ごあいさつ
通信Back number1998年4月~1999年3月
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1999年 3月 20日 月曜日 No.124 「同じことを同じように」最近子ども達に何度も言います。子ども達は行き詰まると,今までと違った方法があるように思ってしまうのか色々なことをやり始めます。確かに出題者は形を変えいかにも違う問題のように見せようとしています。しかし,問題を解くには習ったこと,知っていることしか使えません。そこで私は「やり方を変えるな」という意味で「同じことを同じように」と言います。まあ,教科書などにも「工夫して解きましょう」なんて書いてありますから何だか特別な方法があるように子ども達が思っても無理はないのかもしれません。それと,難しそうな問題は幾つかの部分に分けて,同じ公式を何度も使うことがよくあります。そんな時,一つの問題で何度も同じことを使うのが変だと思って変えてしまうことも多いようです。そこでまた「同じことを」と言うことになります。慣れた子なら私の代わりに「同じことを同じよう にだね」と言ってくれます。
応用問題という言葉も良くないように思います。 単に公式をどう使えばいいかの練習なのに,子ども達は「応用」という特別なことをしないといけないように感じてしまうようです。大辞林によれば応用は「理論やすでに得た知識を、具体的な個々の事例や他の分野の事柄にあてはめて用いること。また、相手やその場の状況に合わせて変化させて用いること」とあります。すでに得た知識ですから,知っていることをあてはめることなのですが,後半の変化させて用いるばかりが強調されているようです。そもそも,公式はいつも同じように使えるから公式です。公式を使うことを考えれば簡単に解けるのですが,妙にいじくりまわして解けなくなるように思います。応用力が無いなどと言いますが,私が子ども達を見ると,「同じことを同じように」できないと言うほうが正しいように思えます。別ものにしてしまうために解けないということです。仕事でも「同じことを同じように」することが多いはずです。何のために勉強をするのか,色々な答があるのでしょうが,ひょっとしたら「同じことを同じように」できるようになるためなのではないだろうかと思うこの頃です。 ★現行制度での道立高校の入試は今年度が最後となりました。13年振りに国語で漢文が出題されたり,目先は変わったようですが,難問もなく平均的な水準だったようです。来年度から学区が細分されます。また,選抜基準などで高校が独自に決めることができる部分が増えます。各高校の基準はできるだけ早い時期に知らされる亊になっているようです。中学からだされるプリントなどには良く注意して,必ず目を通すようにしてください。人から聞いたなどということは,正しい情報かどうか,学校や教育委員会などに問い合わせるなりして確認してください。困った時など,私でお役に立ちそうでしたらどんどん利用してください。 -------------------------------------------------------- |
1999年 2月 22日 月曜日 No.123 子ども達が言うことで私を悩ませる一つに「頭良い」というのがあります。子ども達が意識しているかどうか知りませんが,「変えることの出来ないもの」のように私には聞こえます。しかし,「頭は良くなるし,良くするものだ」と私は考えます。確かに脳味噌は親からの授かりものですから,親に似たところは仕方ないと思いますが,生まれたときからすべて決まっていて変えれないものではないでしょう。私のような年でも,子ども達のようなスピードにはついていけませんが,まだまだ成長できると信じています。思うに「◯◯高校に入れてもびりだから,ランクを下げて××高校にするとトップでいられていいよ」などと学校の先生でさえ子ども達に言っているようです。とても失礼です,「あなたはもうこれ以上伸びません」「下の連中が上がってくることもないでしょう」と言っているわけです。子ども達が変えれないことと思っても仕方ないのかもしれません。子ども達は身体も頭脳も柔軟で,毎日のように変化し成長しています。そこで学校が必要とされているのだと考えてもいいと思います。 ところで,どうすれば頭が良くなるのか?それが問題です。高い山には広い裾野があり,大きな木は深く根を張っています。頭を良くするには幅広い知識や経験が必要なようです。急がば回れと言います。失敗をして遠回りのようでも,失敗から何かを学んだり経験を積むことができるでしょう。ただし,本人がいつも何かを学ぼう,頭を良くしようといった目的意識を持たないといけないのは当然でしょう。そのためには本人が「頭は良くなる」と思っていないといけません。子ども達は私と違って十分に若いのですから,自分の可能性と才能はどこに限界があるのかまだまだわかりません。「変わるし,変えることが可能」なのです。どうすれば頭が良くなるか自分でもよく考えてほしいと思っています。 ところで,子ども達の言う頭が良いとはどういうことを指すのか,子ども達が言っているのは大抵テストで点数をとることです。まあ,その方法を教えるのが私の仕事であります。なかなか思うようにいかないものです。やはり私自身の頭を良くしないといけませんが,子ども達とのやり取りから感じたことを来月は書いてみようと思います。 -------------------------------------------------------- |
