ごあいさつ

通信Back number2005年4月~2006年3月

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2006年3月27日(月) No.208

 三月は公立高校の受験があり,受験勉強から開放される時です。そして「39,600人に『春』」と合格発表の日の北海道新聞の夕刊の見出しにありました。何気なしに思ったことが「不合格だと春は来ないのだろうか?」目標に向かい,つらい受験勉強をする冬の時期を過ごしたのだから,『合格』=『春』なのは納得できなくはないけれど,アマノジャクの私はどこかひっかかるものを感じました。

 受かった子も受からなかった子も受験勉強をしてきのですが,頑張った子が合格したとは限りません。合否とがんばりの度合いは一致することもあればしないこともあるでしょう。

 ところで,新聞の教育欄にはよく「結果だけでなく,過程が大切」等とよく書いてあります。しかし,『合格』=『春』となると「結果オーライ」の子どもにだけ,春が来るようで何とも冷たい表現ではないでしょうか?勉強は良いことなのでしょうけれど,受験勉強は一種の競争だと言っていいでしょう。合格は勝利であり,不合格は敗北でしょうか。まさに結果がすべてといえます。しかも,よく子ども達に「結果オーライで良い」と言っている私ですから『合格』=『春』で何も問題はありません。ただ,新聞の教育欄の普段の論調からは,少々ずれているとアマノジャクな私が勝手に思っただけなのです。

 受かろうが落ちようが,受験生だった彼らは新たなスタートを切ったといえるでしょう。あまり選択肢のない義務教育を卒業し,自分の責任で自分の進路を選択していく人生への第一歩を,『春』から歩き始めるのです。

 合否は事実として受け入れなければなりません。しかし,それは今現在の結果でしかありません。スタートでつまずいたからといって,それですべてが決まるということはありません。その結果に至った過程から何を学習するのか?つまずきをどう生かすのかがより大切なのだと思います。勉強がそうですが,間違いや失敗から何を学習するかが,その後の成果に大きく影響すると思います。そして成功した人は,その成功に浮かれることなく次の目標を定めスタートを切ることになるでしょう。しかし,えてして成功した結果からは学ぶことの少ないことがありがちかもしれません。良い結果が出たのですから,現状を良しとする気持ちが働いて当然なのかもしれません。今後つらいこともあるかと思います。そんな時,どうかすると過去の成功を懐かしむようなことにならないように注意してほしいものです。今までよりも広い世界へと進むのですから,新たな出会いも多いかと思います。新しい世界から刺激を受けとめるアンテナを広げ,充実した楽しい高校生活を送ってくれるようにと願っています。

★公立高校の受験を終えて思うことは,ますますランクが必要。ランクがあれば推薦という選択肢も使えます。受験機会が増えることにもなりますから,いいかもしれません。ランクが足りなければ,徒競走でいえば,スタートラインより後ろからスタートするようなものでしょうか。そして,ランク確保のため,受験科目ではありませんが,音楽・美術・技術家庭・保健体育の4教科でしっかりランクを取りましょう。Gランクはオール3です。つまり,4教科でせめて3を確保しないとGより上のランクを取ることは厳しいといえます。

 相対評価の頃は百人中5をもらえるのは七人と決まっていました。そして必ず七人には1がつきました。しかし,絶対評価は相対評価と違いランクを取ることは可能です。絶対評価には人数の枠がありませんから,全員が5でもかまいません。4教科は時間数が少なく,試験勉強も短い時間ですむと思います。ランクを取ると考えると,とても効率が良いといえます。提出忘れや,忘れ物をしないように注意してください。

 

★今年の公立高校の入試問題は数学が難しく,国語が易しかったようです。数学が不得手な子はよかったかもしれません。社会科は完全解答が増え,平均点が下がったようです。断片的な知識ではなく,関連付けて覚えることが要求されます。また,理科も社会も共通しますが,読ませる問題が増えたように思います。当然ですが,読む力がどの科目にも要求されます。教科書の内容が少なくなり,出題者は色々と工夫をしているようです。

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2006年2月22日(水) No.207

 まだまだ先と思っていましたが,今年も受験の時期になりました。通り過ぎてきた私などは何処かで「たいした事なかった」等と思っています。でも,子ども達にとっては初めての経験ですから,「私立高校は特別なことがない限り落ちないよ」と話しても,色々と不安が残ります。ペーパーに向かう試験は経験していますが,面接は未知の世界で,試験よりも緊張するようです。学校でも対策として,挨拶の仕方から答え方まで,練習をします。でも子ども達の話を聞いていると,服装や言葉遣い等とても細かいことを注意されるため,不安はかえってふくらむのかもしれません。

 なんといっても「何を質問されるのか」これが子ども達にとって最大の不安のようです。中学側は卒業生から質問の内容について情報を集めていますから,子ども達にしっかりと練習をさせています。練習の質問は「志望の動機」と「入学してから何をやりたいか」の二つが定番で,部活をしていた子は「部活をするかどうか」も定番のようです。

 難物は「志望の動機」で,私やおばさんもどう答えればいいのだろうかと子ども達から質問されました。子ども達は親とも相談をし,それなりの理由があって受験校を決めています。しかし,いざ正面きって志望の理由はと聞かれると,戸惑うのは無理のないことでしょう。はっきりと目的があって受験をする子もいますが,大半の子ども達は私立高校を滑り止めとして受験します。まさか「滑り止め」と正直に答えるわけにもいかないでしょう。実際は自分の成績と通学の便などで選ぶことが多いのですから,私など「自分の実力とあっている」と正直に答えてもいいと思っていました。しかし,これはだめです,受験する高校の何処に魅力を感じたかを言わなければならないとのことでした。

