ごあいさつ
通信Back number2000年4月~2001年3月
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2001年3月27日 火曜 No.148 以前から直そうと思いながら,そのままにしてあるパズルがあります。古くから塾にいる子ども達はパズルのことを知っていますが,知らない子も多くなってきました。それくらい長い間,ほったらかしにしているということです。ビー玉を木工用ボンドでつないで作ったもので,つなぎ目が弱く直してもすぐに誰かが折ってしまいます。最初はまめに直していたのですが,だんだんと面倒になってきたというのが本当です。「ダメだなあ」と思っていると「このごろ作らないね」と子どもに言われてしまいました。言われて,「ダメだなあ」とまた思った私です。たいしたレパートリーはありませんが,前は作っていましたから言われても仕方がありません。
子ども達が初めてでも,私の方は何度も作っていますから何となく「面倒だなあ」と思い,作らなくなってしまいました。これはパズルに限りません。以前使ったことのある教材など,良いものと思いながら作らなくなったものもあります。学校の授業やテストと直接関係がないということもありますが,子ども達にとっては初めてのことでも,私には新鮮味がなく手垢にまみれたもののように思え,時間がないだの面倒だなどと言っては作らなくなってしまいました。
パズルなどおもちゃのようなものですから,子ども達にすれば勉強の時間が潰れるだけでもうれしいのかもしれません。でも,「よく遊び,よく学べ」というくらいですから,遊びといった要素はとても大切なものです。勉強といってもビンゴのように遊びの要素が入ったものは子ども達が喜ぶし,ただ覚えさせるよりもよく覚えるようです。勉強すべてが面白く楽しいという訳にはいきませんが,せめて気持ちの上だけでも,遊びとか楽しんでやろうと思ってやれればいい良いのではないでしょうか。冬休みから,学年末テスト・高校入試と楽しむよりも追われる思いが続きました。全部が終わり3年生の授業がなくなり暇なこの時期には,あれもこれもやってみようと思うのですが,ボーっとして過ごす時間が多くなりがちです。多分,思ったことの半分も出来ないのでしょうが,私自身が遊びの気持ちを忘れずに,愉しみながらこの一年を過ごせたら良いと思っています。取りあえず春休みはテストに追われることもありませんから,以前に使ったものに新たに手を加えたプリントなどを準備しました。おじさんとおばさんが楽しまないことには子ども達が楽しめるはずがありません。ひょっとしたら私達だけが楽しんだりしてと心配しています。 物事が古くなるというよりは,私の感受性が年とともに鈍くなってきているというのが正しいでしょう。アンテナをはり巡らし,色々なことに関心を持ちフレッシュな感覚を保てるように心掛け,また,遊びの感覚も大切にしながらやろうと思っています。 ★高校入試が終わり,それぞれ第一希望の高校に合格し進路が決まりました。受験の終わりは高校生活の始まりでもあります。受験生でなくても,学年がかわる春は色々な意味で新たなスタートの時です。
できるだけ良い状態で充実した一年を過ごせるように滑り出したいと思い,27日からの講習は,新学年の準備として予習を中心に行います。時間割はすでに子ども達に渡してあります。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ |
2001年3月1日 木曜 No.147 小学生,中学生と一緒に今年もスキーに行きました。アンヌプリ,国際に富良野と行く場所は違いましたが,みんなとスキーを楽しんできました。エネルギッシュでスキーの疲れなどないかのように,帰りのバスの中で子ども達は楽しくお喋りをしてきました。しかし,貸切りのバスではありませんから他のお客さんからは嫌がられました。 バスの中でうるさくお喋りをすることが嫌がられた,それは分かるのですが,なぜ嫌がられるのでしょうか?当たり前と言えば当たり前のようですが,子ども達にその理由を説明するならば,どう言えば良いのでしょうか?ちょっと,いえ,かなり困ってしまった私でした。楽しくお喋りしたことがなぜいけないのでしょうか。
そこで少し考えてみました。そして思い出したことは道新に連載している性教育のコラムに書かれていたことでした。人は誰にでも「自分の体のすべて・心のすべて」を見せるものではありません。他人には見せない部分,身体だと性器などですが,そうした部分を「プライベートゾーン」というそうです。身体の「プライベートゾーン」は視覚の問題ですから,とても分かりやすいのですが,耳から入ってくることはわかりにくいのかもしれません。でも,言葉によるセクシュアルハラスメントがありますから「プライベートゾーン」については話すときも注意が必要だと私は思います。また「プライベートゾーン」は身体に限らず日常生活の色々なことが「プライベートゾーン」に含まれると思います。一般的に「プライベートゾーン」は公衆の前にさらすものではありません。見ず知らずの人が大勢いる場所で裸になることも自分達だけのお喋りをすることも同じことなのでしょう。つまり,見たくもない裸を見せられるのと同じように聞きたくもない話を無理やり聞かされることは苦痛なのです。Private(私的)なことはPublic(公共的)な場所を使わずに自分達だけの空間でやるべきです。
