっていないだけです。「できないと成績が下がるぞ」というわけの分からないおどかしをやめて、100点を取ったら100万円やるぞということになったら、どの生徒も目が覚めたように勉強するでしょう。ただ、これも勉強の目的が金銭になってしまい、実現は無理でしょう。必要に迫られ、本気になれば、何でもできるというたとえです。』子ども達がどのくらい本気になっているか,勉強に取り組む姿勢ということです。

 子ども達の勉強に対する姿勢で気になることが二つあります。

 一つは,教科担任の教師に対する子ども達の愚痴です。いえ愚痴をこぼすのはかまいません。誰もが愚痴の一つや二つ言いたくなります。「A先生の授業は分からない」入学したばかりの一年生ならともかく,二・三年生の言うことではないと思います。自分がすでにA先生の授業を受けているか評判を聞いているはずです。それなのにA先生の授業をあてにしたり,何かを期待したりしている様子が見えます。そして,分からないのはA先生のせいだといった雰囲気があります。確かにA先生に責任の一端があると思います。しかしA先生の授業を受けている全員が同じ様に分からないということはありません。良くできる子もいます。分かる子と出来ない子の分かれ目は何でしょうか?やはり,出来る子は自分で対策を取っているのでしょう。先生に期待したり,責任を転嫁したり,どのくらい本気なのか疑わしいと言うことになります。

 二つ目は,今年の春のチラシの問い合わせ電話で気がついたことです。あちこちの塾のチラシに,部活との両立をうたい,曜日や時間帯の調整が出来るように書いてありました。おばさんが電話を受けたのですが,問い合わせの電話は部活ではなく,何かのスポーツ少年団に所属している子の母親でした。とても熱心な少年団のようで,子どものスケジュールがなかなか組めないので,少年団のスケジュールにあわせて塾のスケジュールを組んでくれるかというお話でした。塾のある日に少年団の予定が入れば,変更してもらえるかといった内容でした。ぼんやりとおばさんのやり取りを聞いていた私ですが,腹が立ってくると同時におかしくもなりました。「母さん勉強をなめているよ。少年団の片手間で勉強をやらせようとしている。勉強をこの程度の物,片手間で出来ると考えている,勉強は軽いものなんだ」確かに,片手間で勉強をこなしていく子もいるでしょう。しかし,ほとんどの子にとって,勉強はそんな甘いものではないと思います。何よりも,親が勉強をその程度に,スポーツの合間にやればいいと見ているということは,子どもだって勉強を同じ様に見ているでしょう。子ども達と一緒に勉強をしている者としては寂しい思いもありました。お世辞にも本気に勉強と取り組むなどと言えたものではないでしょう。これなど,親や大人の姿勢がそのまま子ども達に伝わっているのだろうと思います。

 子ども達の姿勢と書いてきましたが,大人の姿勢,どう見ているかがそのまま子ども達に出ているのかもしれません。子ども達にとって今,何が一番大切なのか,一番と言い切れるのか?少々疑問です。子ども達が何にでも様々なものに取り組み,大切なものを自分で見つけることがきっと必要なのでしょう。

 子ども達と一緒に勉強をする私としては,やはり勉強を中心に考えてしまいます。スポーツや他の習い事は,それで身を立てるというなら別ですが,楽しみとして色々なことをやるのは,とても良いことだと思います。私達としても,出来る限り子ども達のスケジュールを尊重したいと思いますが,勉強をするときはする,スポーツはスポーツ,遊びは遊びと割り切ってしっかりやりたいと思います。

★定期テストは必ず受けてください★定期テストを受けることができなかった場合,成績は低めにつくようです。ですから,多少体調が悪くても必ず定期テストを受けてください。もし,定期テストが近くなって具合が悪い時は,無理をせず,学校を休み体調を整えてテストを受けるようにしてください。