 たかが数分の面接で,よほどのことがない限り合否に直結しているとも思いませんが,こう考えてくるとちょっと面倒です。

 子ども達の立場からすると,あまり正直に答えられない,でも,嘘ではなくそれらしい答えをしなければなりません。ひょっとしたら初めて高校の案内のパンフレットを真面目に見る子もいるかもしれません。選んだ後から魅力を探すという,本当とは逆じゃないのといった状態になっています。でも,これはこれでいいのかもしれません。「なぜ,選んだのか」こじつけでも何でも理由を探すことは,子ども達にとって,自分の将来の希望や今の気持ちを,じっくりと見つめる機会になっているともいえます。また,良さ・魅力を探すことはこれから先のことを考えるととても役立つに違いありません。彼らには将来があります。どんな環境に身をおくのかわかりませんが,何処でどんな状態であったとしても,素敵なもの魅力のある何かを見つけることができることはすばらしいことだと私は思います。

 さて,選ぶ高校側はどんな思いで質問をしているのでしょうか?長くて十数分の面接で,どの程度人物についてわかるのでしょうか?私が塾で接している子ども達,私の知っているどんな点がわかるのでしょうか?まさか子ども達のあら探しをしているとは思えません。おそらく,自分の高校にふさわしい子かどうかを見ること,また,これからどう伸びるかといった子ども達の可能性を考えているのでしょう。

 子ども達は面接にそなえ服装や頭髪なども整えているし,それなりに答を準備しているでしょう。面接を受ける側は自分をアピールするということを考えればそれなりの準備をして当然でしょう。する側だってそんなことは百も承知の上で子ども達に質問しているのでしょう。子ども達を見る暖かいまなざしが,そこにはあるのだと思います。

 ところで選ぶ高校は,実は選ばれる側でもあります。「志望の動機」裏返せば高校の魅力でもあります。選ばれる高校としては何が子ども達にアピールするのか知りたいのは当然のことかもしれません。

 そして,先週末に私立の入試が終わりました。子ども達に聞いてみると定番の質問がほとんどで,落ち着いて面接を終えました。今は公立に向けて最後の追い込み中です。

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2006年1月22日(日) No.206

 子ども達は色々なスポーツをしています。野球・サッカー・テニス・バスケ・バレーと様々です。私自身はというと,たまにスキーに行く程度で何のスポーツもしていません。しかし,スポーツ観戦は,もっぱらテレビ観戦ですが,大好きです。ですから,何もスポーツをしていなくても,子ども達のスポーツの話題にそれなりについていくことはできます。そして,スポーツを例え話として勉強のときによく使っています。「ボールや相手を見る様に字をよく見て」といった調子です。

 楽しいスポーツの話を勉強に持ち込むのは,子ども達には迷惑かもしれません。しかし,スポーツと問題を解くのはよく似ていると思えてなりません。字を見ないで解ける問題がないように,陸上や水泳はどうかわかりませんが,見ないでできるスポーツはあまりないでしょう。そして,プレーヤーはプレー中,状況に応じ自分で判断を下す必要があるでしょう。いちいち監督やコーチの指示を聞いているとは思えません。テスト中の子ども達も同じように自分の判断で問題に向かわなければなりません。また,上達するためには,少々つらくとも目的にかなった練習が必要です。このつらいところが一番の共通点かもしれません。

 勉強とスポーツというとまるで違うもののように言われます。確かに,やることというか内容はまったく共通点があるとは思えませんが,上手になるため,勉強では点数を取るために心掛けないといけないことや注意することはよく似ていると思います。

 目の前のことだけではなく周りも眺めておく,先のことは予測してみる,最後は自分で判断し結論を出す。スポーツは自分の判断をもとに身体を動かさなければなりません。勉強は手を動かすだけです。身体はなかなか思うように動いてくれないことがあります。しかし,手にはそんなことはめったにないでしょう。そう考えると勉強のほうが楽なのかもしれません。まあ,テレビ観戦専門の私の思うところですし,子ども達に何とか納得させようと,かなり強引にこじつけているところもあるかと思います。

 テレビ観戦といいますと,お正月の楽しみの一つにラグビーとアメリカンフットボールのゲームの中継があります。どちらも楕円形のボールを前に進めるゲームです。ボールを手に持って前進するのはどちらも同じですが,アメフトと違いラグビーは前にボールを投げると反則になります。ですから,選手は前に走りながら後ろへ後ろへとパスをします。前に進むつもりが後退していることもあるでしょう。前に進むのに前に投げてはいけない,不思議なルールです。勉強には法則という名の自然界の不思議なルールがあります。ルールを覚えることはスポーツでも勉強でも大切なことであることは共通しています。

 ラグビーの選手が一列に並び,後ろへ次々とパスをしていくシーンを見るのがなぜか好きです。パスがつながり前進しているときなど,不思議なルールが作り出す,とても美しい光景を見ているように感じます。勉強という世界にも,法則という名のルールが作り出す美しい世界があると思います。私が見つけられないのか,見つけても子ども達にうまく伝えられないのか?子ども達に何か感じてもらえるような説明ができるようになりたいと思っています。