1999年 1月 26日 火曜日 No.122 「捨てなさい」中3の子ども達が上手にまねをします。そんな口調で話しているのかと私が驚かされます。中3は休み明けすぐに学年末テストがありました。試験範囲は3年で習ったところ全部などという科目がほとんどです。しかし,試験時間に限りがあるのですから,教科書全部や習ったこと全部が出ることはありません。特に試験範囲が広ければ広いほど大切な要点が出題されるはずです。つまり,試験勉強とは「どこを捨てるか」を考えるようなもので,まさに「山を掛ける」ことになります。しかし,子ども達はいろんなところが気にかか り,そこで私の「捨てなさい」が出ます。
大切な要点をどう捕まえるか,まず,教科書のゴシックの太字で書かれた部分で,これは誰でもすぐに気がつくことでしょう。後は,授業中の先生の様子から大切な部分かどうかを判断することでしょう。口調や声の調子などの話し方,手ぶりや身振りが入るのかもしれません。子ども達に観察力が必要となります。「なくて七癖」といいますから,先生の癖を観察すれば,また違った面白さが授業に加わっていいかもしれません。多少違うかもしれませんが,人間を観察する力は社会に出れば絶対に必要です。仕事の相手や友達や,それどころか結婚相手を見つけることまで,人をみる力がなくてはいけません。子ども達にすれば,先生だけでは相手が少ないし,先生の癖はすぐに見つかって面白くなくなるのかもしれませんが。
要点を捕まえるということは,反対側からみれば,「捨てる」部分を見つけることでもあります。なんでも「捨てる」ためには,ちょっとした決断が必要なようです。私など読みもしない本を大事に持っていて,置き場に困ったりしています。間の抜けた話ですが「捨てる」決断が出来ないのです。「捨てよう」と思った部分がテストに出たらどうしようと子ども達が考えても無理はありません。しかし,普通の人は全部を覚えることは出来ません。また全部を覚えることは,大切な所がぼやけてしまうことになります。何かを失わずに全てを手にすることはないと思います。ことわざにも「二兎を追うもの一兎をも得ず」とある様に,すべてを手に入れることは難しいことでしょう。また,手に入れたつもりでも他の何かを失っているのではないでしょうか。全部などと必死にならず,一歩引いて冷静に大切なものが何かわかるようになりたいものです。 ★講習が終わりました。英語長文問題のテキストは初めて使ってみたところ,長い文に馴れ苦手意識が少しは薄れたようです。予定表にあるように入試まで残すところ後わずかです。1・2年生も学年末テストが控えています。自分のベストを尽くすことは当然ですが,インフルエンザがはやっているようです,体調には十分注意して良いコンディションで試験に臨むようにしましょう。 ★アルプス一万尺のメロディーで,もしご存じでしたらデカンショ節でも構いません。
私が中学のころ遠足のバスの中で歌ったりした替え歌です。こんな歌ですから,みんなが知っていると思っていました。ところが,子ども達だけでなく,おばさんまでも知らなかったのです。ひょっとしたら私の通っていた中学だけのローカルな歌かと思ったりしましたが,ある子のお母さんが知っていました。何となくほっとした私です。 -------------------------------------------------------- |
1998年 12月 No.121 あまりテレビを見ない私達ですが,毎週木曜午後10時から3チャンネルの「課外授業・ようこそ先輩」という番組は欠かさず見るように心掛けています。研究者・プロデューサー・デザイナーや歌手や役者など,その道で有名な人が先生になって自分の母校の小学校6年生に授業をする番組です。
プロが自分の専門を子ども達に教える授業ですから,どれも印象に殘っています。名前は忘れてしまいましたが,増毛の小学校の先輩でフランス料理のシェフの人は,地元の食材を使ってフルコースの料理を作るという授業でした。色づく前の青いトマトを使ったりと,私には予想外の展開がある面白い番組です。また,山本寛斉の授業は元気な自分を見せるショーを作ることでした。子ども達は自分を見せることを最初は恥ずかしがっていました。しかし,だんだんとのっていく,のせられていくと言ったほうがいいでしょうか,素敵な自分逹を演出していました。すっかり気に入って,山本寛斉のデザインのものがあれば買うことにしようと思った私でした。そんな授業のなかに「見えないものを見えるように」というのがありました。「仲良し」や「対決」をどう表現するか。さて,どうすれば見えるようになるでしょう?意外に簡単で◯と×でした。子ども達に出された課題は「ドキドキ」「さみしい」「元気」「やさしい」「くやしい」といった感情を物を使って作品にするというものでした。子ども達の靴を並べたり,ありふれた物を使うのですが,組み合わせや配置を変えることで「おやっ」と思わせる作品になっていました。