こうした,PrivateとPublicとの区別がなされていないのは子ども達に限らないようです。所かまわずに使う携帯電話のことがよく話題になりますが,同じことなのでしょう。しかし,人は生まれながらにPrivateやPublicといったことを知っているはずがありません。子ども達が知らないイコール大人が知らないなのです。バスの中で「うるさい」と文句を言った人は,込み合うバスの中で自分の荷物を置いたままで席をあけなかった人でした。自分の「プライベートゾーン」は守りますが他人の「プライベートゾーン」には無関心のようでした。人の振り見て我が振り直せ。子ども達から見れば良くも悪くも大人は手本でしょう。
子ども達にこんな話をしましたが納得できたでしょうか?礼儀やマナーは人間関係が円滑に進むようにと昔の人たちが作り上げたものだと思いますが,マナーだから守れと言うだけでは子ども達に伝わらないし,伝えるためには大人が努力を惜しんではいけないのでしょう。 ★見ているようで見ていない。間違ってヒゲを剃ってしまいました。変化に気付いたのは一人だけでした。剃ったといっても,もみあげの部分だったからかもしれません。自分では,どうも変な感じで,子ども達に何か言われるかと心配しましたが杞憂で終わりました。お母さんがたにも何人かと顔をあわせましたが気がついた方はいらっしゃらなかったようです。それとも正面から見ると口の回りはヒゲがあるため気づかなかったのでしょうか?そういえば気がついた子は私の横に居ていつも横顔を見ている子でした。人の印象はある特定の部分にかたよっているということなのだろうと思いました。
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2001年1月31日 水曜 No.146 算数や数学をやっていて,私はとても簡単だと思っていたのに意外なことに子ども達にとっては難しいことがあります。それは「何もしない」ことです。例えば,四則の混ざった式では,書かれた式の順序と計算の順番が違うことがあり,前に書いてある式をそのままにして置かなければなりません。また方程式などでは式の一部分は何もしないでそのままにすることがあります。文字の式を習ったばかりのころは,足し算や引き算をしないで答えになることが子ども達にはとても驚きの様です。計算など何かをして答えを出してきたのですから,何もしないでただ書き写せば済むなどということが不安なのでしょう。 子どもに限らず,考えてみると,私にもなかなか「何もしない」ことが難しい場面があります。子ども達が問題を解いていて間違えた時すぐに「違うよ」などと言ってしまいます。何もしないでも子ども達が自分で気がついて修正するかもしれません。その方が良いに決まっています。あるいは,どう間違えるか,もう少し様子を見た方が後の説明がやりやすくなることだってあります。私が言ったため,自力で修正する力を身につけるチャンスを台無しにしてしまったのかもしれません。思えば,息子達が小さかった頃,黙って見ていればよさそうなものなのに口を挟み横から手を出していたものです。親だからと言えばそうなのでしょうが,「小さな親切大きなお世話」どころか子どもの成長を妨げていることが多いのではないでしょうか。
「何もしない」と言うよりは「見守っている」と言う方が正しいのでしょうが,口を出さず手出しもしないということは思いのほか難しいようです。大人から見れば簡単なこと,経験済みで良く知っていることを,子ども達が勘違いや間違えたりするのですから,じっと落着いて見ていることはなかなか忍耐が必要です。自分の手で何かをすることはそう難しいことではないし簡単なことですが,子ども達が成長する機会を摘み取っているのかもしれません。最近の子は簡単に切れると言いますが,振返ってみて大人はどうなのでしょうか。子ども達のために「忍」の一字が大人に必要なのではないでしょうか。 ★受験生は生活にリズムを持たせて下さい。道新より。
★?才が昨年は色々と話題になりましたが,数十年前にくらべ青少年の凶悪犯罪ははっきりと減っているそうです。以前に何かで読んだことがありながら記憶が曖昧でしたが,道新の記事で確認できました。過去45年間では,?年が?件で最も多く?年以降は年間1~4件でこのところ変わっていない。また,同級生の首を切り落とし蹴飛ばすなど,理解できない残忍な事件も過去?件あり,ふだん目立たない子が突然凶悪な事件を起こすことも昔からあることだそうです。残念なことですが,異常な人間は必ずいるということでしょう。
昔から「今どきの若い者は」等と言いますが,車を運転していて道を譲ってくれたり譲ったりした時にあいさつをするのは若いドライバーに多いように思います。また,駅やデパートのエスカレーターで急ぐ人のためにスペースをあけてくれるのも若い人に多く,私を含め「今どきの中年.年寄りは」と感じます。変化の激しい時代,マナーや常識もどんどん変わります。若い人はしなやかに受け止めているのでしょう。私もしなやかにと思いますが,五十の大台を迎えあちこちが堅くなってきているようで,要注意なのでしょう。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ |
2000年12月 No.145 中学は荒れているといったことはよく耳にしますが,自分の子どもが卒業してしまうと,塾に来ている子ども達を通してしか中学の様子を知ることがありません。子ども達と私達の間で勉強の進度や教師のことが話題になってもクラスや学校全体の様子が話題になることはあまりありません。ところが今回,お母さん方と(お父さんが御一緒のこともあります)懇談をして驚いたことがあります。わたしもおばさんも落ち着いていると思っていた中学や学年が授業が聞こえないなど荒れ模様だということです。塾に来ている子ども達の落ち着いた様子からは想像もできないことでした。
こんな時代に問題を抱えていない学校などあるはずがなく,保護者や教師はそれぞれの立場で,また子ども達もそれなりの対応を考えなくてはいけないのでしょう。これはわたしの考えで極端かもしれませんが,聞こえない授業やわからない授業への対応は何とか聞こうとかわかろうとしないということです。こうした努力をすることは子ども達に大きなストレスを与えるばかりです,それよりも人に迷惑をかけないようにワークを解いたり教科書を読んだり,その時間を有効に使うことを考えたほうがよほど勉強になるでしょう。そもそもわからないのは子どものせいなのか教師のせいなのか?それでなくてもいずれ大学受験などになってくると自分でやらなければどうしようもない部分が出てくるだろうし,社会に出たら人を頼ってばかりの勉強などありえないでしょう。嘆いたところで,そうそう簡単に学校は落ち着かないのでしょうから,ちょっと早めかもしれませんが自分の力で勉強をするよい機会と捉えてみたらどうでしょうか。
いつもいつも学校という場所と教師を頼りにしていれば勉強が出来るという時代は終わったのかもしれないと思っています。物もなければ情報もないという時代ではありません。どちらもふんだんにあふれています。知識も学校の独占物ではなくなってきているということかもしれません。社会は激しく変化していますが,その変化に学校や教師は上手についていけない部分があるようです。そのため,大人や子ども達も学校や教師を絶対的なものとして,指示に従っていれば良いということでは済まなくなっているのでしょう。言葉を替えれば学校をあてにしないで,自分のことは自分で考え,どうするかは自分で選択しなければならないということです。考えてみると昔から元服は十代前半でした,子ども達にはその力が十分にあると思います。何にせよ子ども達は学校へ行きます。子ども達が他人に迷惑をかけないで楽しく十分に自分を発揮し生き生きとすごすことが出来る空間,学校がそんな場所だとどんなにか素晴しいことでしょう。
★試験が終わり後はクリスマスとお正月,ほっとしてくつろいだ雰囲気になっています。中3もやはり試験続きの緊張感から少し開放されたように見えまが,少し受験生らしくなったでしょうか。毎年の繰り返しですが,師走となって講習の準備や年賀状のことで私のほうは何だか気がせくこの頃です。それに息子立達が帰って来るため,いつもより電話のやり取りなどが増えています。時間ばかりが過ぎて,毎日何もしていないような気がしています。実は忙しい忙しいと思うだけでどこかの国の政治家同様に先送りばかりで,ぎりぎりまで何もしていないからなのでしょう。まるでどこかの受験生みたいでもあります。 ★ホームページを作りました?作ってもらったが正しいでしょうか。卒業生にベースを作ってもらい,少しずつ私が手を加え,今は思うように作るだけの知識がなく,悪戦苦闘というところです。少しでも魅力のあるものにしようと思います。ぜひホームページを訪れ,知恵をお教えください。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ |
2000年11月 No.144 4年ほど前から宿題を出すようになりました。今年からテスト前のプリントが宿題に加わりました。宿題をやってくれば御褒美をあげるということにしています。子ども達を餌で釣って勉強させるということであまり褒められたことではありません。でも,まったく効果がないということも無いようなので,まあ良いかという亊でやり続けています。ただし,私が出す宿題は自分で答え合わせをすることになっています。ところが答え合わせをしてこない子が結構います。塾に入って間の無い子に特に見られます。勉強の習慣として,答え合わせをしないことが原因と思われます。やりっぱなしは良くありません。 いつも子ども達に「勉強は目的を持ってやらないといけない,宿題は,自分が覚えていなかったこと間違えて覚えていたことをチェックするためにやる,覚えていなければ調べて覚えること」と言っています。すぐに答え合わせをしないことには何の効果も得られません。子どもを叱るときはその時でなければならないのと同じことです。
一方,子ども達の答え合わせを見るのは結構面白いものです。ただ正解を書き写しているだけの物もあれば色々と書き込みをしている子もいます。自分でコメントをつけている子もいますし,「!」マークなど記号というか模様というか,今の子どもらしい物が書かれています。その子その子の個性や,そのときの気分が出ているように思えます。特に試験前の宿題はあわててやっていることが感じられます。雜といえば雑な感じもありますが,格好をつけたところがないのが何ともいえず面白さを感じさせるのだと思います。
