ごあいさつ

通信Back number1999年4月~2000年3月

前のページ  信天翁通信へ  次のページ

2000年3月 No.136

 「買ってはいけない」という本が塾に置いてあります。さまざまな種類の商品がリストアップされていて,子ども達に人気のカップ麺や飲み物も含まれているようです。それを読んだ子ども達が「これ,おいしいのに駄目なんだろうか」などと不安そうに私に尋ねます。添加物,保存料や着色料など本当に大丈夫だろうかと私も思います。そして気にしだすと食べ物も飲み物,その他何気なく使っている物すべてが「買ってはいけない」になってしまいそうです。でも本当のところ「買ってはいけない」を買わないで生活するのは難しいことだと思います。ただ何も知らないで買うよりは知っていて買うほうがいいに違いありません。本にあるドリンク剤には少量ですがアルコールが含まれているものもあります。知らないで多量に飲んで酔っ払って大きな事故が起きたこともあります。醉う亊を知っていれば防げた事故だといえます。ゲーム機やソフトについての知識の豊富さに較べ食品など日用品についての商品知識は少ないようです。情報量に差があることと関心がないこともありますが,物についての知識はたくさんあるほうがよいでしょう。「商品」は売るためのものです。会社は売るために色々なことをし,コマーシャルは売るためのものですから良いことずくめなのが当り前です。商品について書いてあることは「人を見たら泥棒と思え」と言う言葉のように疑ってみないといけないようです。私も20年以上前になりますが,数字を扱う仕事をしていました。外部に発表する数字はとてもよくチェックされ都合の悪い数字は出さないようになっていました。何を目的に書かれたものか良く考える必要があります。商品に限らず,本に書かれたことやテレビから流れる情報の送り手に何の目的もなく,ただ流しているとは考えられません。何を信用するか良く考えなければならない時代です。いえ,いつの時代も情報は正確に捕える必要があるでしょう。

 

 子ども達を見ていると,今まで知らなかった情報に接したとき,あまりにも簡単に信用してしまうように思えます。特にテレビや本から仕入れた知識は信用してしまうようです。大人でさえ正しい亊かどうかの判断は難しいのに子ども逹には大変です。テレビなどの映像は特撮などすごい技術の世界だと子ども達は知っているのに,本当だと言われると信じてしまうようです。「本当かな」とほんの少し心の片隅で思うことも必要な世の中だし,人の言うことを丸々信用するのではなく自分の力で調べたり確かめたりすることも大切なことです。自分の身に関係のあることを人まかせにしてしまうのはどうかと思います。「買ってはいけない」かどうかを自分で判断しようという気持ちと知識を持ってほしいと思います。これも大人の子供に対する大切な仕事なのかもしれません。

--------------------------------------------------------

2000年2月 No.135

 「あなたの愛が,伝わっていますか」(久野信著)藻岩の山小屋のお隣に開心庵という山小屋があります。その庵主さんがお書きになった本です。ちょっと極端な言い方で,久野さんには叱られるかもしれませんが,立派な大人になってほしいという親の思い,子どもへの愛情を子どもに上手に伝えるためのマニュアル本です。ひょっとして,彼氏彼女に愛を伝えるのにも役にたつのでしょうか。「以心伝心」という言葉があるように,日本の社会は,自分の気持ちや思いを相手に上手に伝える方法について子ども達に教えることがありません。学校でさえ教えません。子ども達が教わらないことは,私も含め大人だって学校の先生だって当然教わっていないでしょう。

 

 愛情をもって子ども達に接する。だれもがそうだと思いますが,いつも愛情が子ども達に伝わり,子ども達の力になるとは限りません。どうも大人は脅しという方法を使いすぎるように思います。子ども達は将来の未知の事に何がしかの不安をもって立ち向かいます。そして経験済みの大人は,たとえば受験生に「このままだと落ちる」「入ってもビリ」とか子ども達の不安を大きくするようなことをつい言いがちなようです。不安や心配をバネにということでしょうが,不安や心配が大きいと落ち着いて事を運べません。やはり自分に自信を持ってする亊のほうが成功するのではないでしょうか。具体的な対策やアドバイスなど子ども達が少しでも自信を持ってできるように上手に言えないものかと考える私です。また,失敗をしかることも多すぎるようです。「ダメ」とつい私などいってしまいます。あるいは失敗しないようにと先回りをしてヒントを言って子ども達から顰蹙を買ったりします「小さな親切,大きなお世話」そのままです。実は子ども達が成長していくうえで失敗は大切なことなのです。失敗から何を学ぶか成功しかない人生はありえません。大人は何をしてあげることができるのでしょうか。多少のアドバイスと,暖かく見守って待つことぐらいなのかもしれません。自分の思いをうまく子ども達に伝えるのもそれなりに練習がいるものです。お互いに良い関係をもつためには当り前のことなのでしょう。ちょっと違うかもしれませんが,愛さえあればということは,やる気さえあればなんて言い方と似ているような気がします。精神論ではなく具体的なことが必要なのです。「あなたの愛が,伝わっていますか」(久野信著)参考になります。