★21日に大学入試のセンター試験が始まりました。英語に初めてリスニングが導入されました。不公平がないように49万人を超える受験者一人一人に再生装置を用意したということでした。そして,装置の具合が悪く400人以上が再受験すると,大きく新聞に取り上げられていました。受験者は49万人ですから,1%で4900人,0.1%で490人,調子の悪かった装置は千台に対し1台以下となります。果たしてこの比率が高いのか低いのか,ひょっとしたら日本の工業技術の信用に関る数値なのでしょうか?なんとなく気になる数値ですが,私にはちょっとわかりません。それよりも驚いたのは,大学入試センターの「不具合ゼロと思っていた」というコメントです。ミスに対する準備はできていたのだろうか,受験生が気の毒にと思えてなりません。神ならぬ人間の仕業です。本当にミスが無いと思っていたのなら,よほどの楽天家か,思いあがりとしか思えません。私は,ミスがなければとてもラッキーだったと思うようにしたほうがいいと思います。万全の準備と思ってもどこかでミスを犯すのが凡人です。ミスに対して不寛容なこの国では私のような考えは受け入れられないのかもしれません。しかし,ミスを無くすようにするのは当然ですが,ミスをいち早く見つけ,どうカバーするか心掛けるほうがより現実的だと思います。

 

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2005年12月26日(月) No.205

 今月,12月初め,いつもと違って随分と静かな授業を二日ほどやりました。子ども達も神経を使って大変だったかもしれません。子ども達がシーンとなって集中するほど,特別にすばらしい授業をしたのなら良いのですが,そんな立派なものではありませんでした。ここ数年,期末テストの後で風邪を引きます。今回の風邪は声が出なくなりました。声が出なくて聞き取れないため,とても静かな授業となった次第です。

 しかし何だか不思議な思いがしました。私が聞き取れないほど小さなというか,ささやくように話すと,子ども達は私の話を聴こうと静かになる。ということは,私が皆に聞き取れるような大きな声でしゃべるとします,子ども達は私の話が聞こえるので,静かにしないということでしょうか?確かに,子ども達がしゃべっていて,その声に負けないように大きな声を出す。そうすると子ども達の声は一段と大きくなっているのかもしれません。

 人口の多い都市に住む人は,歩く速度が速いそうです。確かに,大阪に里帰りし,地下鉄の階段を歩いていると,私はどんどん追い抜かれていくようです。歩く速度に限らないようです。郊外をドライブしていると前をのんびりと走る車があって,快適に飛ばしていた私がいらつくことがあります。そして,のんびりと走る車はほとんど地元の人の運転のようです。人が多いとせわしなくなるのでしょうか?

 速度と同じ様に,音というか騒音というか,人が多い所ほどうるさいのではないでしょうか。そして子ども達は様々な機器を持ちヘッドホンで音楽を聴いています。ヘッドホンから音が漏れ,私に聞こえるほどの大音量で聞いていることが珍しくありません。周りが騒がしくとも,ヘッドホンですからよく音楽は聞こえます。しかし,周りの音は聞こえません。そんな彼らと話すと,まるで耳の悪い人と話しているように思ったりします。そして,そんな彼らは必ず大きな声でしゃべります。人口の多い都市と少ない都市で声の大小など調べた調査は無いのでしょうが,密集度に比例して人の話し声は大きいのではないでしょうか。

 音楽を聞きながらの「ながら勉強」,私の学生時代からすでにあったことです。当時は珍しかったのかもしれませんが,今は普通のようです。牛に音楽を聞かせると乳の出が良くなるとか昔新聞で読んだことがあります。音楽を聴きながら勉強をすると効率が良くなるのかもしれません。

 しかし,遠い昔,人類が獣を追っていた頃,反対に獣に追われることもあった頃,音を立てることは自分の居場所を相手に知らせるわけですから,追うにも逃げるにも音をたててはいけなかったでしょう。ところが現代は,電気製品などのうるさいこと,電子レンジも洗濯機も,ファンヒーターまでピーピー,極めつけは携帯電話の着信音でしょう。世の中がこれ以上便利になると今よりもうるさくなってしまうのでしょうか。静かな音の世界,私にもよく分かりませんが,現代や未来の子ども達には無縁なのかもしれません。

 まだまだ,この辺りは夜がふければ静かな地域だと思います。便利な機器の音を消して,たまには静かな中で勉強することもいいのではないでしょうか。しかし子ども達は静かだと,かえって落ち着かないのかもしれません。

 しかし,何はともあれ私の声を聞き取るために静かにしてくれたのですから,子ども達に感謝しなければいけません。

★毎年のことですが,何かに追われたように一年が終わります。実は受験生はこれからが最後の大詰めであり,春を目指して頑張る時期です。当然,私もこれから講習があり一踏ん張りしなければなりません。そのため,風邪を引いたりしないように注意してください。気象庁がこの冬の予報を寒冬と訂正しました。年末年始と生活リズムが狂いがちです。体調管理には十分気をつけ,良い年をお迎えください,私としては良い年になるよう創意と工夫を凝らすつもりです。

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2005年11月 No.204

 毎年のことですが,今月は学力Cに始まり,試験に追われた月でした。二学期の定期試験は一学期に比べると格段に広い試験範囲でした。今回の定期試験は教科書の半分とまではいかなくてもそれに近い範囲になっています。範囲が広い上に,今までの反動なのか,学力低下が叫ばれたせいか分かりませんが,問題が少し難しくなったように思います。平均点が六十点を超える科目は少なくなったようです。そうかと思えば,記号が多く易しいテストもあったようです。

 子ども達を取り巻く教育環境は,なんだか分かりにくい状況のようです。来年度から教科書が変わります。本来は手直し程度の小さな変更の年度ですが,今回は違います。発展的内容として,教科書から削除された内容が復活します。復活は主に数学と理科ので,教科書が厚くなります。教科書には復活しますが,道の高校入試の問題には出ない,ということです。しかし,定期テストには出題されるでしょう。しかも,発展的内容が増えたからといって授業時間が増えるということは聞いていません。発展的内容を入れると忙しい授業になるでしょう。

 中学でどのような扱いになるのか?中学の扱い方は自由で,習ったり習わなかったりと違うようです。ひょっとして教師が違えば取り扱いが違ったりするのでしょうか?習う子と習わない子がいるとなると,高校ではどのように扱うのでしょう。クラスの中で数名だけが習っていない時などはどうするのでしょうか? 

