ごあいさつ
通信Back number2001年4月~2002年3月
前のページ 信天翁通信へ 次のページ |
2002年 3月15日(金)No.160 小学生が, 「レシートある?」と聞きます。何のことだかわからないまま,レシートを渡しました。何に使うのかと見ていると,爪を磨き始めました。レシートでつめを磨くと,つめの汚れが落ちてきれいになるということでした。どこでこんなことを覚えてきたのかと尋ねてみると,知っている方も多いと思いますが,テレビの「伊東家の食卓」という番組でやっていたそうです。今も,している子がいると思いますが,だいぶ以前に消しゴムの周りの厚紙の角を切ることがはやりました。子ども達から角を切り取る理由を聞いたのですが,よく覚えていません。とにかく裏技なんだそうです。確かに新聞の番組の紹介を見ると「~の裏技」などと書いてあります。裏技というとテレビゲームが流行りだしたころよく子ども達が話していました。ゲームソフトについてくる説明書には書かれていない,ゲームを有利に進めるためのテクニックのことでした。ゲームの攻略本に書かれていることが多かったようです。たくさん裏技を知っていることは,その頃の子ども達の様子から思うに,なかなか自慢だったようです。何かの役に立つことで他人の知らないことを知っている,それを人に教えてあげる。子ども達でなくても楽しくてちょっと自慢したくなるかと思います。 爪を磨くことなどまったく関心のない私ですが,教えたり教わったりお互いに真剣に楽しそうにしている子ども達を見ていると,こんな風に英語や数学もいかないものなのかと思います。問題を解くコツも,まあ裏技のようなものでしょう。ゲームと同じように軽い気持ちでできればいいのでしょうが,点数と評価がついてまわりますからそうはいきません。勉強というものは色々な意味で特別なものになっているように思います。勉強は大切なこと,違いありませんが,そのことが必要以上に教える側も教わる側にも意識され過ぎているように思います。教えなければという意識が強すぎるのか,教える側は妙に権威を振り回したり,強制したりが多くなりがちなような気がします。子ども達の裏技を楽しそうに教えあっているのとは程遠い風景になってしまっているように思います。いずれにせよ子ども達といい関係があれば,少しは楽しく授業ができるかと思っています。また問題解法の裏技も開発しなければいけないなどと考えています。 ★お気づきでしょうか?前の号から通信の体裁が変わっています。ソフトを替えました。ソフトについてくる説明書は不親切でわかりにくい。裏技でもないのですが,攻略本も買わずに今までのソフトと似たところがあるのと,息子達に教わったりしながら悪戦苦闘中というところです。でも子ども達のゲームのようなものですから,結構はまってやっているという感じです。ボケ防止には十分役立っていると思います。
★今年はずいぶんとインフルエンザがはやっているようです。こんなに欠席者が多いのは初めてのことです。そのため,学力テスト対策やお泊り会など予定していた日程を変更しています。ご迷惑をおかけしたと思いますがこんな事情ですのでご容赦ください。 -------------------------------------------------------- |
2002年 2月25日(月)No.159 4月,新年度から相対評価が絶対評価に変わります。今までは百人中七人が5と決まっていましたが,これからは何人に5をつけてもいいことになりました。極端に言えば全員が5でもかまわないことになります。しかし,入試制度については何も議論が聞こえてきませんから,従来と変わらない同じ制度のままのようです。今の,内申点という入試制度はとても冷たいもので,もう少し血の通った制度にならないものかといつも思います。例えば,極端な例ですが,一年生でオール1だと,2年生でオール5でも平均してオール3と同じことになってしまいます。二年生の努力は一年生の成績のせいで半分しか認めてもらえないし,今現在の実力も認めてもらえないということでもあります。中学にいる間は,まだ少しは取り戻せますが,卒業してしまえばそのままです。昔の失敗は許されないし,やり直しは認めないという冷たい制度だと思います。 日本の社会は,終身雇用制度に代表されるように,継続することが良いこととされているようで,今までやってきたことをやめたり進路を変えたりすることは,あまり良い評価をしないようです。変化を嫌うということでしょうか。