何と言っても,どの授業でも感心するのは,子ども達が実に楽しそうにしています。うらやましいと思うほどです。先輩が子ども達に自分自身と自分が身につけた何かを伝える,何かとは当然形のないものです。目に見えないものを子ども達に伝える技術も当然ですが,子ども達に伝えたい何かをもっているということが素晴しいことではないでしょうか。はたして私にはあるでしょうか。プロとアマチュアの違いはそんなところにあるように思います。私もプロとして見習わなければならないでしょう。NHKの宣伝をするつもりはありませんが,もし,よければ一度見てください。私達に参考になるだけでなく見て面 白い番組です。 ★呼び名は何でしょう おばさんの母親が大阪から来ています。電話に出て大阪弁が聞こえても驚かないでください。おばさんや私から言えば「お母さん」,私達の子ども達から言えば「おばあちゃん」。今,子ども達は大学生で普段は家にいません。そこで私達は「お母さん」と呼ぶことにしました。そう遠くない将来,私達にも孫ができるかもしれません。10年以上前から「おじさん,おばさん」の私達ですが,「おじいちゃん,おばあちゃん」は遠慮したいように思います。皆さんのおうちでは何て呼びのでしょうか。呼び方なんて符牒のようなもんだからどうでもいいという人もいるかもしれませんが,その場の雰囲気や印象が変わります。鬼が笑うどころか,ずいぶんと先の話で,今から考えても仕方がないことかもしれませんが心の準備はしておこうかと思います。 -------------------------------------------------------- |
1998年 11月 23日 月曜日 No.120 「山を掛ける」大辞林によれば「(1)万一の幸運をねらって投機的な冒険をする。山を張る。(2)幸運をあてにし、推定をもとにして準備する。『山を掛けて試験勉強をする』」とあります。幸運をねらってとありますから,確実性はあまりなく博打みたいなものでしょうから,あまり良い意味では使わないのでしょう。 しかし,私にとって『山を掛けて試験勉強をする』,試験前の短い時間を有効に使うには当然のことでした。今は試験の時期なので何の気なしに「山,掛けてる?」と子ども達に尋ねたところが,「山を掛ける」の意味を知っている子は少数でした。私は思わず「まぐろのやまかけとは違うぞ」などと言ってしまいました。意味を知らない子ども達は当然ですが,山を掛けて勉強をしていないのです。子ども達がどこが大切で何がポイントなのか考えないで勉強しているのでしょうか。試験範囲全体を万遍なくやろうとして,時間が足りなくなっている子はいるようです。当り前のことと思い,言いもしなかったことですが,もっと早く話せば良かったと後悔しています。
山を掛ける試験勉強というとあまり聞こえがよくないようですが,私は高校時代ある先生に「山は掛けるものではない。掛かるものだ」と言われました。「授業で試験に出す大切なところは他のところと区別がつくように話している。よく聞いていれば,山は掛かる」ということでした。確実にポイントを絞れと言われたわけです。言われなくても,私は山を掛けていましたが,「掛かる」という表現は「眼から鱗が落ちる」といった感じでした。人の話はぼんやり聞くのではなく何が山かよく注意すること。また,話を聞くのと同じように試験勉強だって,勉強に限らず目標に向かって何かをする時は,的を絞ってやることが大切なことではないでしょうか。 ひょっとすると,子ども達はポイントはどこなのかと思い人の話を聞いていないのだろうか,それとも,私が説明をする時ポイントを絞って話していないのだろうかと少々不安になってきます。どちらにせよ,これからは話の中心が何なのか,子ども達にきちんと伝わるように工夫しなければいけないと考えています。それと,私にとって当り前でも,子ども達には当り前でないことが他にもたくさんあるかと思います。考えてみれば,子ども達の常識を私が知らないこともよくあります。私が子ども達に教えてもらうこともあるのですから,私も少々おせっかいでも私の常識を話すようにしようと思います。
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1998年 10月 26日 月曜日 No.119 野球に関心のない人はご存じないかもしれませんが,今,横浜ベイスターズと西武ライオンズが日本シリーズを戦っています。昔ほどの興味がもてなくなった私ですが,横浜ベイスターズの監督の権藤さんには関心があります。権藤さんはチーム内で選手に自分のことを「監督」ではなく「権藤さん」と呼ばせていると新聞に書いてあったからです。なぜなのか理由は書いてありませんでしたが,人を肩書きで呼んだり呼ばれたりするのが嫌で,「先生」と呼ばれたくない私はとても親近感を持ちました。日本という国は肩書き社会だと言ったりしますが,その影響があって呼び方に肩書きをつけるのかもしれません。