 

★子ども達から指摘されていますが,最近はあまり名言(迷言)がありません。「買ってはいけない」という本が話題になりましたが,そのパクリで「消してはいけない・止まってはいけない・掛けてはいけない」こんなところでしょうか。どれも以前からよく言っていることです。否定形は良くないような気がしますが,まあ案外言いやすく流行なのでつい使ってしまいます。それに消すのの速いこと速いこと止める間もありません。間違えることは大変なことなのですね。もっと気軽に間違え,大切に扱ってほしいと思います。掛けてはいけない,しっかりと式を見て自分は何をするといいのか確かめることです。人間様は計算機ではありません,判断を下すところが機械と違って人間様の偉いところです。判断を間違えても訂正をしていく力があり,そこから学んでいくとのが勉強でしょう。恐れていては進めません。

 

--------------------------------------------------------

2000年1月27日 木曜日 No.134

 こども達からこれから先もずっと質問される「数学って,何の役にたつの」ということについて思うことがりました。この手の質問は数学に限りません,理科でも英語でも社会でも同じで,答える大人の側が困る質問でしょう。大人の側に,それなりの答えがありますが,子ども達に納得のいくものではないでしょう。私の思いつきは,別に目新らしいものではないと思います。また,子ども達を納得させるとは思いません。しかし,書いておこうと思います。

 

 何年か前,姫路城に行ったことがあります。世界遺産に登録された美しく立派な建築物に感心しました。子ども達にも「一見の価値がある」と話しました。ほとんどの人が「素晴しい」と感心すると思いますが,なかには何にも思わない人もいるかもしれません。私など中学生のころ,遠足で京都や奈良の歴史的なお寺を見ていますが,素晴しいものを見たという思いはありませんでした。つまり数学も姫路城も同じなのかもしれないと思うのです。小中学校で習うのは人間の歴史の中で生まれたばかりの数学でしょう。高校大学と進むと現代の数学に近づくというシステムになっているといえるでしょう。人間が長い年月をかけ作り上げた体系を短い時間で体験している訳です。ちょっと問題なのは,数学が美しかったり素晴しかったりするかということです?実は,私自身学生のころは単に点をとるためで,こんなことを考えて数学などの勉強をしたことはありません。この仕事を始めてから,数学や理科を作り上げた人間様はすごいなあと思うようになりました。数学や理科の公式の単純さ,覚えやすくわかりやすくするために工夫された単位や名前などなど,人間の歴史的遺産といっていいでしょう。姫路城とは違った美しさや素晴しさがあると思います。数学や理科に限らず他の科目でも,思いつきですが,地理は世界の広さや色々な素晴しい人間がいる亊,国語や英語は言葉の美しさや素晴しさといった亊があるのではないでしょうか。とかく勉強は役に立つ立たないということが強調されますが,勉強を通して人間様の素晴しさを感じ取れれば十分なのではないでしょうか。

 こんなことで子ども達が納得するとは思いませんが私は別に子ども達を納得させる必要もないと思っています。素敵だな面白いなと感じてもらえればいいのでしょう。

 思いついたことは何でも書かないと,たいした記憶力でもない上に歳も歳ですから,すぐ忘れてしまいます。これからも思いついたことはどんどん書くようにしたいと思っています。それと,子ども達と一緒に勉強と呼ばれるものをしていると,どうしても点数に追われてしまいます。私自身が本当に美しい・素晴しいと感じ,その美しさ人間の素晴しさを子ども達に伝えようとしているでしょうか?なぜ勉強するのか,人により違うと思いますが,面白かったり楽しかったり,何でもいいけれど素晴しいと感じてほしいものです。

 

★新聞によると,インフルエンザが大流行しそうです。受験生は特に具合が悪いときは無理をせずに学校や塾を休んで体調を整えてください。この時期にはいつも同じことを書いていますが,健康管理には十分に気を配ってください。そして,受験が近くなりましたから生活リズムを朝型に切り替えてください。

★中1・2年は学年末テストが近くなりました。今までのSSを考えて力を入れる科目を決め,計画的に勉強するようにしましょう。2月の第2週は試験勉強のため曜日や時間が変わりますから注意してください。子ども達にはそのつど知らせます。