でも,現実に生きる子ども達は日々変化していきます。成長をするということは変化していくことではないでしょうか。背が伸び大きくなり外面が変わるように,内面も変化しているはずです。ものの考え方,興味や関心といったこともどんどん変わっていくのは当然のことだと私は思います。どのように変化することが望ましいのか,大人の考え方はいろいろですし,許される範囲はあって当然ですが,できるだけ子ども達の好きなようにやらせてあげることができるといいと私は思います。すべてがうまく行くはずもなく,失敗もするでしょう。失敗のほうが多いかもしれません。しかし,失敗から学ぶことによって成功につなげることができるのではないでしょうか。内申点のように過去の失敗や栄光をいつまでも引きずるのではなく,今現在の自分の興味や関心を大切にし,十分に発揮できるようになってほしいと思います。時代の移り変わりは激しく速く,私などついていくのが大変です,肉体も精神面もしなやかな子ども達は大丈夫でしょう。それにしても,人に対する評価や入試制度がもっと寛容な制度にならないものでしょうか? ★みんな上手にアピールできたでしょうか?答案だって自分をアピールするためのもので,採点者に,自分がいかに良く理解しているかを示すものです。解答欄があって同じように答えを書いてあるようですが,やはり違いがあります。点数が同じだとしても,何かしら採点者に良い印象を与える答案があるように思います。解けていれば同じなんだからと言えば,それまでなのですが,「こいつは良くわかっているな」と思わせる答案の書き方があると思います。そんな外見というかスタイルというか,気になる私です。 -------------------------------------------------------- |
2002年 1月 No.158 「美人てのは普通と違うよね,可愛いだって普通とは違うよね」また「天才てのも普通と違うよね」私の問いにたいして子ども達は「そうだ」とうなずきます。それから私が「あなたは普通でないよね」とたずねると「いや,普通だ」とかえってきます。子ども達にとって普通でないことはやはり心配なのでしょう。何となくふざけて子ども達に言っていたのですが,何度も言っているうちにどうも変な感じがしてきました。皆があこがれる普通とは何なのだろうか。
例えば,標準偏差と言うのは平均からどれだけ離れているかを示すものです。ですからSS50はほぼ平均でSS70は平均からかなり離れているのです。平均が普通と言えるかどうかは問題がありますが,SS70が全体の中から離れたところに位置しますから普通とはいえないでしょう。美人や成績が好いも含め,人より優れているということは,実は真ん中から,つまり普通からずれているという意味では同じなのではないでしょうか。ところが「普通ではない」という言い方は,SSでいうと30を意味しますが70は意味しないようです。
つまり,「普通でない」とは人より劣っているとか,あまり良い意味を持った表現としては使わないし,ほめ言葉にはならないのでしょう。これでは私が子ども達に「普通でない」と言っても喜ぶはずがありません。では,反対に「普通だよ」という時は優れているという意味があるのでしょうか。それはなさそうです,単に劣っていないと言う意味が込められているのでしょう。試しに広辞苑をひくと『普通・広く一般に通ずること。どどこにでも見受けるようなものであること。なみ。一般⇔特別・専門』とありました。 何だか言葉遊びのようですが,子ども達の間に「普通」という言葉に奇妙な安心感を持つ雰囲気があって,何だか気になります。人に優れる,良い点というのは子どもの特徴でしょうから,つまり,どこか人からずれた所を人は必ず持っているのではないでしょうか。「普通だよ」に安心していると良い所を消してしまいそうな気がしてなりません。良い所を伸ばす,実は人からのずれを大きくすることなのかもしれません。特別になる=普通でなくなるは,子ども達にとって,おそらく大変なことなのでしょう。 以前聞いた,ある牧師さんの講演の一部に「トマトの種はトマトにカボチャの種はカボチャになる,では,あなたは何になりますか?」という問いがありました。通信にも書いたことがありますが「あなたはあなたになるのです」というのが答です。つまり,独り独りは普通の人間ですから同じように見えますが,まったく同じはずがありません。その人その人の特徴,個性があるはずです。自分自身になる,他人ではなく,当然,皆がどこか少しずつずれているでしょう。皆が自分の個性を発揮し自分らしく生きるということだと思います。 こんなことを書いている私は普通なのでしょうか?やはりどこか普通からずれているように思います。どこがどう,良い方になのか悪い方になのかわかりませんが,ただ何故か,「どうも自分自身は少しずれているようだ,ずれているかもしれない」と思っている間は大丈夫なように感じています。