ところで,私の場合は「おじさん」ですから多少違います。「倉橋さん」でも私は構わないのですが「おばさん」との区別が難しいことや,適当な呼び名が無かったというだけのことです。私はこう呼ばれたい,それでは子ども達は何と呼びたいのでしょうか。私の高校時代には「おおぼけ」や「こぼけ」という先生がいました,髭をのばしてからかその前からかはっきりとしませんが「もじゃ」と呼んでいた子ども達がいました。何か適切な,私も気にいるような呼び方があればそれもいいなと思っています。ひょっとすると知らないのは私だけで子ども達の間だけで通用する呼び方があるのかもしれません。反対に私が子ども達を呼ぶときは,名前を呼び捨てにするか愛称で呼ぶように心がけています。子ども達はどんな呼ばれ方がいいと思うのでしょうか,気持ち良く聞いていてくれているのならばうれしいことです。
家族の間や友達どうしの間の呼び方など,一人でいくつかの呼び名があると思います。各々の呼び名には呼ぶ人や呼ばれる人の思いがあることでしょう。小さいころの呼び名は嫌だとか,私ぐらいの歳になると懷かしいだとか人によって様々です。呼び名はやはり出席番号などとは違い,人に接する時,お互いに気もちよくお付き合いするためには,どうしても必要ではないでしょうか。野球のことから呼び方について改めて考えさせられた「権藤さん」でした。 ★先日,卒業生の同窓会をやりました。23,4になる子ども達です,子ども達などというと怒られるかもしれません。ほとんどの子が社会人になってそれなりにやっているようです。久しぶりにあって,おじさんもおばさんも気がつかないほど変わった子(後でおじさんもおばさんもその子に怒られました。)もあれば,全然変わっていないという子もいました。話しているとだんだんと昔に戻るようですが,それぞれが大人になり働くようになって嫌なこともあるだろうけれど,楽しそうに近況をお互いに話しているのは良いものでした。塾は勉強するところなのでしょうが卒業生から勉強をした話は全然出ません。行き帰りや,塾でしたゲームや遊んだりのことばかりです。後は私やおばさんががこんなことを言ったとか,今から思うと何だか気恥ずかしいようなこともありました。でもみんな忘れずにいろんなことを覚えていてくれているというのは私達にとってとてもうれしいことでした。 ★獅子座流星群…新聞記事でご存じかもしれませんが,33年ごとにたくさんの流星が飛ぶので有名だそうです。東アジアで最高の観測条件がそろうということです。(ピーク予想時刻=18日午前02時)期間的には11月の15~22日となっていますが,17・18日だけでも,お天気がよければ,空を見上げてみるとどうでしょうか。前回1965年アメリカでは千個からの流星が見えたそうです。 -------------------------------------------------------- |
1998年 9月 28日 月曜日 No.118 「むらなく,無理なく,無駄を恐れない」,かなり昔ですが,おばさんがよく見ていた教育関係のテレビ番組で耳にしました。「むらなく」それを聞いて私は「まあ当然かな」,「無理なく」私「うんその通り」と納得,「無駄を恐れない」私「なるほどなあ」と感心。 中間テストが終わりました。テストのたびに気になることの一つに子ども達の体調があります。毎回のように風邪を引いたり具合の悪くなる子がいます。テストが近づくと睡眠時間を極端に減らしたり,かなり無理をすることが原因のようです。せっかく勉強しても体調を悪くしてはテストで実力を発揮することができません。勉強したことと体調をこわすことで差し引きゼロなら良いのですが,かえってマイナスになると大変です。試験前に体調を整えることも大切な勉強だと私は思っています。無理をすることは何かを犠牲にしている,あるいは何か他のことにしわ寄せがいくということです。そのため無理をしていることは長続きしません。無理のない自分なりのペースやリズムを身につけてほしいと思います。リズムのあることが,むらの無い勉強になると思います。
「無駄を恐れない」これはなかなかゆるくないと思います。試験は時間が限られているし,色々と知識を身につけることで無駄を省き効率良く物事を運ぶことが褒められても,無駄の多いことが褒められることを聞いたことがありません。広辞苑で「無駄」を引くと「役に立たないこと。益のないこと。また,そのもの。」とあり,無駄話・無駄金.無駄遣いなどなど良い意味で使われることはないようです。ところで,無駄かどうかが決まるのは結果が出てのことです。結果を先回りして「無駄かもしれない」と思い出すと何もかもができなくなってしまいます。だから「無駄を恐れない」という表現になるのでしょう。そもそも,学校の勉強,子ども達がいつも言うように「こんな勉強何の役に立つの無駄じゃないの」という結果になってしまいます。無駄なく効率良くとやってきた,大人に対する鋭いしっぺ返しのように思えます。しかし,考えようによっては「無駄話」は退屈な時間を楽しいものに変えてくれるし,「無駄遣い」と思ったものが思いがけないところで役に立つこともあります。無駄かも知れないが「結果オーライ」のつもりで何でもやってみることが必要なこともあるのではないでしょうか。勉強など「無駄骨」を折って苦労した事柄は良く覚えていて,かえって得意になったりすることもあります。若い間は無駄をする時間が十分にありますから,子ども達に「無駄を恐れない」で何でもチャレンジしてほしいと思います。