調べてきちんとやっている子,わからないと答えを写しているだけといった子もいるでしょう。でも科目によっては字を書くことだけでも練習になるかもしれないし一つでも何かを覚えるかもしれません。また,宿題をすることで自分の勉強法を考えるようになるのではないかと思っています。子ども達にとって大変な宿題ですが,長い目で見れば効果はそれなりにあると感じていますので,これからも出し続けようと思っています。しっかりやって御褒美を集めてください。 ★塾を始めておおよそ20年になりますが,20年前の卒業生からひょっこり電話がありました。立派な社会人です。何かと思いきや,勤め先の資格試験の勉強のことでした。やさしい高校レベルの理科系の問題でしたが,文系に進んだ子でしたから難しかったと思います。それから数日後,5年程前の卒業生からまた電話があり,まったく同じ様に資格試験のことでした。現役の塾生が「こんな勉強,何の役にたつの必要なの」とよく言います。いつも返答に困る私ですが,こんな実例にぶつかるとは思ってもみませんでした。私自身,進路によっては関係ないとどこかで思っていたからでしょう。しかし人間どんなことが起こるやら,まさに「神のみぞ知る」,先の見えた人生など面白くも何ともないと言えます。若くて先の長い子ども達が悟ったように役に立つとか必要とか,何だか寂しい感じがします。時代ということもあるかもしれませんが,もっと子ども達の元気が出るように大人は何かするべきなのでしょう。子ども達は大人を見ているのですから。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ |
2000年10月 No.143 久しぶりに市政情報センターに行き,札幌市内の中学の五段階評価の基準を取り寄せました。たくさんの中学の評価基準を見ているうちに,子ども達がのんびりしていると,つい「出遅れるな」などと言ってしまいます。今までの経験から「出遅れる」子は内申点が悪いように思うからです。学校に限らず世間では早い・速いことは良いとされているせいでしょう。機敏な子がいたりのんびりした子がいたりというのが当り前のことですが,どうも成績が絡むと,いけないと思いながら,気になって言ってしまいます。実際に内申点がどうなっているかを子ども達に伝える必要はありますが,「ああしろ,こうしろ」と私が言うのは「小さな親切,大きなお世話」になってしまいます。
塾で一緒にゲームをしていると,カードゲームで当り前のように他人のカードを見たり,自分の順番をいつも意識できないとか,気になることがいくつかあります。また,山小屋のお泊会では火を極端に怖がったり,地下鉄やバスを大人の付き添いなしで乗ったことのない子など,勉強以外の場面で子ども達を見ると世間の狭さと経験不足とを感じます。便利な世の中だということもありますが,規則・規則の学校や「出遅れるな」などと私のように指示をするという背景もあると思います。当然子どものためを思っての指示ですが,失敗の経験から学ぶチャンスを奪っているといえます。例えば,お泊会の荷物など重たい思いをして自分で持ちたい物を持てば,次から必要な物は何か言わなくとも考えるようになります。塾の帰りに雨に降られる,天気予報に注意するようになるかもしれません。ずぶ濡れになったときの感触を知っておくこともいいかもしれません,カッパを用意するようになるかもしれません。台風や猛吹雪は別ですが。道順でも,人について行くとなかなか覚えませんが,間違いながらも自分の足で行き着いた所はしっかりと覚えます。
金融商品でよく言われますが,「ハイリスク,ハイリターン」危険が大きい程見返りが大きい。昔の人が「かわいい子には旅をさせよ」などと言ったのは,危険が予想できてもやらせることで子ども達が大きく得るものもあると考えたからではないでしょうか。初めからハイリスクは無理ですが,小さな失敗をしても大丈夫なことから始める,金融商品なら元金保証の物から始めるといったところでしょうか。子ども達の話を金融商品の例えでは不謹慎と言われかねませんが,どちらも大事,大切だけでは育たないと言えるのではないでしょうか。違いはリスクを大人がしっかりと管理し失敗をフォローしてあげることでしょう。子どもが直面している場面で大人の出番を判断することは難しいことだし,大人がやったほうが簡単で面倒がなく,つい大人がやってしまいがちです。でも子ども達を信じ,経験から学ぶ力をつける必要があると思います。内申点に限らず,日常の些細なことから子ども達の将来を含め,大人の価値観や判断を,私を含め大人は,子ども達に押し付ける場面が多いように思えてなりません。指示したり・禁止したり,「子どもの為」と言えば美しく響きますが,本当かどうか実際は折角のチャンスを子ども達から取り上げているだけかもしれません。大人が注意しなければいけないことでしょう。
★天気のことで思い出しましたが小中学校で天気の勉強があり,天気図を見るようになっている子にとっては簡単でしょう。同じように出かける前に道路地図を見る子は地図を見ることが出来るようになるでしょう。服や食品には原産地が書いてあったりするし,ウノと言うカードゲームにはいくつか英語が出てきます。どんなことがきっかけで興味を持つようになるかわかりません。学校で習うこと,それが勉強と思っている子ども達が結構います。しかし,高い山は裾野が広いように,学校の勉強にももっと広い様々な知識が必要です。多くのことに関心を持ち,あちこちにアンテナを張り巡らし,情報を受け止めることが必要でしょう。 ★評価評定基準は,ほとんど何も知らせていない中学,平常点の詳細な配点まで記されている中学まで,随分と姿勢が違います。どうしてこんなに違うのか,違ってもいいのだろうかと不思議な感じがしました。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ |
2000年9月26日 火曜日No.142 「~してもいいですか」と聞かれると「ダメ」と答えることにしています。人に判断をまかせている点が良くないと考えるからです。自分の亊を自分で決める,それにとどまらず身の回りの様々なことについても自分の判断・価値基準を身につけて子ども達は一人前になっていきます。わかりきった当り前のことですが,自分で判断を下すことは,そうそう簡単なことではないようです。 そもそも,毎日の生活の中で子ども達が判断を下さないと困るような場面はあるのでしょうか。変化の激しい時代といっても日常は同じ様なことの繰り返しと言っても大した間違いではないと思います。起きている時間の半分近くを過ごす学校は,細々と規則が定められていて,勉強からプライベートな服装やへアースタイルにしても子ども達が判断を下したりする必要はまったく無いに等しくなっています。ノートの使い方取り方からノートを取る時間まで指定されているケースもあります。子ども達に代わって教師や大人が判断してしまいます。子ども達はせいぜい許可を求めるため「~してもいいですか」と聞けば事足りる世界のようです。学校の決まりは放課後にまで及びます。「学年プラス1時間勉強しなさい」に始まり,私の息子の小学校時代は「校区外に行ってはいけない」とか細々としています。家庭も子どもも何も考えるなといっているかのようです。 さらに,自分で決めなくてもいいということは,何の責任を負うこともなく気楽だということもあります。自分の決断による結果であれば,「おまえのせいだ」といって逃げることは出来ません。結果に対して自分が責任を負う,大人の世界でも大変で,選良である代議士でさえ秘書の責任などと言って責任逃れをする時代です。言われたとおり決められたとおりに行動すれば,何の問題も起きないしトラブルもない世界なのです。下手に自分で判断をする,そんな無謀なことは避けたほうが良いと考えてもおかしくないのかもしれません。 判断を下す必要もなければ訓練もなされてもいませんから,自分で決めるなんて亊を身につけるのは難しく骨の折れることでしょう。しかし,そんなことで自分らしさを発揮できる生き生きとした自分という人間を作り上げることが出来るのでしょうか。美しいもの素晴しいものに対する感動や新しいことに対する興味など,物事に対する感受性や感覚が麻痺し人間の持っている生きていく力がなくなってしまうように感じられます。そんな大げさに考えなくても,だいたい日常生活はささやかな亊の積み重ねですから,そのささやかな亊を自分で決めて実行する。そんなささやかな亊の積み重ねが自分らしさを創りだすのではないかと考えています。 ところで,最近の卵には日付がはいったシールが貼ってあります。日付が新しいと新鮮な卵とわかり,便利といえば便利ですが,人間の持っている感覚,臭覚や味覚がダメになっていくのかもしれないと,ふと思いました。腐った食べ物は臭や味から判断していた人間が,私もそうですが,賞味期限などというメーカーが決めたのか役所が決めたことなのか,そんなことを頼りにしているようです。子ども達に限らず,自分の感覚より印刷されたものに頼っている私も生物としての力が段々と失われていくのだろうかと大げさに考えてしまいました。 ★「ふじ」の花はぶどう「牡丹」はバラ「桜」はカーネーションだし「松」はさぼてんです。最初は「えーっ」と驚いていた私ですが最後は笑ってしまいました。中1の理科の試験は植物のところが範囲でした。問題にあやめが出てきたのですが,誰も知らないというのです。そこで思いついたのが花札でした。ゲームをしたことがない子でも花札は知っていましたが,花の名前は滅茶苦茶でした。これも失われていく日本の伝統なのでしょうか?大学で少し勉強したはずですが,私もたいして花の名前を知りません。でもツユクサぐらいは知っていて欲しかったし花札だって,これは必要ないかな?でもゲームをしている子どもでも知らないというところが不思議でした。札の種類を言葉を使って表わしていないのでしょうか,絵柄を見ればわかるから必要が無いということなのでしょうか?でもポケモンだとか遊戯王カードだとか私には覚えられない名前を彼等は良く知っています。単に世代と生活感の違いでしょう。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ |
2000年8月 No.141 昨年に比べ少しましとはいえ,今年も暑い夏でした。大阪から北上してきた息子が凉しいといっていましたからそれ程でもないのかもしれません。大阪の暑さを忘れた私たち夫婦はすっかり北海道人になったということでしょうか。その暑い中,休む子もほとんどなく子ども達はよく通いました。子ども達はえらかった,しかし普段と異なり朝から仕事をした私達こそ一番えらかったとひそかに思っています。同じ様に子ども達は子ども達で,「いつもより長い時間大変だった,よく勉強した,いや,させられた」などと思っていることでしょう。ところで,大阪では「えらい」を北海道弁の「こわい」と同じような意味で「今日はえらかった」のように使います。