★受験まで残りわずかとなってきました。夜遅くまでの勉強というよりは朝型のリズムの生活に切り替える時期でしょう。風邪をひいたりしないように,栄養や休息など体調管理にも十分注意して下さい。 ★受験生の体調管理といえば,昨年の1月の通信を見ると道新の記事から引用していました。しかし,今年の道新は,今のところ,受験生より新指導要領のことによほどページを割いているようです。これくらい騒がれた指導要領は珍しいのかもしれません。文部科学省自身が学力低下を心配し,進度別学習や発展的学習などを勧める状況のようです。まあ,所詮はお役所ですからこんなものでしょうか。
-------------------------------------------------------- |
2001年 12月 No.157 自己情報,自分のことについての様々な情報について,自分で十分に知っているのでしょうか。例えば,私のことについてお役所の書類にはどんなことが書かれているのでしょうか。学校の内申書などもその仲間になります。こうして考えてみると自分のことなのに知らないことが結構あるようです。自分のことですから,知っていて当たり前でしょうし知る必要もあると思います。しかし,情報を管理する側はどう考えているのでしょうか?学校は子ども達に成績等の情報をあまり知らせたくないように思えます。 私が中学の頃は成績は全て校内で何番といった形で数字でとても分かりやすく生徒に知らされました。しかし,子ども達の間で競争や受験戦争,考えてみるとすごい言葉ですね,が激化するという理由でSSという形に変更されました。ではだいたいの位置がわかるが順位まではわかりません。当然,学校側には順位など子ども達の情報が蓄積されていきますが,積極的に子ども達に知らせるといった様子は見られません。自分はどんな位置にいるのか?全員が知りたいと思っているとは考えられません。また,自分の位置を知ることが楽しいことかどうかは疑問ですが,知っている必要はあると私は思います。 自分に位置があるように高校にも位置があります。高校受験は自分のランクにあった位置よりも上にある高校は合格の可能性はほとんどありません。ランクは中1の成績から関係してきます。中3になると高校の位置と自分の位置について学校から説明がありますが,中1・2にはあまり説明がなされていないようです。自分のことを知るということは楽しいこととは限りません。しかし現実にあって,受験の時には嫌でも直面します。いつどのように知ればいいのか,議論は別れるところもあるでしょうが,知ったうえで自分はどうするのか子ども達自身が決めるようになれば良いと私は考えています。
自分の位置を知って喜んだりがっかりがあるかと思います。でもそれは現在の位置です。私のような年令ならともかく,子ども達の場合ずっとそのままということはまずないでしょう。上昇することもあれば下降することもあるでしょう。どんどんと変わる可能性があります。そこで競争がおこるのかも知れません,良いことなのか悪いことなのか,学校は競争を排除しようとしてきたのかもしれません。ただ私は,子ども達が「このままの状態で良いんだ」と思うのはどうかなと考えています。現状に満足してしまう。「足りるを知る」ということも大切なのでしょうが,現状に満足してしまうと,実はそのままの状態をを保つことも危なくなってくるのではないかと思います。可能性に賭けることがなくなるようで寂しい気がします。色々なことに興味を示し失敗を恐れずにチャレンジしてみる。これこそ子ども達の持つ大切な特権ではないでしょうか。