★この歳になってようやくといううか,最近よく思うことですが,人間は何かを手に入れると,どうも何かを失うようです。効率良くすると無駄だけでなく,余裕というか気持ちの中の何かが無くなるのではないでしょうか。結果オーライと思ってはいますが,良い結果だけがあるということはなくて,何か代償を払っているのでしょう。反対に何かを失ったということは,何かを手に入れたということなのかといわれると,あまり自信がありません。しかし,得たものがあるときは必ず何かを失っていくのは間違いなく,人間は何もかもを手に入れるということはないのでしょう。困ったことに,手にはいるものは良く見えていたりしてわかりやすいのですが,無くなるものは見えにくく後で気が付いてがっかりすることが多いようです。空気のように当り前すぎて,無くなってようやく有難さがわかるようなものが身の回りにはたくさんあるのでしょう。私自身が歳をとって多くのことを手に入れそんなことを思うのでしょうか,それにしては大したものを手に入れたようでもありません。何にしても,無くなるものは何かということにも一度は思いを巡らせることが必要なのかもしれません。
★無駄といえば中学生は試験が終わり,学年によって違いますがゲーム大会をすることになっています。とっても楽しみにしてくれているようで,子ども達のの雰囲気や私達との関係もよくなるし良いことなんだろうと思っています。生活の中に遊びを上手に取り入れることができる人は楽しく暮らすことも上手でしょう。
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1998年 8月 30日 日曜日 No.117 休みになると大人も子どもも同じようにのんびりすると思います。子ども達の顔の緊張がとれておだやかに感じられ,ほっとしたような雰囲気がうかがえます。ながい時間を過ごす学校での生活には結構ストレスがあるのでしょう。そのせいか,ホワイトボードの落書きに「人生に疲れた」とありました。人生80年の時代に今から疲れたなんて早すぎると私は思うし,きっと他の人も「まだ若いのに,何だ」などと感じるのではないでしょうか。しかし,子ども達は大人に比べ経験や知識が多くありません。色々なことが新しく未経験のことばかりと言ってもよいのではないでしょうか。。大人だって環境がすっかり変わって今までの経験が役に立たなかったりすると大変疲れます,子ども達が疲れるのは無理がないのかもしれません。 大人は経験から色々と学び,智恵というもの,場合によってはずるさと言ってもいいものを身につけていきます。世間とのつきあいをいつもいつも真剣に受け止めている訳ではありません。手を抜いたり,相手を適当にそらしたり,時には逃げて知らん顔をしたりして何とか楽をしようとしています。 真剣だから真面目だから良いんだとは思いませんが,まだまだ知恵やずるさが身についていない子ども達は,学校や世間と真面目に真剣につきあっているのではないでしょうか。大人の私のほうが適当にやることを知っていて,つまりいい加減に世間を渡っているのですから子ども達のように疲れないのかもしれません。真剣,字がよくありませんいかにも人を傷つけそうです,真面目とかとても疲れる響であまり好きになれませんが,私が子ども達を見習わないといけない言葉の一つなのかもしれません。 夏休みは家庭でのんびりと過ごす時間が増えますから,子ども達はのびやかな顔に戻るようです。塾の顔と比べてどうなんでしょうか。塾は勉強をするところだし,他人がいるし何といっても私がいますから,それなりに緊張感があるのだと思います。ですから,家だともっとくつろいだ顔をしているのだろうと予想しています。あまりのんびりしすぎるとボケるかもしれませんから,適度の緊張をもって2学期に入ってほしいものです。ともかく,24日から中学校も2学期が始まりました。「疲れた」なんてことのないように,みんな楽しい学校生活を過ごして良い顔を見せてほしいと願っています。 ★長い夏休みが終わり,講習が終わるとほっとします。予定していたことが全部できた訳ではありませんが,それなり目標はクリアできたと思っています。これで終わりということがないので大変ですが,2学期もしっかりとやろうと思っています。さて,はやばやと9月8日から西中の中間テストが始まり,17日には学力Aがあります。テスト勉強のため曜日や時間帶を変更しますので注意してください。 ★夏のお泊会は何年ぶりかで炭火の焼き肉ができ,おいしいお肉を食べてきました。。ちょっと人数が少なめでしたが,子ども達はモノポリーやテレビゲームを十分したようですし,あまり釣れませんでしたが釣に行ったり,のんびりと過ごしてきました。