 今でさえ,中学間の格差が取りざたされる内申点はどうなるのでしょうか?内容が増える中学と増えない中学,でも五段階評価は今までと同じような扱いなのでしょう。私が心配したところでどうなるものでもありませんし,子ども達が落ち着いて勉強に取り組めればなんら問題ないことです。でもやはり気になることです。

 話が来年度のことになりましたが,今回のテストの点数が五段階の評価と無関係ではありません。少し難しめのテストであれば,子ども達の点数が下がったかもしれません。一体,どのような評価がつくのか,少し気がかりです。

★今に始まることではありませんが,塾の子ども達の話によれば,子ども達の通う北区のはずれにある中学は,特定の中学を除きレベルが低いそうです。何を持って中学のレベルというのか,難しいことではありますが,子ども達を教えている教師自身が,そういっているようです。

 レベルの高い低いは,学力A・B・Cの平均点の違いなどからきていると思います。確かに平均点は高い中学と比べるとかなり低いのは事実のようです。事実を子ども達に話し,子ども達が自分達の状況を知り,色々な中学があることを知ることは大切なことだと思います。

 

 そして,中学の教師は「奮起してほしい」という気持ちからそんなことを言うのだとは思いますが,言われる側は「レベルが低い」と言われてうれしいとは思わないでしょう。それに子ども達を見ていると,そんなことを言われたからといって奮起するとも思えません。どちらかというと,自分の成績が悪くても中学のレベルが低いから仕方がないといった調子で,安住してしまうように見えます。そもそも,平均点を比べたところで,子ども達一人一人の実力が分かるはずもありません。人のことをとやかく言えませんが,子ども達を励ますなら一人一人に配慮した言い方をしたいと思います。

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2005年10月25日(火) No.203

 ここ数年,高校入試の理科・社会には「簡単に説明しなさい」という問題がよく出題されています。特に理科では計算問題よりも多く出題されているほどです。今年の中三A・Bの二回の学力テストでも理科の計算問題は一題しか出題されませんでした。学力Cではどうでしょうか?

 いつの頃からか,中学生のテストは問題と解答用紙が別になり,解答用紙に答だけを書き込む形式が普通になりました。解答欄には語句と記号とが記入されるだけです。数学も途中経過は無く,答だけを書く問題がほとんどになりました。思うに大学入試のセンター試験はマークシートですから,まさに記号だけの世界です。「説明しなさい」という問題が増えたのは,そうした記号や語句だけの世界に偏ったことへの反動なのでしょうか。

 当然ですが,選ぶ側・出題者は何らかの意図や目的を持って試験を作ります。問題を作る側は,今までの問題を反省し,より目的にあった問題を作ろうとします。あるいは,選ぶ側の目的が記号や語句だけでは達成されないため,説明能力や記述力いった力を選ぶ側が重視するようになったからかもしれません。

 問題を解く側は,問題を作る側の目的を十分に考えるべきでしょう。相手がどんな解答を書いて欲しいと考えているのか,相手に合わせた解答が必要になります。答える側は, 答案を通して作る側の目的や意図を十分に理解していることをアピールすることにより,高得点を得ることができることになります。つまり答案用紙は,問題作成者や選ぶ側に見せることが目的です。ただ見せるだけではありません。自分をアピールするためのものです。

 こう考えると,試験だってスポーツの試合のようなものと言っていいと思います。スポーツと違って対戦相手は目の前にいません。問題用紙,文字と記号という形で現れます。こちらは筆記用具だけで対戦します。

 まず,相手の目的や作戦は,文字と記号から読み取らなければなりません。問題に書かれている文章を正確に読むことが要求されます。例えば,「正しいものを選べ」あるいは「誤っているものを選べ」なのか,問題に書かれたことを間違えてはいけません。それ以上に厄介なことは,問題文中にはヒントだけでポイントがストレートに書かれていない時です。例えば,二等辺三角形と書いてあれば同じ長さと,大きさの角を見つける必要があります。また,同じ事柄を違った表現にするというように,出題者は様々な工夫を凝らします。これらに対応する練習が必要なことはいうまでもありません。隠されていないか,よく注意して読む必要があります。

 次は,答えなければいけません。中学生を見ていると,高校生でも同じようですが,答え方が実に下手なようです。「簡単に説明しなさい」が増えたのはそのせいかと思ったりするほど答え方はまずいと思います。

 答案用紙は見せるものだという意識があまりにも無い子どもが多いと感じます。塾で解く問題はテストではありませんが,テストのための練習です。自分はよく分かっている・できるのだと訴えるものでなければなりません。分かっている・できるまでは良いのですが,採点者を意識しない独りよがりの答案が気になります。よく知っているのだといわんばかりに,聞かれてもいないことを何でも書いてしまいがちです。

 そして極端な例は,読めない字を書く,まったく採点者の目を意識していません。読めない字は零点かも知れません。反対に採点者の目を意識しているのは良いのですが,無用に綺麗な字を書くといったところでしょうか。綺麗な字はアピールする方向が違います。綺麗だからといって3点の問題で4点はもらえません。試験には制限時間があります。

 数字と記号は○か×がはっきりしています。それにくらべ「簡単に説明しなさい」は○か×の基準があいまいになります。採点者にとっては大変な労力になると思います。それにもかかわらず,このタイプの問題が増えているということは,選ぶ側の意図として説明能力や記述力を求めていると考えていいのだと思います。こどもたちには○や×よりも自分の力を表すのが大変な状況だともいえます。今までの計算や書き取りといった練習とは,質の違った練習が必要だといえるのかもしれません。