今職をやめようかと考えている卒業生がいます。この時代,次の職がそう簡単にあるとはいえません。しかし,彼が言うには「考えてみると,今の自分は身軽なんだ」とのことでした。社会のしがらみのない中学生はもっともっと身軽なのですから,思いきってチャレンジする気持ちを持ってほしいと思います。 しかし,何にでも興味を持ちチャレンジすることは子ども達に限らないのでしょう。私などもぼけないためにも色々チャレンジし続けなければいけないのでしょう。ちょっと残念なことに,あまり進歩する余地がなさそうなことで,ここが子ども達とは違います。 子ども達が進歩するといっても,あまりに現実と懸け離れた目標の設定もどうかと思います。現在の自分の位置を確認し,できることは着実にこなしながら進んでほしいものです。 ★積雪が多く,寒さ厳しい年の瀬になりました。風邪で休む子も少なからずいます。楽しい冬休みを過ごすためにも体調には十分に気をつ
けて下さい。まして受験生は最後の追い込みになります。体調管理も大切な受験対策です。十分な休息と栄養の補給は忘れないで下さい。夜更かし勉強はそろそろおしまいにして下さい。
-------------------------------------------------------- |
2001年 11月 No.156 北海道は相撲王国と言われたこともありますが,この頃は道産子のお相撲さんが少ないそうです。その理由として,都会の子の方が農村の子よりも足腰が強いことがあげられていました。都会の子どもは地下鉄や電車の乗り降りにさかんに階段の昇り降りをしなければなりません。ところが広い北海道の農村などでは車の移動が多く,また農作業は機械化が進み足腰が弱くなったという話でした。
どの程度の真実味があるのかわかりませんが,日々の過ごし方は体力などに大きな影響があることは間違いなさそうです。私の息子達は高校時代に片道50分かけて自転車通学をしていたので,二人とも足が太くなり,かなり体力がつきました。私も犬がいた頃は毎日1時間足らずでしたが散歩をしていて好い運動でした。犬が死んでからは体重増加と体調の悪さに悩まされています。腹筋やストレッチを心掛けていますが,毎日となると苦しいこの頃です。体調を整え体力をつけるためには,にわかの運動など間に合いません,特別に何か運動をするのではなく毎日をどう過ごすかが大切なのでしょう。 こんなことを書いてきたのは,当然勉強も同じだということにつなぐためです。しかし,学校の勉強という意味ではありません。学校の勉強は,運動でいうならば部活やプールのように特別に運動するのと同じでしょう。子ども達が生活の中で,毎日歩いたり自転車で通学することを特別に運動と意識しているでしょうか。生活の中に自然と組み込まれたもので,知らず知らずのうちに体力として身につくものでしょう。勉強にも同じようなことがたくさんあると思います。 例えば,毎日の勉強で「歩いたり」に当たることは何か,特に学校のテストなど文字を追うことが基本になっていますから,文字を見ることが代表だと思います。本を読むなどと特に考えなくても,地下街や駅を歩けば行き先の表示が,スーパーには棚の列ごとに商品名を書いたプレートなどが必ずあります。英語はそれこそ,そこら中にあふれています。読めと言われて,やっと読むというのは困ります。いつも文字を目にとめるようにする機会は幾らでもあります。人に尋ねることも大切ですが,自分の目で確かめるようになってほしいと思います。また勉強は名前を覚える必要があります。「これ,それ,あれ」は使わない。いつも名前を呼ぶようにする。これは効果が大きいと実感しています。私達はほとんどの子を名前と愛称で呼びます。そのため名字を忘れてしまうことがよくあります。(電話をいただいた時,どなたからなのかとっさにわからないこがあります。どうも申し訳ありません。)その他に子ども達と話していて感じることは,キャンプや家族で出かけた時,私が行き先を訪ねても答えられないことがよくあります。車で出かける際ですが,道路地図など一緒に広げて見るようにすると方位や位置,距離などを感じられるようになると思いますがいかがでしょうか。色々なことを感覚として身に付ければと思います。 定期テストが終わりました。テスト前に頑張るぞと子ども達は言います。肩に力が入り過ぎて大丈夫かなと思ったりします。それどころか,にわか勉強=にわか運動,筋肉痛になったりなどと不謹慎な連想をしたりしてしまいます。普段の対策として,学校のワークの提出や塾の宿題など定番の物をどう利用するか。また,授業時間の過ごし方とか教師の出題の癖をつかむなど,自然体で,できれば楽しみにしてテストを受けるようになってほしいと思ってなりません。
-------------------------------------------------------- |
2001年 10月 30日(火)No.155