★夏といい講習の間は体重が増えるようです。家からほとんど出ないし有難いことに講習中はたいした雪かきがありませんでした。しかしいつも以上にお腹がへるようでよく食べました。これではいけないと毎週藻岩に出かけ雪の中をかんじきで歩いています。ものの30分ばかし歩くだけですが息が上がって心臓はおおわらわです。汗をかきいい空気をいっぱい吸って肺もきれいになってよろしい。しかしお腹も気持ちよくすくのが問題になります。

--------------------------------------------------------

1999年12月26日 日曜日 No.133

 縁があってロバート・ウィットマーという方のお話しを聞く機会がありました。小さな子どもから大人までいましたが,子ども達に用意してあった種を見せ「この種は何になるでしょう」と質問をします。子ども達は自分の好きな物を答として言っているようでした。ウィットマーさんは実物を見せて正解を言っていきます。カボチャ,ニンジン,リンゴ,ズッキーニや山ぶどうも含め自分の家の庭で育てたものを持参したとのことでした。その後,子ども達に話しかけ「カボチャの種はカボチャに,ズッキーニの種はズッキーニになります。それでは,君は何になるのだろう」と問いかけました。子ども達から声は上がらなかったようでした。そもそも私自身何と答えればいいのか困るなと思いながら聞いていました。皆さんはどんな答をお持ちでしょうか?ウィットマーさんいわく「あなた自身になるのだよ」でした。他人ではない自分自身になってくださいということでした。「ひまわりにはひまわりの花が,ひまわりに桜を咲かせようとしても無理なんですよ」こんなことを私に教えてくれた方がいました。人は切れば赤い血が流れ,みな同じですが一人一人は違います。自分を大切にして自分の花を咲かせることができれば良いといういうことだと思います。「あなた自身になるのだよ」とてもいい言葉だと思いませんか。みんなから,特に親に愛されている大切なあなた,是非自分にふさわしい花を咲かせ立派に実ってください。ウィットマーさんはカナダ出身だそうですが日本語がとてもお上手な上に,実物を使った話し方も工夫されていて,子ども達にもわかりやすかったと思います。

 実がなるまでには肥料をやったり世話や手入れが行われます。肥料も水も大切ですが,やりすぎると枯れてしまうこともあります。作物など育てたことのない私ですが,大変なことだとは思っています。塾に通って来る子ども達も自分らしい花と立派な実をつけてほしいものです。勉強という片寄った部分での子ども達とのおつきあいですが子ども達にとっての肥料の一部にでもなれればいいなどと思った一日でした。人の話は聞かないと損をします。いろんな人がいます,何でも吸収しようという気持ちはずっと持ち続けたいものです。人の話が聞けなくなったら老化の始まりかもしれません。先月書いた,何故人の話を聞くかということの答の一つになったでしょうか。

★テストが終わり,後は冬休みを待つだけ。クリスマスのプレゼントと年玉で何を買うか,そんなことで頭がいっぱいのようです。楽しいことが沢山あるのですが,ただ困るのが講習でしょうか。さすがに中3は受験生ですから締まっていると思っています。長い休みのように思っていてもすぐです。風邪が流行っているようですから体調には十分に気をつけてください。体調の管理も大切な勉強です。

 

★新しい小学校の指導要領は小数第一位までの計算しかしないことになります。そのため円周率はから3になるそうです。小数の計算が難しく正答率が低いから簡単にして子ども達の負担を減らすことが目的なのでしょうか。しかし,思うに正答率が低いのは本当に難しいからなのでしょうか。ひょっとして教科書のつくりや文部省の定めた指導法がおかしいからかもしれないとは考えなかったのでしょうか?こんな勉強を続けると今の小学生が中学や高校に進んで苦労するに違いないし,ますます理系離れが進むように思えます。まあ学校で苦労するから塾という業界が成り立っているのでしょうからあまり偉そうなことも言えません。それにしても,文部省に限らずお役所という所は,何でも人のせいにするところがあるようです。自分逹が間違っているかもしれないと,まず考えない亊にしているようです。まあ,他山の石としてそうなりがちな私は注意することにします。