 

 人に見せる答案,もっと子ども達に訴える必要があると感じています。

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2005年9月27日(火) No.202

 中二の数学で,一次関数の勉強をしています。最初に式を見てグラフを描く練習をします。グラフは直線なので簡単に描けそうなのですが,思わぬところで,つまずく子がいます。中一で習った比例のグラフの知識が邪魔になることがあるのです。比例のグラフは一次関数のグラフと同じ直線ですが,一次関数と異なり,どれも必ず原点を通ります。 子ども達は中一のころ原点を通るグラフを何本も描いてきました。その印象が強いのでしょう。原点を通らない一次関数のグラフでも,何とか原点を通そうとするのです。原点を通らないことを納得させるのが,結構大変なのです。

 最初に練習したことが強く印象に残っている,第一印象のインパクトが大きく,イメージを変えるのは,なかなか大変なことです。でも,反対に考えると,大変でも子ども達がグラフに対して持つイメージを変えてやればいいのです。子ども達が一次関数のグラフのイメージを上手に持てれば,簡単にグラフが描けるということだと思います。

 今までも,グラフをイメージするようにと子ども達に言いました。しかし,これほどうるさく言うのは初めてです。先月,少し書きましたが,高校生と数学を解いていて,グラフの形がイメージできると解ける問題が多いことに気がついたからです。「一次関数の式を見て,グラフをイメージできる,反対にグラフから式をイメージできる」これができると解きやすくなることは間違いありません。そこで,口うるさく「イメージして」と私が言うことになります。数学に限らず,私自身は気がつかないけれど,どの科目でも言っているのかもしれません。

 私が口うるさく言う,つまり子ども達がイメージしていない,ということでもあります。イメージを造るということは,そう簡単なこととは思いません。しかし,子ども達は造ろうとしていないようにも思えます。子どものほうが大人に比べ想像力があるのだから,イメージだってと思いますが,勉強となると別物のようです。

 どうすればイメージをうまく造れるのか?色々あると思いますが,どこか気持ちに余裕があり,遊び心が必要なように思います。切羽詰ったとき,何かに追われているようなとき,必死に何かしているときはイメージも何も関係が無いのではないでしょうか?子ども達の勉強は,何か追われているようなところがあるようです。絶対評価になり増えたのが,いついつまでにノートやワークの提出,そして漢字や英単語を何回も書くといった練習などです。どれにも共通するのは,書き写すという作業です。問題をどう解くのか,漢字や英単語の読みや意味は何か,そんなことを思うよりも書くことが忙しいという感じです。思えば,小学校の九九の練習で時間を競うようです。九九のリズムや,答えの面白さを思うことは無いようです。なんだか面白みに欠けるのが勉強です。

 子ども達が何か。イメージを持ち,そこから何か面白みを感じてくれればいいと思っています。何か感動できれば本当はいいのですが,これはもっと難しい。そして,グラフに限らず,図形の問題などイメージが持てれば解きやすいことは間違いありません。数学に限らず,どの科目でも同じことが言えます。イメージを造る,子ども達がイメージを持てるように説明する,うまい方法があればいいのですが,そんなに甘くはありません。間違いないのはグラフのように,目で見える形があれば楽で,私は助かります。しかし,理科の電気や原子など,絵に描くことが難しいものもあります。なかなか苦しい思いをします。そこを何とか,色々と手を換え品を換え工夫をするのが私の仕事でしょうか。確かに,うまくいったときはなかなか楽しいものです。いつもいつもうまくいくとは限りません。

 

 しかし,イメージが持てればすべていいわけではありません。最初に書いた比例のグラフのことなど,「刷込み」と言う言葉を私は思い浮かべます。鳥などは卵からかえり最初に見た動く物を自分の親と認識し,訂正は難しいそうです。間違ったイメージが出来上がると,これはもっと大変なのです。正しい,少なくとも間違いでないイメージを持ってもらわなければなりません。それを心して,子供たちのイメージが膨らむような,説明ができればと,それができる様に工夫しましょう。

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2005年8月22日(月) No.201

 北海道学力コンクール,中学生だけが受けるように思われているかもしれませんが,私たちは小学五年生から受験するようにしています。コンクールの意味や問題のレベルについて,学校のテストの様にはいかないぐらいは言ってありますが,子ども達に事前に詳しく説明することはしていません。子ども達はテストを受け問題の難しさに,次に結果が来ると満点の子もいるなど成績を見て, 一様にショックを受けます。五年生だと私立中学の存在や,まして入試があることさえ知らない子がいます。そしてその入試を目指し,勉強をしている同じ学年の子がいることを初めて知ることになります。カルチャーショックと言ってもいいかもしれません。

 学校の国語のテストは教科書の文章がそのまま出ます。習ったことを思い出しながら出来ます。しかし,道コンは当然ですが,読んだことのない文章から出題されます。算数にしても,ひねった問題が出されます。それなりの準備練習をしていない子ども達には,ちょっと気の毒と言えます。

 そんな道コンをなぜ受けさせるのか?まず,知ってほしい,それだけかもしれません。こんな問題があること,その問題を解く子がいることなど,現実を少し知ってもらえればと思います。知ることが対策とか勉強をどうするかなどを考えるきっかけになるでしょう。

 テストで点数を取るには,物事を知っている,知識があるだけではうまくいきません。問題の読み方・答え方,テクニックと言うほうがいいのかもしれません。小学生など真面目ですから,「わからない問題に,思いつきで答えを書いてはいけない」,「何がなんでも一番から順番にやらなければ」など本気で思っている子がいます。こんな調子で中学の試験を受けてはたまりません。