10月は中間テストが終わったこともあり2週連続でお泊会をしました。10月に入ると,さすがに虫は少なくなりますが完全にいなくなってはいません。やはり,子ども達は虫を怖がります。いつものことですが気になるので,少し子ども達に話してみました。 スズメ蜂に刺されると人が死ぬことがあります。しかし彼等は人を餌にしていませんから殺す目的で人に近付くことはありません。もし人を襲う目的なら音もたてず姿も見せず,突然襲ってくるはずです。蜂の姿が見えるときは,ジッと静かにしていれば餌になるものがなければどこかに行ってしまいます。下手に騒いで追い払ったりすると彼等は身の危険を感じて襲って来るかも知れません。子ども達は虫を見ると大きな声で騒ぐことが多いのですが,私は本当に恐ろしい場面で声など出せないだろうと思っています。声を出すということは相手に居場所を教えることと同じです。息をひそめ姿を隠すことによって危険をやり過ごすのが本当ではないでしょうか。もし人間側から攻撃するとしてもやはり姿は隠しておいた方が有利でしょう。
確かにスズメ蜂は恐ろしいものですが道内で年間に何人の人がスズメ蜂に刺されて死んでいるのでしょうか?子ども達は知らないし私もしりません。恐怖映画や小説の世界ならいざ知らずそんなに大勢の人が亡くなってはいないでしょう。一方,自動車事故による道内での死者は年間四百人近いかと思います。スズメ蜂を怖がる子どもがいても何百人もの人が死んでいる自動車を怖がる子どもはいません。なぜなのでしょうか。子ども達からは,「自動車は便利で身近だから」という返答がありました。その通りで,スズメ蜂がいるから人間にとって便利だとかいった直接的な利益はありません。なによりも,普段見ることのない虫を何となく無気味に感じるのは私も子ども達と同じだと思います。
スズメ蜂による事故は大々的にテレビや新聞で報道されます。その駆除をどうするかなどが話題になったりします。また,殺虫剤のコマーシャルなどを見れば,まるで虫は人類の敵で皆殺しにしろといった感じです。でも衛生的になった現在の生活の中で,虫達は我々にどれだけの害をおよぼしているのでしょうか?ところが,数百人の死者が出る車を滅ぼそうなどといった意見はないようです。 ざっとこんな話をしました。話ながら私の中で連想がどんどんと広がりました。世の中には恐ろしいものが色々あるでしょう。O157といった大腸菌もあれば,今アメリカを騒がしている炭疽菌など恐いものです。しかしこれらの菌も人間様の自爆テロのように瞬間的に数千人,いえ原爆のように数万人の人間を殺すことはありません。本当に恐ろしいものとは何なのかと考えさせられました。
また,私が子どもの頃に呼んだ昔話「ふるやのもり」を思い出しました。雨降りの夜,おじいさんとおばあさんの会話を屋根裏に隠れている泥棒と狼が聞いています。会話は何が恐いかということです。泥棒や狼も恐いけれど「ふるやのもり」が一番恐いという結論になります。隠れていた泥棒と狼は自分達より恐い「ふるやのもり」が何なのかわかりません。そんなときにおじいさんとおばあさんが「ふるやのもり」が来たと騒ぎ始めます。それを聞いた泥棒と狼は慌てて逃げ出すという内容でした。恐いと思えば何でも恐くなってしまいます。何がどう恐いのかちょっと落着いて考え直してみることも必要ではないでしょうか。 ★中3は2学期になりテスト・テストが続きましたが,11月の学力Cと期末テストで一つのピークを迎えます。テスト続きでかなり疲れているようです。体調を崩すような無理はしないようにしてください。 ★中間テストが終わったと思うと,もう期末テストの時期になりました。10月は週末に山小屋のお泊会が続いたこともあってかずいぶんと速く過ぎたように思います。またテスト勉強が始まります,曜日や時 間帯が変わることがあります。間違えないようにして下さい。
★朝夕寒くなりました。塾に来る時は暖かくても帰りは寒い。風邪に注意して下さい。 -------------------------------------------------------- |
2001年 10月 9日(火)No.154 エリートはエリートとして育てる。典型は防衛大学校ではないかと思います。防衛大学校は卒業すると組織内の地位が真ん中あたりになり,部下を何人か従えることになります。その中から自衛隊のトップが生まれることになっています。自衛隊に限らず国の組織はエリートは一種(昔は上級職)と呼ばれる公務員が役人のトップに立ちます。指導的立場につく人間を特別に育てていると言えます。 横綱になると横綱らしくなっていく,打順を四番にすることから四番バッターが生まれてくる。地位が人をつくる。周囲は地位にふさわしい扱いをし本人もその地位に座る自覚が生まれてくることから,地位にふさわしい人が育つということでしょう。反対の言い方をすると馬鹿だと言って育てると馬鹿になるということになります。