--------------------------------------------------------

1999年11月26日 金曜日 No.132

 学級崩壊や,大学生のおしゃべりが話題となっています。授業を落ち着いて聞けない学生や生徒が増えているということのようです。子ども達は「人のはなしはきちんと聞きましょう」と学校や親からいわれています。少し前のことですが,私に「どうして人の話を聞かないといけないの?」と質問をした子がいます。「自分の利益になる亊があるかもしれないから」といった内容のことを答えましたが,何となく気になりメモをしてありました。すると「修学旅行でバスガイドの話を聞いていないと怒られる」ということを子ども達が話していました。それを聞いてふと思い出したことは,飛行機に乗ると必ずある緊急時の説明です。初めて乗ったときは聞いたかもしれませんが,私自身を含め誰も聞いていないようです。命にかかわる話しのはずなのですが?落ちないと飛行機を信頼しているのでしょうか。それとも私のように落ちたら助からないという諦めからでしょうか。誰も自分と関係がある大切なことだとは思っていないことは間違いないようです。

 

 犬を飼っていましたが,器用に動かし私の車の音を聞き分ける耳に感心しました。人間だってほんの少し前まで,犬のように音から危険を察知したりして身を守っていました。夜は明るくなり安全な現代,今朝の新聞にあったように,この時期はクリスマスソングが街中を流れ,乗り物に乗れば誰も聞いていない車内放送が流れています。自分とあまり関係のない音が世の中にあふれています。あまりにうるさいため音に鈍感になったのか,それとも無意識のうちに音を排除するようになったのかもしれません。こんな突飛なことを考えていると,子ども達は「ねえねえ聞いて」と枕をふってから話し始めることが多いように思えます。また,子ども達全員に何となく話すと「誰に話しているの」と聞かれることも多いように感じられます。

私(四十代後半)より古い世代は人の話しを聞くことが当り前として育ち何の疑問も持たなかった,中には疑問を持った者もいたかもしれないが少数だったのでしょう。静かな時代に育ち,野性の本能が少し残っていて音に敏感だったのかもしれません。今の時代,人の話しを聞いて当り前と思うのは大人の勝手な思い違いかもしれません。子ども達に話しかけるときは,何らかの方法で聞く態勢を準備させることが必要なようです。

 しかし,噺家は噺の前に枕をふって客を引き付けます。バスガイドだって聞かせるのが仕事です。聞かないといけないというのは何だかおかしいし,ガイドさんに対して失礼なような気もします。思うに私の仕事も聞かせる仕事です。どうやって子ども達に聞かせるか,腕をまだまだ磨かなければならないようです。

★西中の期末テストが終わり,二学期に予定されていた学力・定期テストが全部終わりました。テストの時期は何故か良いお天気が続き,テスト勉強より行楽日和でとても残念でした。

--------------------------------------------------------

1999年10月27日 水曜日 No.131

 学校祭が子ども達の間で話題になるのは各クラスで何をするのかステージ発表,学級展示,装飾といったような割り振りが決まる頃からです。私など意外な感じがするのが,ステージなど人前に出ることに人気のあることです。人前に立つと恥ずかしいと思った世代に私が属するせいでしょうか。開会式,閉会式といった分担もあります。式など形式ばったセレモニーに属することが好みでない私はこの役は人気がないだろうなどと思っていました。ところが,「おじさん,見にきて」と声がかかり,今月の七日,久し振りに中学の学校祭を見に行きました。感想は,今どきの子ども達色々と言われていますが,なかなか大したものと感心しました。

 プログラムの最初は,私が退屈と思い込んでいた開会式です。式と名のつくものは堅苦しい雰囲気,高校野球の入場行進など退屈なものが多くて早く終わればなどと思っていました。しかし,今の子は違いますね,いざ始まると立派なパフォーマンスの場でした。当然,校長の挨拶などが入るのですが,登場から挨拶までテレビの人気番組からシチュエーションを借りて見せる工夫をこらしていました。完全に私の予想が良い方にはずれ,とても楽しい開会式でした。もちろん生徒逹には大受けでした。残念だったのは私とおばさんがテレビ番組を見ていない,つまり不勉強のため何が受けているのかわからないことが結構あったことでした。その後,劇などがありましたが,私の印象はバンドの演奏が入ったり子ども達のパフォーマンスのための場になっていて,子ども達が自分を発揮しようとしているように思いました。学級展示も面白いものがありましたが,会場からは展示を作った子ども達の姿が見えない点が残念でした。そのせいか子ども達の間でステージに比べ展示担当は人気がないのかもしれないと思いました。

 しかし,体育館の音響は悪いですね。劇の台詞の聞きずらかったこと,もう少しいつも利用している大人が配慮してあげれないのだろうかと不思議に感じました。おまけに放送器材の故障かなんかで開始が30分以上遅れたのですが,せっかく見にきている親逹に対して何の説明もありません。しばらくしてから,見かねた一人の教師が親の席に来て説明しました。しかし,何だか子ども達の活躍に水をさすようでやはり大人がフォローしてあげるべき場面だったと思い何だか後味の悪いものが残りました。