「あいつに比べ俺はよく勉強した」などと言う卒業生がいます。私に言わせれば「あいつもおまえも同じように勉強しなかった」なのですが,どうも私達と本人では感じ方が違うようです。要求される子ども達と,子ども達に対してもっとやれと要求する側の私とでは違って当然かもしれません。どれだけ,どこまでやればお互いが納得できるのか,なかなか難しいところです。子ども達が持っている力,これは目に見えないから厄介です,私がまだまだ伸びると思っても子どもはもういっぱいいっぱいと感じているかもしれません。私は過大な要求をしているつもりはありませんが,はたして子ども達がどう受け止めるか?難しいところです。私と子ども達は赤の他人だから気は楽なのです。親の思いと子どもの思いがいつも一致するはずがなく,そんなときどうすればいいのか,子どもを信じじっと見守ることが出来れば素晴しい親ですが,なかなか難しいことでしょう。息子となると違ってきます。息子を他人を見るように冷静に,あるときは冷ややかに見ることができるか,と言われると自信はありません。
でも,子どもたちは自分自身を十分に発揮しようと彼等なりに努力しているのでしょう。大人の目には見えないこともあれば,お互いの思いが違って大人が見ようとしないこともあるのかもしれません。私と子どものそうしたずれは私を苛々させます。まあ,子ども達だってそうで,お互い様とはいえ困ります。立場の強い大人の私の方が思ったことを言わないのは腹立たしいことでもあり,できるだけ冷静な振りをして言いたいことを言うようにしています。こう考えてくると立場の弱い子ども達は大変です。私達のほうでどれだけ子ども達に発言の自由を保証しているのか,またそうした雰囲気を作っているのかが問題になるでしょう。自分の思いを自由に言うことができるということは他人の思いを聞くことできないといけません。自分自身が強い立場にいるとついそんなことを忘れてしまいます。私は私の思いを子ども達に話し,子ども達も自分逹の思いを言えるような雰囲気を作りたいし心掛けなければならないでしょう。 ★本が読めなくて,せいぜい拾い読みをする程度のこのごろです。かなり古くなったブルーバックスを何となく見ていると,スポーツドリンクについいて書いてありました。内容は以下のようなことです。 高温下で長時間の運動をする時は水分補給が必要であること。例えば,暑い時のジョギングでは2倍も汗をかくそうです。そして人間の水分吸収は大腸で行うため,水分が胃からスムースに大腸に移動することが大切になります。一度に大量の水分をとると胃に長くとどまるので少しずつ回数を多く飲むほうがよく。また,清涼飲料水のように糖分が多いと吸収がおそく,適度な濃度が必要だそうです。またスポーツですからエネルギー補給を考え中味を調節したスポーツドリンクができているとのことでした。 著者はまた昔の私と同じように「奇妙な味のスポーツドリンク」とも書いていますが,今どきの小中学生は当り前の味と思っているのではないでしょうか。古い本だという証拠なのかもしれません。部活をしている子が結構います,体調管理をはじめ飲み物にも注意してください。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ |
2000年7月24日 月曜日 No.140 「壊れた計算機」になるな,などと最近よく子ども達に言っています。電卓は百円均一で売られています。壊れた電卓など百円の値打ちもありません。数学や算数で気になることは,式や問題文の意味を考えずにしゃにむに計算をすることです。+と書いてあるから足す,計算の順序などお構いなしです。それでつい「百円以下の人間になるなよ」などと嫌味を子ども達に言ってしまいます。式や問題の文を眺めたりと云った余裕がありません。時間に追われ問題を解くのですから忙しいには違いありません。しかし,周囲を何となく見回すことが問題を解くときには必要な条件の一つだと思います。
まあ,道を覚えるときに途中の特徴的な建物を目印として覚えるようなものでしょうか。私には渓流釣りが好きな友人がいて,よく一緒に釣りに行きます。その友人は若い頃から山歩きをしてて地形を見ることがとても上手です。前に歩いた川筋など,私などどこも同じように見えてこんなところを歩いたっけなどと思っていても,彼は特徴をつかまえていてとても良く覚えています。周りを良く見るだけではなく,どこに注目するかを習得してきたのだと思います。道を間違えずに目的地に向かうためにはとても必要なことだと思います。進行方向である前ばかり見ていたのでは道を違えたことさえ気がつかないということになってしまいます。 同じように,式全体を見たり書かれた言葉の前後をよく見ることによってヒントや手掛かりが得られることはよくあります。また,以前に解いた類似の問題だと気がついたりすることもあるでしょうし,何といっても問題のパターンが身について次につなぐことが出来ると思います。やはり全体の風景を眺めることが大切だということです。
それに,人間の能力の一部分である計算や記憶などは人間より機械のほうが断然優れています。最近では文字を読むことさえ機械で出来ます。しかし,機械は意味を考え判断を下すことは出来ません。機械は人間の操作,つまり指示によって動くだけです。今私が使っているワープロだって,意味を考えませんから奇妙な漢字変換をたびたびします。また,機械は風景を見て感動することもなければ,自分から何かに興味をもつこともありません。感動するなんて「人間様」だからこそできることです。つまらない風景だってありますが,一つでも素晴しい風景に出会えればこんな素敵なことはないのではないでしょうか。そこから何かに興味が持てたとすれば,また素敵なことではないでしょうか。言われたことを言われたようにする,面白みがありませんね。そんなときでも周りを見渡すと違った風景が見えるかもしれません。いつも見慣れた風景でも時には違って見え,今までと違った意味があるかもしれません。自分なりの見方,そんなものがあっていいと思います。 ★英単語・漢字の練習 各中学から夏休みの宿題として,英単語と漢字の練習が出されていることと思います。夏休み明けに単語と漢字のテストがあり宿題の中から出題されます。テスト対策は次のことに十分注意してください。