私は,あまのじゃくで「ああ言えば,こう言う」タイプの人間だと思っています。考えてみると小さい頃からよく「お前はあまのじゃくだ」と言われたことを憶えています。まあ,生まれつきなのか,言われたからなのか,ちょっとわからない部分ではありますが言われるたび,自分で「そうなんだ」と納得はしていたようです。親は,まさか,あまのじゃくに育ってほしいと思った訳ではないと思います。素直なよい子にと思っていたのでしょうが,親の思いに反して,ひねくれたところのある子になってしまったようです。
親は色々と子どものことを心配します。私の両親も同じで,私の健康面を心配していました。現在は肥満を心配している私ですが,小さい頃は胃腸が弱く太れなかったことが原因のようでした。体格が貧弱で体力もなかったようです。そのため親は今で言う健康食品とかビタミン剤とかを与え,「身体に良いから食べなさい」などと私に勧めました。そのおかげで私は健康食品や薬の類いが大嫌いになったのだと信じています。また,「お前は身体が弱い」と言われ,子どもの頃はそう思い込んでいました。親はあまり運動や力仕事はさせないようにしていたようでした。私もしなくて良いのだと思っていたようで,体育の嫌いな運動などしない子どもでした。ところが,親元を離れ一人で暮らすようになり,まともな食事をしないような生活をして「おれは丈夫であまり病気にもならないようだ」と気がつきました。中学の頃,運悪く病気で2週間も学校を休んだこともあり,益々運動などしなくなりました。親がひ弱な子だと育て,ひ弱だと思っていた私でした。もし自分が普通の体力があると思っていたら,もう少し運動はしただろうし違った世界を経験できたかもしれないと思います。 お母さん方と話していて,「集中力がない」とか「理数系が弱い」等とよく話題になります。しかし,子ども達のゲームに対する集中力などたいしたものです。ようは興味と関心の問題ですから,「集中力がない」などと言う必要はないでしょう。「理数系が弱い」にしても今までの勉強法がまずかっただけかも知れません。そもそも小中学校で勉強する理数系など文系などと分ける程の内容ではないでしょう。私の経験からすると,親や周囲の思い込みが子ども達に伝わってそんな子どもになってしまうように思えてなりません。
しかし,最近は外務省など役人の世界で,エリートの不祥事が続いているようです。横綱はみんな横綱らしいかというとそうもなかなかいかないようです。エリートとして育てれば必ずエリートになる訳ではありません。人材を育てることは難しいということでしょう。 人は他人の思惑通りに育つものではありません。親の思いは様々でしょうが,それがそのまま子どもに伝わるはずもありません。あまのじゃくに育てと思って言ったのではないし,ひ弱になってほしいと思い健康食品を与えたのではないのでしょうが,どうも親の思惑とはどこかずれた子になってしまったことは間違いないようです。親の思いを伝えるには言い方を工夫することが必要でしょう。少なくとも,けなすよりは誉める方が効果的なように思います。でも親の思ったように育つというのもどうでしょうか。成長し自立するということは自分の考えや価値観を持つということですから,親とぶつかったりして当然なのでしょう。こう考えれば私も少しは成長したのでしょうか。
それと,私の息子達はこれを読んでどんな感想を持つでしょうか。ちょっと気になるところではあります。 -------------------------------------------------------- |