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2004年4月23日(金) No.185

 よく言われる言葉ですが,春は出会いとともに別れの季節です。この春大学を卒業し本州方面に就職するメンバー(浪人したり留年したりで,まだ学生も混じっていました)が,おばさんとおじさんに会いに来てくれました。キャンプやスキーに行き,気心が知れていたこともあって,中学が違っても仲のよい学年でした。しかし,何と言っても「ひげの名言集」を書きとめた学年というほうが印象的です。塾に置いてあったノートに,私がよく使う言葉を書き連ねたのです。言った私は覚えていないというか,意識していないので名言集を見て驚きました。書かれた言葉は,意識するせいか,しばらくするとまた使うのですが,一時期なんだか使いづらく不自由というか,言葉がすらっと出ないなんてこともありました。それを見た,後輩に当たる塾生達も名言集を残していきました。ただ,私が中心ではなくなり,仲間達の名言集が主になりました。学年が違うと何のことだかわからない言葉もたくさんあります。そうしたことも仲間意識を育てるきっかけになったのでしょう。私が忘れてしまった言葉も彼らが来ると話題になります。そして,今は使わなくなった言葉もあれば,いまだに使っている言葉もあるようです。

 書かれてからというもの,私だってそれなりに工夫するようになりました。表現を変えマンネリを避けようとしています。しかし,「最近は名言が出ないね」と厳しく指摘されたこともありました。考えてみると教科書の内容が変わったからと言って,塾でやる内容に大きな変化はありません。まして最近は内容が少なくなっただけですから,同じ中身です。私の話す内容はそうそう変化の仕様がないのです。まあ,こんなことは子ども達には分からないし関係がないのですが,私にすれば,新たな名言を生み出すのが結構難しいのです。でも,ひょっとして新しい表現を思いつくときもあるかもしれません。そもそも,そんなにたくさんあれば名言でもなんでもなくなってしまいますね。

 色々なことを思い出させてくれる卒業生です。彼らのように今の塾生にも思い出してもらえる名言を今も言っているのでしょうか。知らない間に子ども達の記憶に残るような言葉が言えればいいなと思っています。そんな彼らが,社会人となり北海道を離れ,親元を離れ一人暮らしを始めます。便利になった世の中ですが,一人暮らしの大変さは昔も今も変わらないともいます。私もそうでしたが,親の有難味がよく分かり,仲間達と居ることのすばらしさも感じるでしょう。帰省した折にも遊びに来てくれることを楽しみにしているおばさんと私でした。

★この春休みはとても忙しかった,この後,名言集が出来る前のすでに結構長く社会人をしている卒業生と,出来てからの卒業生と二組も遊びに来てくれました。こんな忙しさは楽しいですね。昔話に花が咲きました。今,書いた文にこの二組の卒業生のことも混じっているかもしれません。昔の話だけでなく,これからも名言が生まれるようにしっかりやって,それに古い名言集をきちんと保存しなければと思っています。

★公立高校の入学者選抜方法(入試)が変わります。

 ○推薦入試‥‥普通科でも各高校の判断で実施できる。

 従来は,国際情報の普通科だけが30%の推薦枠

 来春から北陵・新川・拓北の各校で定員の20%の枠を設ける予定

 ○一般入試‥‥学力重視・内申重視の枠がそれぞれ15%になります。

 学力重視・内申重視の枠がそれぞれ10%から15%に

    • 英語のヒアリングの配点が12点と倍増します。

詳細は同封のプリントを見てください。

 普通科で推薦入試が実施される高校では,一般入試の枠が小さくなります。内申点があれば,より有利な選択が出来ると言えるでしょう。また,内申重視の枠が5%増え,推薦と合わせると定員の35%が内申点で合否が左右されることになります。

詳しくは,まだ分かりませんが今春の入試でも,絶対評価の導入による内申点のインフレが予想以上に進んでいるようです。上位・中堅校の合格最低点はあまり変化していないようですが,合格最低ランクは確実に上がっていると思います。ますます内申点が重要になります。ランクがなければ,スタートラインにさえ立てない状態になってきました。

 絶対評価の導入により,評価の中学間格差はどうなっているのでしょうか。評価にどこまで公正さが保障されているのかが分かりにくいと私は思っています。私立の光星など,内申を見ない高校もありましたが,公立は一層の内申点重視の入試となるようです。

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