中学からの指示は5回書くとか一律で具体性に欠けます。書けばいいものではありません。目的から見て効果の無いことはしないようにしましょう。目的は意味がわかり書けるようになること,これを忘れずに練習するように,書くために書くことだけはしないでください。
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2000年6月27日 火曜日 No.139 一学期の期末テストが終わりました。一年生は初めての経験で大変だったと思います。小学校までの単元テストと違って広い範囲のテスト勉強はつらかったかもしれません。楽な勉強方法はないものでしょうか。言ってみればテスト勉強のこつはどんなことでしょうか?テスト勉強に限らず普段の勉強にも当てはまると思いますが,一つは「捨てる」ことでしょう。教科書の中味が全部出題されるることはありません。範囲が広いほど出るところは限られてきます。どれだけ上手に「捨てる」ことができるかは得点に直結していると言えます。子ども達の会話を聞いていると「ここも,あそこも出るかもしれない」が中心で,「捨てる」より増やす方向になりがちです。
例えれば,テスト勉強はキャンプの準備のようなものかもしれません。キャンプに何もかも持っていく訳にはいきません。絶対に必要な物やあれば便利な物,なくても困らないが余裕があれば持っていきたい物などがあるはずです。準備としては絶対必要な物から揃えていくのが手順ではないでしょうか。「捨てる」物は何かを考えなければ荷物はまとまりません。テスト勉強も同じように絶対に「捨てる」ことができない物は何かを考え,どんどん「捨てる」ことで本当に大切なことは何かがわかってくるように思います。しかし最近のキャンプは車で何でも積んでしまいますから少し違うかもしれませんね。
確かに「捨てる」には勇気が必要です。もしここが出題されたらという不安があり,実際にそうした失敗もあるでしょう。しかし失敗を恐れて「捨てる」練習をしなければ,核心に迫ることはできないのではないでしょうか。試験勉強で真っ先に「捨てる」必要があるのは,満点主義とか完璧主義でしょう。失敗を恐れたり何もかも手に入れたいといった欲張りはやめることだと思います。反対に何もかもそぎ落としすっきりとした形になることが必要でしょう。それは,数学や理科の公式や定理などが単純な形式になっていることにも現われていると思います。しっかりした骨格が出来上がれば肉付けをすることは比較的やさしいものではないでしょうか。重要なことは何かを知ることはそう簡単なことではないですが,これから大人になっていくために本質を見る目を養わなければなりません。「捨てる」ことはやはり不安,時には痛みが伴うものです。しかし,捨てないことには,手に入らないものがあることも事実です。いえ,人は何かを手にいれるたびに気がつかないだけで何かを捨てて来ているのではないでしょうか。
私も部屋を片付けたいと思い,そのためには本を「捨てる」のが一番簡単な方法です。読みも見もしない本がたくさんあります。しかし,なかなか「捨てる」決心がつきません。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ |
2000年5月 No.138 もう何年前でしょうか,ラパークができた頃のことです。「ラパークには行かない」と言う中学生がいました。ラパークができて間もない頃でしたから,「行ってきた」とか「どんな所だ」とか子ども達の間では大変な話題になっていました。そんな中で「行かない」と言うのですから当然みんな驚き「どうして」という質問になりました。その答えが又みんなの笑いを誘うことになりました。「○○が不良がいるって言ってたから」という答えでした。
不良がいるとトラブルが起きるかもしれないということでしょう。しかし不良がいない場所があるのでしょうか?学校でさえ不良がいますが,誰も「学校に行かない」とは言わないところが不思議です。複雑な世の中になり身の回りには,今まで考えられなかったような危険が一杯になっているのでしょう。一つの危険性がなくなっても違った危険性が出てくるという時代なのでしょう。私達は危険やトラブルと隣り合せの生活で,今まで運良く危険やトラブルとぶつからなかったのか,それとも上手にくぐり抜けてきたのではないでしょうか。いえ昔から人間はそうして生きてきたのだと思います。 子ども達を危険やトラブルから守る。大人として当然ですが,いつまでも子どもを守っていることはできません。子ども達が大人になっていく過程は,危険やトラブルを自分で解決していく力をつけていくということでもあります。子ども達に自分の身を守る力や,トラブルを解決していく力をつける事は大人の大事な仕事だと思います。 しかし,子ども達に解決法を教えるといっても,危険やトラブルは知識だけで解決できないことが多く自分で経験し学んでいく部分が大きいようです。大げさに言えば「ラパークに行く経験」なしで危険やトラブルから身を守る方法を身につけることができるのでしょうかといった感じになります。いろいろな事件が実際に起こり大変な時代ですが,家から一歩も出ない訳にはいきません。子ども達も経験を通し自分の肌で接し感じることがとても大切なことだと思います。