 試験やテストがどのような目的で行われるのか?本質的なことを考えれば,とても難しい問いです。現実的な側面としては,入学者の選抜や成績をつけるための資料として使われています。そして,それらでは結果である点数がすべてとなっています。ですから,どのように考え,解いたかなど,あまり意味がありません。たとえば数学で,計算間違いで最後に間違えれば零点,適当に書いた答えでさえ,あっていれば,何点の世界です。冷たい言い方ですが,現実です。

 こんなテストですから,成績が悪かったからとあまり心配しないでください。まして,中学の成績に直結するものではありません。まして,これから伸びていく子ども達です。今後の勉強のきっかけになればいいと思っています。

 これは中学生にも,同じことが言えます。みんな成長の過程にあります。昨日の子どもと今日の子どもは同じに見えても,実はどこか違っているかもしれません。失敗があるからこそ,失敗から何かを学ぶことで人は成長するともいえます。

 私のような歳でも成長はあると思っています。まして,子ども達です,これからどんどん伸びていくでしょうし,私たちが,少しでも子ども達を手助けすることが出来ればと思っています。

★ここ数年,高校生を教えています。高校生と勉強していると,テストは,ともかく結果がすべてと感じさせられます。一緒に解いているのは,大学の受験ですからセンター試験の数学です。時々ですが,問題を読んだだけで,答えのわかることがあります。私としては高校生に説明のしようもないのですが,答えがわかってしまうのです。こんなことで良いのだろうかと考えさせられます。

 

 でも,高校生と勉強していると,中学生の勉強にもとても役に立つ面があります。中学の問題ではあまり強く感じなかったのですが,数学の問題を解く時に,イメージの大切さを感じました。イメージが出来上がれば簡単に解ける,スポーツで言うイメージトレーニングが勉強にも必要なのかと思ったりします。

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2005年7月23日(土) No.200

 退屈な時間,何をして過ごせばいいのかわからない暇な時間。「こうした時間は無駄でもっと有意義に使うべきである」それどころか,「子どもに自由な時間を与えるとろくなことをしない,不良になる」とまで言う人がいるようです。もっともなように聞こえますが何か違うと思います。退屈している無駄な時間,本当にそうでしょうか?子ども達にとって無駄どころかとても大切な時間じゃないだろうかと私は思います。

 今の子ども達はよく言われるように忙しい,塾をしている私が言うのも変ですが,子ども達に自分自身の時間と言えるものがあるのでしょうか?学校の授業が終わると部活,塾に習い事etc,小学生も少年野球やサッカーがあります。彼らの一日の時間は,ほぼすべて大人によって管理されているのではないでしょうか?大人の関らない子ども達の時間があまりにも少ないように感じます。

 学校はともかく,部活や習い事によって勉強などのストレスを解消していると思っている人が多いと思います。確かにそういった部活や習い事もありますが,全般的に,大人の係わるとき,子ども達は大きなストレスを受けていると思います。大人の場合だと,仕事やさまざまな社会的な活動のストレスを解消するため,休息が必要だとよく言われます。こうした休息は仕事や社会的な活動から離れプライベートな時間を持つことだと思います。子ども達にも大人と同じように,大人の係わる時間から離れプライベートな,一人であるいは友達とゆっくりとぼんやり過ごす時間があってもいいと思います。いえ,必要なのではないかと思います。

 ストレスを解消し疲れを癒し,また元気よく勉強や部活をする,そのためにもゆっくりとした時間が子供たちに必要と思います。それだけにとどまらず,自分いついて,今のこと将来のことを考えたりできるのではないでしょうか。友達と夢や希望についてゆっくり話しあうことも出来るのではないかと思います。

 無駄な時間とよく言われますが,本当にそんなに無駄なのでしょうか?他人から見るとそうかもしれませんが本人には必要な休息かもしれません。何よりも大人から子どもを見ると,つい自分の失敗を繰り返してほしくないという老婆心が働くこともあるかと思います。 子どもには有意義な時間を過ごしてほしいと言う願いの現われでもあるのでしょう。しかし,光があれば影があり,無駄があるから有意義があるともいえます。ゆったりと子ども達を過ごさせてあげるというのは,今の時代,難しいことかもしれません。

 塾での勉強,これぞストレスの塊かもしれません。時にはゲームなどして発散しと思いますが,こちらの都合に合わせて受験は待ってくれません。まあせめて,追いまわしストレスをためこむなんて事は避けたいと思います。適度な緊張と弛緩,兼ね合いが難しいところですが,上手にやりたいと思います。

★先月と同じように,あまり良くない意味で使われる言葉について書いてみました。本当に,大人達が言うように子ども達にとって良くないのだろうか?大人が子ども達にと言うとき,結構大人の都合が入っているのではないでしょうか?そんなことを思いながら書いていました。大人のことなのか,それとも子どものことなのか,よく考えなければいけない場面が結構ありそうです。

 

★日本人の平均寿命は男女とも世界一だと新聞にありました。人生は昔に比べずいぶんと長くなったようです。昔の人が短い人生をゆったり過ごしたかどうか知りませんが,長くなるとともに人生は忙しくなったようです。長い時間ですから,ゆったりと過ごしていいような気もするのですが,なぜか忙しく暮らす人生のようです。

★200号★199の次は200,当たり前ですが記念すべき200号です。色々書きたいことがあるようで面倒だし,中身が伴っているかどうかはさておき,よく書きました。ここのところ色々とあり,今までになく退屈できない,この数週間でした。