 何にせよ生き生きと動く子ども達を見るのは楽しく気持ちの良いものです。たまには,学校に行って普段は知らない子ども達の様子を見て見るものだと思いました。

--------------------------------------------------------

1999年9月29日 水曜日 No.130

 ある夜の授業の時に,やたらに部屋に虫がよくはいって来たような気がしました。暑い暑い夏でしたから,色々と自然界に異変があったのではなどと思ったりしたのですが,たんに窓が少し開いてすき間があっただけでした。藻岩の山小屋でも感じることですが,子ども達がとても虫をこわがります。近頃の子は虫を見ることも少ないのだから仕方ないのかもしれません。なだいなだ氏の本によれば,人が暗闇や見たことのないものを恐れるのは当り前のことだそうです。生き物が生きて行くためには警戒心が必要です。暗闇には敵が潜んでいるかもしれないし,見たことのないものは害があるかもしれません。用心しなければ生き物は生きて行けません。と言うことは,敵に発見されないために騒いではいけません。じっと動かず静かにしなければなりません。でも,子ども達は「ワーワー」騒いだり大げさに身体を動かすことが多いのです。警戒心や恐れは今も持っているのですが,どのように使えばよいのかわからない,学習する機会,必要が無くなってしまったのでしょう。今の子ども達の生活が清潔で快適な生活で危険が少なくなった証拠かもしれません。

 清潔と快適な生活からは,虫などは当然のごとくシャッタアウトされています。しかし,虫がいるということは,生き物が生きていける環境にあるという証でもあります。虫のいない,私達の清潔で快適な生活はどんな環境なのでしょうか。藤田紘一郎という寄生虫学者はアトピーや花粉症が増えたのは回虫やさなだ虫を駆除したことが関係していると考えています。清潔を追及しすぎたため人間が本来持っていたさまざまな抵抗力のようなものがなくなったということなのでしょうか。人間の身体は自然そのもの何でしょうが,最近はどこか今までと違った身体になってきているのかもしれません。

 

 私は北海道に来るまで乳牛はいつもミルクをだしているのだと漠然と思っていました。子牛を生まないとミルクが生産できないことを知り,一頭の牛が産出するミルクの量は子牛を育てる必要量をはるかに超えていることを知りました。人間の必要に応じてたくさんのミルクを作るようになったのです。野性の牛には必要のないことです。はたして乳牛は牛なのでしょうか。同じように人間も変わってきているのかもしれないと思ったりします。

 藻岩山で過ごす時間はゆっくりしているように感じます。子ども達とゲームをしたり大騒ぎしているのですが,ゆったりと時間が経過するように思います。子ども達も時計を見て「まだこんな時間だ」と驚いたように言います。一日は同じ時間ですが最近はとても速く過ぎるようになっているようです。新聞によればNHKのアナウンサーが一分間に話す字数がどんどん多くなっているとのことでした。世の中はどんどん速く忙しくなるようです。極端な言い方をすればどんどん人間離れしていく時代に,自然の多い場所にいるとホットするのかもしれません。実は単に年で時代について行くのが辛いだけなのかもしれません。しかし,子ども達には「急いで,試験は時間内に解かないと駄目だからね」と言っている私です。

 

★とにかく,テストが続く中3です。テスト勉強として,時間をはかり,模擬テストの形式をとりました。前に書いたように,テストは点取りゲームですから,真剣に考えて書いた答えも適当に書いた答えも点数に変わりがありません。実際に適当に答えを書いて当たったようです。「気持ちで負けないように」など好きではありませんが,ほんのわずかの可能性があれば賭ける気持ちが必要だといえます。点数を取るためには答えを書かないといけない,これは現実です。しかし,適当に答えるといっても,例えば,数学の答えは問題に出ている数値より大きくなるか小さくなるかなどの予測がつくことがあります。数学で大小を考えるのは基本ですから,そういった予測は実際に解いているときに有効です。変な数値が出てくればすぐにわかるからです。英語の単語なども,意味を予想して当てれば,印象に残ってよく覚えるのではないでしょうか。ともかく,点数を取るため,わからないとあきらめずに予想して答えを当ててほしいと思っています。

--------------------------------------------------------

1999年8月30日月曜日No.129

 異常なほどの猛暑の中,暑く長い講習が終わりました。今年はぐったりした疲れが,まだ残っているように感じます。しかしどの学年も,この暑さも関係なく,みんな元気でよく勉強しました。まったく頭の下がる思いです。