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1998年 7月 25日 木曜日 No.116 「このごろ無条件で×,とか出ないね」とある子に言われました。卒業生に「髭の名言集」を書かれてからどうもしゃべりにくくなっています。言いそうになりますが,「あ!これは名言集にあった」と思うと引っ込んでしまいます。それでもめげずに言っているのが「同じことを同じように」でしょうか。となりからくすくす笑う声が聞こたり,時々は「言ってる,言ってる」なんて聞こえることもあります。「しつこいな,ちょっと」と自分でも思います。 世の中の変化に比べ,学校という所はなかなか変わりにくいようです。私が中学生のころから,実に30年以上たつのに『おかしい』といわれながら変わらないことがあります。5年生の算数で習う速さの問題です。中学になると3年の理科でまったく同じことを習います。しかし,子ども達は算数と理科ですから違うことのように思ってしまうようです。それでも速さの問題は解き方に違いがないので子ども達の混乱は少ないようです。食塩水の濃度にいたっては,まったく同じ問題なのに理科と数学で解き方が違います。これなど子ども達のほとんどが別の問題と思ってしまうようです。何故かこうしたことがよくあります。例えば,人の身体について理科と保健で別々に習います。学校でさえこんな調子ですから,子ども達が同じことを同じようにするのは難しいことに違いありません。 教科書には公式というものが必ず出てきます。公式を覚えなさいといわれます,それは公式が「いつも同じ様に使える」からです。公式は同じタイプの問題でいつもいつも使えます,と言うより使わなくてはいけません。それでこそ公式の値打ちというものです。同じことを同じようにやってみて,うまくいかないものが例外ですから,同じようにしてこそ例外がはっきりすると言えるでしょう。「同じことを同じように」これは問題解決を簡単にする方法だと,私は思っていますから,ついつい子ども達に繰り返し言ってしまいます。 学校の勉強など間違えたところで命にかかわりません。子ども達を見ていると,どうしようと思う前に,失敗を恐れず自分の知っていることを使って同じようにやればいいのにと私は思います。そんな思いから,これからも子ども達からうるさがられたり笑われたりしながら今までと同じように「同じことを同じように」と言い続けることになるでしょう。 ★おばさんや子ども達に勧められて久しぶりにテレビの連続ドラマを見ました。面白くもありつまらなくもあり,ただ何にでも接しておく必要は感じました。また,町の本屋さんに久しぶりに行くとこんな本もあるなんて感心しています。ぼけないために何にでも関心を失わないようにと思うこの頃です。 -------------------------------------------------------- |
1998年 6月 25日 木曜日 No.115 冬は夏よりも息苦しい」。生まれてこのかた,冬に息がしにくいと感じたことはないし,こんなことを心配したこともありません。皆さんはどうでしょうか。どうして冬は息苦しいのか?たいてい学校で習うことですが,植物は光合成をして酸素を作り,そのおかげで動物は呼吸をし生きていられるのです。さて,冬になると木は葉を落とし草は枯れます。緑がなくなると光合成はストップしますから,冬は酸素が少なくなるのではないだろうかということです。子どもから質問されたことですが,とても理屈にあっています。答に困った私は以前何かで読んだような記憶から「海の植物性プランクトンやジャングルの植物の光合成の量が多いから年間で考えると大丈夫なんだろうね」などとわかったようなことを答えるしかありませんでした。予想もしないことを聞かれ,どう答えるかを考えているときは本当に息苦しい感じがしました。その後,子どもからの質問ですから,子ども達にどうして酸素は無くならないと思うか聞いてみました。色々あった子ども達の答のなかに「日本が冬の間,オーストラリアやアフリカや南アメリカは夏だから」というのがありました。そうだ,私は中学生にいつも言っているのにどうしてそんなことが思い浮かばなかったのだろう。どう考えてもこのほうが説得力があるのではないでしょうか。子ども達に一本も二本もとられた感じです。皆さんはどうしてだと思いますか。手元にある本をちょっと探してみましたがそれらしい答えの載った本は見つかりませんでした。何かで読んだような気がしますが思い出せません。もしご存じの方がいましたら教えてください。
それなりにおできになった子ども時代の私はそんなことを考えたことがあったのだろうか。もしあったとしても,だれも冬に息苦しいなんて感じませんから酸素が少ないということでもありませんし,どうしてか理由は知らないが酸素は無くならないらしい,だから気にすることもないということでそんな疑問も忘れてしまったのでしょう。現実に困らないからいいじゃないかと思えばそれまでなのですが,想像や疑問を持つということから,様々な事柄に興味を持ち知識が豊になり子ども達は成長していくのでしょう。疑問に感じたりすることがなくなると成長が止まってしまう,いい大人の私は身体の成長はもういいのですが頭のほうはもっと成長したいと思っています。いろんなことを感じるため,鈍くならないように気持ちを研ぎ澄ましておかなければいけません。子ども達にはまだまだ負けたくありませんから。 -------------------------------------------------------- |