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2005年6月26日(日) No.199

 子ども達は「面倒だ」ということをよく言います。計算過程を書いたり漢字を書いたり,確かに面倒なことが勉強にはたくさんあります。子ども達に対し,私は「面倒ならテストは白紙で出すんだね」などと嫌味を言っています。他の大人達は子ども達が「面倒だ」と言ったとき,どんなリアクションをするのでしょうか?私と同じように「面倒がらずにきちんとやりなさい」と言う人が多いのではと思います。そもそも,言っている子ども達自身「面倒だ」と言ってほめてもらえるとは考えていないでしょう。「面倒だ」という気持ちに対する評価は低いと言っていいでしょう。

 しかし,世の中の便利な機械は「人間の面倒」を無くしてくれるものがほとんどではないでしょうか?特に家事に関係する電気製品,掃除機・洗濯機・炊飯器などは,その代表でしょうか?私が今使っているワープロも書く面倒を少なくしてくれています。ひょっとすると,面倒と思う気持ちが,道具や機械の進歩の原動力じゃないだろうかと,私は疑っています。「面倒だ」をいかに無くすか,面倒がらずに人間やってきたおかげで,今の世の中が出来たのかもしれません。こう考えると「面倒だ」と思わずに何でもやってしまうのは良くないことかもしれません。つまり,何の工夫もしない,ということになります。また,変えてみるということが無い,進歩が無いということになります。こう考えてくると「面倒だ」という気持ちを大切にしないといけません。

 ただ,ここからが難しいのかもしれません。工夫しどう変えるのか,簡単にはみつからないと思います。まさにより大変な「面倒だ」を抱え込むことになりそうで「面倒だ」,「まあいいや,今まで通りで出来なくは無いから」と私などは思うのであります。何かを変える,新しいことを始めるということは相当のエネルギーが必要なのでしょう。

 こんなことを書いてきましたが,掃除機が出来たから, 車があるから歩くのが面倒になった,手で掃除することが面倒になった。道具や機械のせいで,当たり前だったことが「面倒だ」になってしまったのでしょうか?これから,機械や道具はどんどん進歩し,人間型のロボットも実用化されたりして,ますます便利な世の中になるでしょう。いったい「面倒だ」が,減るのでしょうか,それとも増えるのでしょうか

 ところで,先月の通信に書いたジグソーパズルですが,今も私は作っていません。時間はないし面倒だし,歳のせいか根気が続かない。思うに子どものころから根気はよくなかった。ということは歳のせいではなく,単に「面倒だ」という気持ちなのでしょうか。しかし「面倒だ」を何とかするエネルギーがなくなっているとしたらそれは歳のせいでしょうか?

 

 「右といえば左」,「左といえば右」と言いたくなる。「面倒がらずに」と言えば,「面倒と思え」と言いたくなる。どうも面倒な性格のようです。でも,光があれば必ず影があります。表と裏があります。同じように,良いことだけ,悪いことだけということも無いと思います。子ども達が「面倒だ」と言う時には, 子ども達が変わるきっかけになるかもしれないと考え,その気持ちを大切にしてあげたいと思います。

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2005年5月27日(金) No.198

 まだ雪のある頃,小さなジグソーパズルを買いました。少し手をかけたのですが,すっかり忘れていました。そのうち,パズルに気がついたおばさんが完成させてしまいました。そこで私はおばさんに頼み,またパズルを買いました。はたして,これを私が完成させることが出来るでしょうか?どちらかといえばジグソーパズルは好きですが,少々疑問です。小学校の図画・工作の頃から好きでなかった,筋金入りといった不器用さです。物を壊すのは上手だったのですが,作る方はだめでした。特にそのことが関係しているわけではないと思いますが,最近は物を作ったりしなくなっているのです。

 以前は子どもたちと一緒にプラバンをしたり,スライムを作ったりしました。また,お団子パズルを作り子どもたちにやらせたりしていました。ところがこの頃は,お団子パズルの材料を買ってきましたがそのままです。ともかく作らなくなっていますが,関心がなくなったとまでは思っていません。里帰り中に,テレビでシャボン玉の作り方を放送していました。とても面白く見たし作ってみたいなあと思いました。残念ながら作りたいなあ,やってみたいなあ止まりのこの頃です。

 色々と理由は考えられます。もともと好きでなかったから,当然やらなくなった。以前より忙しくなった。どうも,忙しくて暇がない,というのが一番の理由のようです。理由というよりは言い訳といったほうが正しいでしょうか。物を作るということは,時間があるからというより何とか暇を作ってすることではないかと思います。忙しいから,だから仕方がないというのは言い訳なのです。

 忙しいときに,楽しい時間を作る。好い時間を過ごした後,元気に仕事をする。仕事ははかどりますから,また楽しい時間を作ることが出来ます。どんどん良い方向に行きます。忙しいからといって,パズルをする時間を作らない,作れない。ストレスがたまるばかりです。仕事はスムーズに行かない。ますます時間がない。悪循環の始まりです。気持ちに余裕がなくなってきます。つまり,作らない私が悪いだけなのです。その気になれば結構時間は作ることが出来るのですが,単に面倒がってというのが本当のようです。

 こんなことを書いてきたのは,なんだか忙しい子供たちだからです。子ども達が,定期テストの回数が減ったのに忙しいというのは変な感じです。実は,定期テストの代わりに小テストやワークの提出などが増え子ども達が追われているようです。追われてする勉強は,その場限りで身につきません。また,学校の授業時間が減ったのに学校行事は変わっていないようです。そんなことも子ども達の忙しさに拍車をかけているのかもしれません。

 大きな体になり,えらそうに理屈をこねても中学生です。昔の子も今の子も遊びたい気持ちに変わりはないと思います。自分の時間を持ち楽しい時間を過ごすことは勉強にも良い影響を与えると思います。

 試験が終わったら塾でトランプやUNOをします。もってのほかかも知れませんが,こんな余裕があれば良い成績が取れるだろうと思ったりもします。私はお団子パズルやジグソーパズルに挑戦しないと!