 「勉強」と書きましたが,近ごろは「点取りゲームの練習」をしているという考えが頭から離れません。夏休みの講習は復習をするせいか,よけいに「点取りゲームの練習」をしている感じが強くなりました。実際,子ども達にも「試験は点取りゲームだから」と言っていた私でした。そこで試験という「点取りゲーム」について少し考え,頭の中を整理したいので思ったことを書かせていただきます。

 ゲームである以上ルールがあります。ルールは簡単で,

  • 自分の力のみでフェアに,つまり不正や不公平がないこと。
  • 筆記具を用い自分で記入する。
  • 減点法は取らない,マイナス点になることはない。
  • その他のルールにつ・レ「ては,明らかな間違いを除き,出題者が決定権を持つ。

 こんなものでしょうか,他にお気付きのことがあれば教えてください。まだ他にもありますが,種目というか科目によって違います。例えば数学では,ことわりがない限り最も簡単な形にするとか,国語や英語などでは字数制限があったりします。こういったルールに従えばあとは何でもありでしょう。ルールは制限ですが,例えば減点法ではありませんから何でも書くといったように,ルールを有効に利用するかどうかで点数が違ってきたりします。このゲームに上達するには覚えることが色々と多いには違いありませんが,他に注意することは

  • 正確であることは当然だが,制限時間があるのだからスピードを忘れてはいけない。
  • 読める字であればよい,きれいな字は点数にならない。
  • 知っているわかっているよりも,出題者の要求に合わせなければならない,記号で答えよは記号で答える等々。
  • 試験の恥は書き捨て,わからない部分は自分勝手な想像でもいいから知っていることにつなげてみること。

 後は何といっても間違いを恐れない・面倒がらないこと,減点法はない。

 最初はフェアなどちょっと格好もよかったのですが,こう書いてくると,お上品よりもずうずうしさ・几帳面よりいいかげんめ・おっとり構えているよりはなりふり構わずなどということを強調しているようで,どうもいけません。格好良くスマートにやるのが一番ですが,時には不細工でも確実にこなすことも必要なのかもしれません。何といっても,中3は2学期に学力やら定期テストやらが待っています。

★私は小学校の図画工作に始まり,中学の美術も嫌いでした。絵も彫刻も作るのが嫌いですから当然下手くそですが,知り合いに熊の彫刻で身を立てようと思ったほど上手な方がいます。その方がおっしゃるには,「削りすぎるくらい削る人は上達する」そうです。削りすぎて失敗すると恐れてはいけないということだと私は解釈しました。これは点取りゲームにも関係があるように思います。特に国語などの本文から抜き出せば答えになる問題はそうです。みんな良い所を選びますが,最初から字数にあわせようとする子と,中心を決めて字数をあわせる子で結果が違ってきます。最初に字数を削ったほうがいい答えになります。国語に限らず「あれもこれも覚えなくては」より「これだけ覚えれば」の方が結果がついてくるようです。確かに,もしテストに出たらと思うと切り捨てるには勇気が必要ですが,要点とはこれ以上削れない残った所ですから削る練習はどうしても必要でしょう。

★山小屋便り・夏休み中に卒業生と一泊しましたが藻岩も暑くて大変でした。若い人達の熱気もあってか,夜中まで暑くて寝付けずまいったまいった。でもみんな楽しそうでした。

  --------------------------------------------------------

1999年7月26日 月曜日 No.128

 二月ほど前に大きなホワイトボードを手に入れました。おかげで両方の部屋に2枚のホワイトボードがあり,子ども達は今までより落書きがしやすくなったと思います。時々,「ホワイトボードに書いてもいい?」と私に許可を求める子がいます。私は「駄目だよ」と答えることにしています。わかっている子どもは即座に「書いてもいい?」の部分を訂正してホワイトボードに落書きを始めます。慣れない子は「駄目なの」とか何とか言っていると「『書いてもいい?』って言ったからだよ」と他の子が言います。落書きをしたい子は色々と言い方を変えて私に許可を求めます。しかし,いつまでも私から許可を得られません。さて落書きを始めた子は「書いてもいい?」の部分をどのように訂正したのでしょうか,おわかりでしょうか。子ども達にこんなことを言っている私ですが,どうかすると子ども達から同じように「駄目だよ」などとしっペがえしをされています。

 人が何かをするとき,他人から許可をもらう場合と自分で決める場合とがあるのではないでしょうか。許可をもらうということは人の判断に従うことであまり責任がないでしょう,しかし,自分で決めることは責任が大きくて大変なことだと思います。世の中に出たらどちらの場面が多いのでしょうか。個人の亊,プライベートなことは自分で決め,組織それも大きな組織に属する事柄ほど許可をもらう亊が多いように思います。さて,子ども達には許可をもらうのと自分で決めるのとではどちらが必要なのでしょう?テストなどの問題を解くという場面に限れば,間違いなく自分で決めなければなりません。テスト中に誰もどちらが正しいかを教えてくれるはずもないからです。自分で基準を持って判断し決める,普段から練習していないと難しいことだと思います。やはり,人に判断してもらうのは楽なことで,安きに流れるのが普通なのですから。