1998年 5月 25日 月曜日 No.114 算数では長さや重さに始まり色々な数を扱います。子ども達から見た量の感覚は大人とは違うだろうと思い,5年生に「どの位の金額が大金か」聞いてみました。わずか二人だけですが二人そろって「五千円」でした。私は意外に少ないと感じましたが皆さんはどうでしょうか。何でも数を使って表わすことは便利なことが多いものです。他の人に正確に簡単に伝えたり比較したりできます。もし世界中で同じ単位を使うとより便利なのかもしれません。実際,科学技術の世界はそうなっているようですし,ヨーロッパでは通貨の単位が「ユーロ」に統一されようとしています。また,新聞にはお天気から政治や経済の指標となる不思議な数値があふれています。そして,身長や体重を聞けばおおよその体形を想像できるように,私たちはそんな情報としての数値から実物が無くても色々なことを知ろうとします。
こんなに便利で無くては困る数値ですが,取扱はとても注意がいるようです。これは入院をしていた知人から聞いたことですが,入院中たくさんの検査をしたけれど医者と向かい合って話す時間はほとんど無かったそうです。知人が「痛い」とか「具合が悪い」と言っても医者は「検査の結果は何ともなかったからそんなはずはない」と答え,患者の訴えよりも検査結果である数字を信用していたようだということでした。専門的な勉強をしてきた医者は数字ですべて分かると思っているのでしょうが,生身の人間全部が検査で分かるはずもないし数字に現われなくても痛いものは痛いのです。目の前にいる人を見るよりも検査結果を通してしか人を見ることができなくなってしまっているのかもしれません。しかし,こんなことは医者に限ったことではないのです。私自身テストの点数や偏差値などといった数字と縁が深く,とても気になってしまいます。偏差値だって身長や体重と同じように子ども達のほんの一部分を表わしているだけです。身長や体重は成長が終わるとストップしますが人間的な事はいつまでも成長を続けるのではないでしょうか。単なる数字を見ただけですべてが分かったような気にならないように注意が必要で,たかが数値といえどなかなか厄介なものです。 ところで,最初に書いた5年生の五千円は小遣いの十ヵ月分に当たるそうですから彼等にとっては見たこともない大金ですが大人からみれば違ってきます。検査の結果だって知識の無い人間が見れば意味が分かりません。数字はどこまで行っても数字でしかありません。数値に特別な意味を与えているのは,数値を見る人間の知識や立場なのですから,数字は斜めに構えて見るようにしたほうがいいのかもしれません。しかし,子ども達がいい点数をとってきた時は手ばなしでほめてあげなければいけませんね。 ★この時期の中学の数学は計算が中心です。中3では計算の公式というのがたくさん出てきます。覚えるようにということですが,覚えなくとも困らないものもあります。どうも教科書というのは公式が好きで何でもかんでも公式にしてしまうところがあるようです。教える側としては「公式だ覚えろ」というのは簡単なことですが,仕組も分からないで覚えることは忘れたらおしまいということでもありますから子どもにとっては大変です。これから時間数が減る時代ですから,教科書は覚えることを減らし公式をどう使うかを練習し,問題を解くのに役立つ様に変えればいいのにと感じるこの時期です。 -------------------------------------------------------- |
1998年 4月 20日 月曜日 No.113 先月,私の中学時代の先生の話を書きました。ビートルズのことで怒られた話ですが,それ以外はとてもいい先生でした。他のことで怒られたことは記憶にありませんから,めったに怒らない先生だったと思います。この先生が担任のときに修学旅行で,他のクラスに比べずいぶん自由でした。たとえば,おやつを食べる時間が決められていましたが,バスのなかは他のクラスと別だし,迷惑をかける心配もないので自由に食べてもよかったのです。また,バスの中はいつも歌を歌ったりクイズをしたりと大騒ぎでしたが,嫌な顔もせず一緒に遊んでくれました。実は中学の修学旅行はバスの中が一番印象に残っているのです。修学旅行のような団体旅行は移動が多く,結構バスに乗っている時間が長いことも理由の一つでしょうが,私ともう一人の同級生はアクシデントのため半日ほど他のクラスのバスに乗ることになったからでした。大騒ぎの後が歌を歌ってもなぜか盛り上がらないという静かなクラスのバスでした。まあ良く言えばお利口さんのクラスだったのでしょうが,極端から極端でしたから,自分のクラスに戻れたときはほっとしたし楽しさが倍以上に感じられたのでした。 