 

 まあジグソーパズルはそのうちきっと出来ると思っています。なんといっても,ジグソーパズルが百均で売っているのです,何種類も。小さいといえども立派なパズルが百五円です。出来上がりを見て,また感心しました。良い世の中だと思います。買ってきたパズルを誰が完成させるかわかりませんが,次々と買えます。きっとそのうち私が完成させることもあるでしょう。しかし,そんなことを思っているからできないという説もあります。

★5月末から6月にかけ,運動会,修学旅行や宿泊といった学校行事が続きます。中学は期末テストもあります。連休でリフレッシュしたとはいえ,いそがしいことです。寒かったり暖かくなったりと天候は不順です。風邪をひいたりしないよう体調には十分気をつけてください。

 

★長いお休みをありがとうございました。息子達や,友人にも会ってきました。母親には,携帯電話のメールを教えてきました。何とか,受信したメールを読めるようになっていましたから,返信の方法を教えました。メールをやり取りする友人のいないことがネックですが,何とか返信でメールが使えるようになりました。ボケ防止には良いだろうと私は勝手に思っています。

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2005年4月20日(水) No.197

「こんな勉強何の役に立つの?」,どう答えればいいのか,頭の痛い質問です。ずっと上手に答えられず,今も答えられないでしょう。私としては色々と役に立つ例をあげることは出来ます。しかし, 絶対的な計算の答えのような訳には行きません。例はどこまでも例で,絶対的な答えではないからです。私が並べ立てる例が,その子の求めている答えにマッチするかどうか,それが分からないことが難しさの原因でした。

 ところが,どうしたことか最近うまい答え方に気がつきました。あくまでも答え方,つまり対処法で,質問に対する答えではありません。

 考えてみると「何の役に立つのか」この問いに答えがあるのでしょうか?あなたには役立つが,私には役立つのだつのだろうか?はたして,すべての勉強が空気や水のように万人に必要なものだろうか?私の能力では解答が見つからないし,模範解答を見た覚えもありません。そもそも私ごときがそんな難しい問いに答えようというのが大それたことで,大間違いだと気がついたのです。

 そこで,どう答えることにしたかと言いますと「自分の何に役立てることが出来ると考えるのだよ」と答えます。空気や水と違って,物事が勝手に自分の役に立つということは普通にはない事です。どう使うか,どう利用するかという様に,自分から積極的に働きかけることによって役に立つことが現れてくるということです。

 物のあふれた日本では役に立たなくなった,大量のごみが出ます。しかし,それらのごみも,物が足りない所に行くと何にでも利用されるようです。考えれば,私の子どものころは今のようにゲームやおもちゃがあふれていませんでした。でも子ども達は,家の物を勝手に持ち出して怒られても,何でもおもちゃにして遊びました。多分,何の役に立つのだろう,というよりは何に使おうかと,いつも考えていたのではないでしょうか。その辺にあるもの,手に入るものは全部遊び道具にしようとしていたのかもしれません。自分で手に取り,やってみる。だめでもともと,いえ,何に使えるか工夫することそのものが楽しかったのかもしれません。世の中にある物はすべてガラクタなのかもしれません。ひょっとすると,とっても役に立つものが混じっているのかもしれません。それを見つけることが出来た人は幸せな人なのでしょう。

★クロスワードパズル★道新の日曜版と,水曜の夕刊にクロスワードパズルが載っています。著作権がどうかなど,あまり考えずにコピーをし,子どもたちに宿題として出しています(時々,それともちょくちょく忘れて,時には子どもから催促される)。それぞれの特徴は,

  •  日曜版‥子ども向けだと思いますが,小学生の低学年には難しいようです。ことわざや,どうかと思うような古い言葉が出ます。そんなせいか,高学年の子ども達でも完成するには一苦労しています。
  •  水曜の夕刊‥ニュースクロスワードで,政治からスポーツ・芸能まで幅広くニュースになったことから出題されています。新聞を読んでいるか,ニュースを見ているかなど,社会的な関心がないと難しい問題です。高校入試に時事問題が出題されるので,何かの役に立てばと思っています。

 意外なことにクロスワードを知らない子が結構いました。それで,宿題ですが,時々私たちが子ども達と一緒に解くこともあります。最初は自由にやらせていましたが,見ていて気になったことがあります。

 ともかく順番に解こうとする。一番の答えがわからないと次に移れない。そして,できないからと簡単にあきらめてしまう。どこでもいいから一つ答えが入ると,それがヒントになりますから,できるところを探すべきです。答えが入るたびに,ヒントが増えて易しくなります。そうした仕組みを知らないし,あきらめるのが早いため,その仕組みにも気がつかない。だから,何度やってもやっても出来ないという悪循環です。

 また,問題の文を読んでも,マス目を見ずに,字数を考えないで適当な答えを言ったりします。そして,マス目が埋まっていくとそれがヒントになるのだけれど,今度は問題を読まずに適当に答えを言う,などなど‥‥。言葉を知っているとか知識があるということ以前に解き方・手順を知らないことなどです。練習が足りないと言えますが,ただ練習するのではなく,パズルの特徴や仕組みを考えるように練習してくれればと思います。仕組みがわかれば面白さも増すでしょう。

 ニュースクロスワードは社会的な関心が少ないことが気になりました。新聞の見出しだけでも見るようになってくれればいいのにと感じます。時事問題は入試や定期テストと無縁ではありません。

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