 

 大きな権限を持って自分の判断で仕事をするのは,やり甲斐があって楽しいものです。指示された通りにしかできないことは面白みに欠けますが気楽なものです。こんなことを子ども達は考えていないと思いますが,子ども達が生き生きして見えるのは自分達で考え判断を下して何かをしているときでしょう。

 

 私に「~していい」と許可を求めなくても,して欲しくないことは私から「するな」と禁止するだけのことです。自分のしたいこと,して欲しくないこと,自分の思いをきちんと相手に伝えることや,して良いこと悪いこと,何でも自分で判断できることが大人になることでもあると思います。

★山小屋便り

 6月から小学生と中一のお泊会をしました。五年生以上の学年は現地集合にしました。バス,地下鉄,バスの乗り継ぎはそれなりに大変だったようです。大人と一緒に公共交通機関を利用したことはあっても,子ども達だけというのは初めてという子がほとんどでした。大袈裟に言えば,大人への一歩ということでしょうか?

 山小屋では夜遅くまでゲーム大会,私とおばさんが良い子で一番早く寝て,子ども達のにぎやかな声を聞きながらうつらうつら,やはり年でしょうか。焼き肉の炭をおこすのは,食べるよりも面白いらしく

 

 うちわで扇いだり火吹き竹を吹いたり熱心にやっていました。それから黒く熟した甘酸っぱい山桑の実を子ども達と一緒に味わってきました。夏休み中か終わる前にもう一度お泊り会をやろうと思っています。

--------------------------------------------------------

1999年7月1日 木曜日 No.127

 先日,十年程前の卒業生と会って昔話に花を咲かせました。話の中に,「家でおじさん・おばさんて言ったら,親に先生と言いなさいって怒られた」というのがありました。以前から「先生」と呼ばれるのが嫌で,何か他の言い方はないかと思っていた私が「おじさん・おばさん」と呼ぶように,塾生逹にお願いし始めた頃の卒業生です。当時は「先生」と「おじさん」が混じっていましたが,今の塾生逹は「先生」と呼んだりすると「学校と違うよ。塾だよ,おじさんだよ」などと言っていますから学校と違って「おじさん・おばさん」が当り前なようです。今だに私の方は「先生」と呼ばれると,どこか妙な落ち着かない気持ちになります。そのせいで,子ども達には申し訳ないのですが,呼ばれたことを無視したりすることがあるようです。

 

 ところで,数学の先生に「おじさん」と呼びかけた子が以前いました。最近では担任の女の先生に「おばさん」,お習字字の先生に「おじさん」と言ってしまった子がいるそうです。さて,先生逹はどんな顔をしたのでしょうか,他人事ながら興味があります。自分が呼ばれたことに気がつかないということも考えられますが,もし気づいたとしたら,驚いたことは間違いないでしょうが「先生逹」は私のように無視したのでしょうか,それとも普段のように対応したのでしょうか。それに,呼んだ子どもの方も「しまった」と思ったかもしれません。しかし,女の先生に「おばさん」はまずかったかもしれませんね。

 

 子ども達は熱中してくると何処にいるのか忘れてしまうことがあるようで,時々,私は「お父さん」と呼ばれることがあります。それどころか「お母さん」と呼ばれたことが何度かあります。初めて「お母さん」と呼ばれたときは,しばし絶句し,言った子どもの方もびっくりして赤面するという状態でした。しかし,「お父さん」や「お母さん」という言葉が出るのは,いつも熱心に問題を解いていて質問をする時です。このことは,子ども達は集中しているなかにもリラックスしている証明のようにも思えます。それに,きっと家でも同じように困ったら「お父さん」「お母さん」と普段から声を掛けているんだろうし,なかなか良い親子関係だろうと感じています。

 人に声を掛けるときに何と呼ぶか,簡単なようで案外難しいところがあります。やはり女性に「おばさん」はまずいでしょうし,だからといって「お嬢さん」なら大丈夫という保証もないかと思います。相手と自分との関係や場面によって様々です。私と子ども達の場合は,やはり「おじさんが」慣れていて落ち着いて返事ができて無難な呼び方でしょう。他に適当なものがあれば子ども達が考えてくれると思っています。