クラスの雰囲気というのは生徒によるところが大きいのは当然でしょうが,担任の先生の影響も無視できないと思います。新学年になると毎年のように子ども達からいろいろなことを聞きます。子ども達が担任のことでがっかりしていると,どう言えばいいのか正直なところ困ります。塾ならやめればいいのですが学校はそうもいきません。「担任の先生だからいいところを見つけて」などと簡単に思うのですが,大人だってあまり良い印象のない人に対していいところを見つけるなんてことは大変なことです。しかし,子ども達が思っているよりは担任の先生と接することは少ないのではないでしょうか。それで子ども達には同級生や友達などもっと広く色々な人とつきあうことを勧め,担任には「敬して近づかず」などと話しています。子ども達も大人と同様に色々と大変なのです。
★この春の卒業生との約束がありましたから,先月の末に5・6年ぶりに髭を落としました。用事で教材屋さんに行けば他の人と間違えられ,3年前の卒業生はおばさんの顔を見るまで私に気がつかない。まあ自分で鏡を見ても,何だかなじみのない顔に見えたのですから他の人が見ればもっとおかしかったでしょう。塾生の反応は「変だ」という一言のようでした。以前は「若く見える」などとほめてもらったこともあるのですが,今回はおほめの言葉はまったくなく,年をとったということでしょうか。 ★春休みの講習で子ども達に書いてもらった課題作文から 課題は「日曜日」です。 ◆「日曜日」というと小学校の低学年の時には,毎週父親と遊んでいたことを思い出す。朝は九時前にはもう起きていて寝ていた父をムリヤリ起こしていた。そして,外に出てボールで遊ぶというのが私の中では一つの決まりになっていた。けれども,小学校の高学年いなると,友達と遊ぶほうが多くなっていた。その時も朝十時ころには,遊びに行っていたと思う。最近,父親と話しをしていて「あのときは,朝はやくから起こされてまいったナー。」と言っていた。今は「ホッ」としているだろう。いつからか「外に出てボールで遊ぶ」という私のなかの一つの決まりもなくなっていった。 そして,今の私の中の「日曜日」は,朝はもう十一時半,それとか一生寝ていたいという気持ちがたくさんだ。 だから私の中での「日曜日」というのは大切な大切なものでもあり,大切な大切な人生最大のパートナーでもあったりする。 ◆日曜日というと部活はやだなあとか午後から遊びに行こうなどと思う。 それは午前中に部活があると寝ていられないし午後にあったら遊びに行けない。そして,朝は眠いし体があまり動かないので運動したい気分じゃない。 けれども,平日はたいして時間もないからやはり休日にやるしかない。でも休日なら前の文にも書いたようにやな点がたくさんある,ならやめたらと言われるが好きでやっているからべつにいいとこたえる。休日とは複雑な日だ。でもいいところもある,部屋のそうじとなるとみんなうるさくてやになってしまう。
だから休日はとても複雑な日で遊びたいしそうじはやだなどと本当は一番いそがしいのかもしれない。 ◆日曜日というとあまり好きではなかったことを思い出す。それは小学校までは日曜日がとてもまちどおしかったのだが中1になると毎日が部活におおわれ,土 ・日も練習ばかりで遊びに行くことがあまりできず,いつも疲れて家に帰った。 けれども,普段の私の日曜日の生活といえば。起きるのは,お昼の12時近く,そして朝とも昼ともいえないご飯を食べ,ただボーッとした1日を過ごすのである。 だから,結果的に体を動かせ,たくさんの友達とあえた中1の日曜日は,私にとって,とても充実した日曜日になっていたのではないだろうか。 ◆日曜日というと,休みだと思う。それは,日曜日は必ず休みだからだ。ほとんどのお父さんは休みだろう。日曜日は,家族とどこかへ出かける人もいるであろう。なぜ日曜日は休みなのかと私は思う。でも休みがなければいやだ。だから日曜日はあるのだと思う。友達とも遊ぶことのできる,きちょうな日だ。私にとって日曜日はとても大切な楽しみな日なのだ。そして日曜日になるとあさはとてもおそく起きるのである。けれども,部活があるとき,9時から始 まるときにはそんな平和な日曜日ではなくなってしまう。部活が終わった後はくたくただ。日曜がなかったら私はつかれてしまうだろう。だから,日曜日はつかれをいやすためにあるのだろうと思う。 ◆「日曜日」というと部活,ほとんど部活がある。家を出て学校にいくまでがめんどうだ。
学校についてトレーニングをしているとき,やっぱり走る。初めはいったばっかりのときは「いや,何でこんなに走るの?」って思ってたけど,最近はなれてきた,けれどやっぱりつらい。トレーニングをしてから体育館にはいる。体育館に入って試合をする。試合のときミスるとむかつく,でも楽しいと思っているあいだに終わることが多い。 終わって帰るときがまためんどう。しかも帰り道に「コンビニ」があるからよりたくなる。けど見つかるとヤバイから「やっぱよれないよな」って思いながら帰る。家に帰ったら,かならずすわって「はーっ」っていうことが多い。
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