お泊会をすると子ども達は火遊びが大好きです。しかし見ていると火の扱い方が極端です。マッチをする様子など怖くて仕方がないという感じですが,枯れ枝に火をつけているときはまるで無警戒で私がはらはらすることもあります。火をさわることのない子ども達ですから無理ないのですが,人間は危険な火と付き合っていかなくてはなりませんから,経験によって扱方を覚えるしかないのでしょう。 こんなことを書いてきた本音の一つに,もっと自分の足で歩けばいいという思いがあるからです。私自身がすぐ車に乗りますからあまり偉そうに言えないのですが,車から見る風景と自転車や歩いて見る風景はかなり違います。体でじかに感じることはとても良い経験になりますし,何といっても健康に良いでしょう。と言いつつなかなか歩けない私ではあります。
★話したいことがいっぱいいっぱいあるようです。新学年になり,中1は特にそうですが他の学年もクラス担任や教科担任が変わったりしています。子ども達はおばさんや私に色々と報告しなければなりません。話し終わると落ち着いて勉強に身が入るのですが,私など話しが終わるまでなかなか待ち切れません。聞かないと落ち着かないし,聞いていると時間が足りない,なかなか厄介な問題です。もうしばらくの間ですので,お母さんお父さんも時間がないとは思いますが適当にあいづちを打ちながら子ども達の報告を聞いてあげてください。
★ペットボトルなど持たせてください。中学の部活が始まりました。学校から帰り急いで塾にかけつけ,のどが乾いていたりお腹がすいていたりといった状態の事もあるかと思います。こんなときは落ち着いて勉強ができません。時間に余裕のないときはペットボトルに水でもスポーツドリンクでも構いません,お腹のほうはキャラメルやチョコレートなど一時おさえになる物を持たせてあげてください。
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2000年4月24日 月曜日 No.137 中1に代表されますが,春はクラス担任の教師が変わる子が結構います。中学では教科担任も変わることがあります。前々から担任が変わることを期待する子も,変わらないでほしいという子もいます。この時期は,教師の「当たり・はずれ」で悲喜こもごもといった感じです。「当たり・はずれ」でいつも思うことが二つほどあります。
一つは「当たり・はずれ」の簡単な判定法とそれから連想することです。今までの子ども達の反応から次の法則が成り立つようです。1日の最後のショートホームルーム・終の会が「短ければ○,長ければ×」なお,法則には例外がありますから絶対ではありません。私だって授業を延長する教師は嫌でしたし,塾でも同じで延長はとても嫌がられます。子供に限らず,楽しいことは長く嫌なことは短くと思うのが普通でしょう。あまり好きな言葉ではありませんが,「効率良く」勉強することをもっと考える必要があると思います。長い時間をかけて説明をする,また練習をすると必ずうまく身につくかというとそうでもありません。長い説明は焦点がぼやけてしまい,大事なところが霞んでしまいがちです。子ども達は国語のテストで答えをしぼり込む文章を削って削って要点をつかむことが苦手です。教師も同じ様なもので,ひょっとすると表現力が無く同じことをくどくどと話しているだけかもしれません。また長い時間の練習も的をしぼり集中してできないだけなのかもしれません。計算練習や漢字の書き取り練習など,だらだらと量をこなすと,悪い癖がついたり漢字などは嘘を覚えてしまって直すのに苦労したり嫌いになったりと逆効果のほうが多いのではないかと心配します。大人の仕事ならもっと厳しく,仕事に時間がかかるイコール能力が足りないと言われるかもしれません。
もう一つは教師に期待しすぎじゃないだろうかという思いです。教師といえど普通の人間で聖人君子ではありません。私の思うに教師の世界にも世間並みの割合で自分と合う人がいて,合わない人がいるでしょう。どうも過大に評価というか期待されているようで教師が気の毒に思えます。そのへんが学校という何か特別な世界ができ上がる原因の一つだろうかと考えたりします。やはり,良い教師に当たる確率は低いと考えておくといいと思います。しかし塾のようにやめる訳にもいきませんし最短でも一年間のおつきあいですから,どう接するかが問題になります。あるお母さんが「どんな先生か楽しもう」と言っていました。楽しくバードウォッチングならぬ教師ウォッチングでどんな人か観察するのもいいかもしれません。 ★SS(Standard Score)について 中学のテストが終わるとSSが帰ってきます。簡単に言うとSS50は平均点を表わします。平均からどれだけ離れているかを表わし,SSが大きいほど成績が良いということになります。 また,中間・期末試験の国・数・社・理・英のSSは五段階評定の目安となります。ほとんどの中学では,SSが3分の2残り3分の1は平常点(内容は中学によって異なり薮の中?)が加わって決まります。 比率や平常点の内容については担当の先生に尋ねてください。
SS35以上が2,以後10刻みで3・4,SS65以上が5となります。
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