--------------------------------------------------------

1999年5月25日 火曜日 No.126

 人間の噐が判ります。何かいつもと違った出来事,それも緊急を要することが起きたとき噐の大きさが判るようです。

子どものちょっとした怪我は今までも何度かありましたが,骨折という大きな怪我は初めてでした。当然病院に行くのですが,財布を忘れて支払いができない,免許証がないから免許不携帯,おまけに財布を取りに戻ろうと車に来ると車のキーがない。ポケットからバッグの中まで全部ひっくり返してもない。ひょっと足元をみると鍵が落ちているではありませんか。本人はポケットに入れたつもりだったのですが,まあ,散々なものでした。

 私は忘れ物や落し物が多く,なくした傘は数知れませんが,拾った傘はわずか一本です。子どものころから親や妹逹に何度も言われ,結婚してからも言われてきたことでもあります。そのせいか,最近は鈴を付けたり,それなりに注意しているので落し物・忘れ物は減りました。しかし,いざというときに本性が出てしまったということでしょう。こんな調子だと,大地震がきたらどうなるのでしょうか,何とも心配なことです。場数を踏み経験すれば大丈夫などと言いますが,緊急を要する事件など経験しないで済むのなら,しないにこしたことがありません。そんなことを考え,おまけにめったにないのだから心配しなくてもいいだろうと,安気に構えるのが精神衛生上良いかと思っています。しかし,何かのときに頼りにならないと見られるのは嫌なものです。やはり格好良く沈着冷静に,まるで映画の主人公のようにやりたいものだと内心思いますが,どう考えたって無理でしょう。その場その場で,おろおろしながら,格好が悪くても何ができるのかできることを精一杯やるだけのことだと思っています。

★定期テストが過ぎると無効になります

 定期テストが過ぎると今までの宿題が無効になります。急いで出してください。子ども達自身がよく知っているのですが,春から出した宿題の期限が定期テストです。図書券の対象からはずれてもったいないし試験勉強にもなるので,やりかけのところや答合わせが終わっていないところは早く仕上げて提出してください。

 

--------------------------------------------------------

1999年4月21日 水曜日No.125

 子ども達から「割り切れない」,「世の中割り切れることより割り切れないことのほうが多いんだから気にするな,割り切れない時は分数にすると計算しなくていいから楽だよ」と私。「分数になっちゃった」と困ったように子ども達から声が上がり「それはいじめだよ,分数だってちゃんとした数なんだから特別扱いしないでいいんだよ」と私,方程式などを解いている時によくある会話です。小学校から割り切れる割り算をたくさんやっているせいか「割り切れない」=「計算間違い」と子ども達は思うようです。実際に適当な数で割り算の問題を作ると割り切れることのほうが少ないはずで,割り切れる割り算は特殊なのかもしれません。何となく特殊と一般が入れ替わってしまったような感じがします。割り切れない,半端のあるものはちょっと困りものという感じです。そのために便利な分数があるはずでが,分数は子ども達から本当に嫌われています。私なんかは本当に分数がかわいそうだなどと思ってしまい,ついつい「いじめだよ,分数と仲良くすると数学が簡単になるよ」などと口走ってしまいます。しかし,分数は取っ付きにくいという第一印象が強いせいか子ども達には抵抗感が大きいようです。子ども達を納得させるのが私の仕事でしょうからこんな愚痴を書いても仕方ありません。

 

 ただ,数学に限らず見慣れない問題に出会う時の子ども達の様子が「変だ」「特別だ」と思ってしまうようで気になります。確かに生きていくために人間は危険を避けないといけませんから「変だ」と思うことも必要です。そして変なことも何とか解決しないといけません。しかも解決する方法は「習ったこと」・「知っていること」しか使えません。トラブルを解決するときに何と同じ方法が使えるのか,「同じ」とどこかで思ってほしいのです。何故かというと,話は飛躍しますが,子ども達は私などの世代と違い外国にもどんどん出かけるし,他民族の人達と一緒に仕事をしたりが当り前になると思います。そんなときに違うとか特殊などと思うようでは困るなどと思ってしまうからです。まあ,数学を嫌がられることや,私自身がそうした経験がないことからくる単なる杞憂と言えるでしょう。しかし,くだらない心配をするよりは,なんとか分数とも仲良くしてもらえる様にもっと工夫しなければなりません。

★藻岩山小屋のお泊り会について

 ある方のご好意で,今年から小さな山小屋を借りることになりました。場所は藻岩山の観光道路の入り口から近く,ほぼ,いつでも自由に使えます。そこで第四の土日を中心に,一泊のお泊会を学年別などの小人数で行おうと計画しています。費用などの詳細は毎月の通信でお知らせします。

 

--------------------------------------------------------

前のページ  信天翁通信へ  次のページ