2001年 8月 29日(水)No.153 おじさん『失礼なやつ』来た」,「まだ来てないよ」。こんな会話が学力コンクールの後,中1との間で交わされます。何のことかお分かりになりますか?『失礼なやつ』つまり学力コンクールの結果の個人票のことです。コンクールの結果には定型文ですがコメントが書かれてきます。例えば,「数学は難しかったが,社会は標準並みだ」とか「英語はよく点数がとれたが,理科は悪かった」等,ありふれたことが書かれてきます。私の方には全員の点数とSSをまとめたものが来ますから,個人表のコメントなどあまり気にしていませんでした。言われてみると,全体的な難易度など個人だとわからないことははそれなりの意味がありますが,点数の良し悪しなど見ればわかることです。それだけならまだしも,基礎から勉強しましょうなどと,おせっかいにも書いてあります。点数や評価は基準があって他の人とのかかわりがあることですが,勉強しましょうなど人間関係があればいいのですが,見ず知らずの相手から言われるのはどんなもんでしょうか。子ども達の言うように『失礼なやつ』が正しいようです。 「点数が悪いのだから勉強しましょう」これだけをとれば当たり前のことです。しかし,点数が悪かった原因だって色々あるかと思います。体調が悪かったのかも知れないし,たまたま失敗しただけなのかもしれません。また,誰が誰に言っているのか,親が子になのか教師が生徒にか,それとも友達どうしなのかといったお互いの関係というか距離感というものがあります。「勉強をする」ことは良いことであり,誰に対して言っても問題無さそうなことです。しかし,個々の状況を考えるととても失礼な発言になる可能性があります。
子ども達は冗談半分に軽く『失礼なやつ』と言っていますがなかなか鋭いところをついています。当たり前のこととして子ども達に何気なく言っていることにもそういうことがあるのかも知れません。あまり注意しなかった個人票ですが,子ども達に関わるものにはもっと注意しなくてはと思い知らされました。 ★「空振りの練習をしているのだろうか」スポーツの練習には素振りというのがあります。高校野球は終わりましたが,その時期には新聞やテレビに「素振り○○回」などといった言葉が表れるようです。よく練習しているということの別の表現でしょう。野球やバドミントンをしていて素振りをする子ども達がいます。そこで私はそんな子ども達にたずねます。「何のために素振りをするの,空振りの練習かい」それに対し空振りの練習ではないと子ども達は答えます。まあ私だってまさか空振りの練習をしているとは思っていません。しかし,ほとんどの子どもは目的を答えられません。何のためにするのか説明を受けていないのだから仕方ありませんが,少し子ども達には酷ですが,目的を考えてほしいと思います。
「練習をする」「勉強をする」も同じなのですが,一般的に「遊ぶこと」に比べどちらも良いことなのです。良いことをしろといわれるとなかなか反論できません。以前私の知っている子が素振りのやり過ぎでひじを悪くしてしまい,正しい素振りをしていなかったのが原因で結果的に運動をやめることになりました。空振りの練習どころか身体を壊すためのものになってしまいました。練習法は一つ間違えると取り返しのつかない結果を招くことになります。「練習しろ」は大人や先輩の言うことですからその人達の責任が大きいのは当然です。しかし,子ども達もただ言われた通りするのではなく目的を考える習慣を身につけてほしいと思います。目的も考えず「空振りの練習」をしているようでは実力はつきません。意識し,理にかなった練習をするようにしてほしいものです。勉強だって自分で考え目的を持ってやらなければ効果は小さいものです。いつも「何のためか」を意識するようになるのも練習です。当然,私の方は目的意識が持てるように説明するように練習しなければなりません。お互い大変です。 -------------------------------------------------------- |
2001年 7月 No.152 子ども達は「〇〇君(さん)は頭が良い」などとよく言います。そこで天の邪鬼な私は「十で天才,十五で才子,二十歳過ぎればただの人」ということを思い出します。子どもの頃は他人より優れて見えても,大人になると普通の人だったということです。成長期にある子ども達ですから,頭の中も日々成長しどんどん変わっていきます。脳の成長は,言葉を覚え話し始めたりする幼い頃はよくわかりました。しかし,中学生にもなると身長の伸びと違って,頭の中の成長は目に見えませんからちょっとわかりません。身長の伸びと頭の中の成長は比べようもないかも知れませんが,同じような点もありそうです。例えば,伸びる時期は人によって違うようです。私は中学の頃,身長が一番伸びましたが,高校になってから伸びた同級生もいました。勉強も同じようなことがありそうです。ランクが下の高校に入ったけれどランクが上の大学に入ったということはよくあることです。
しかし,身長と決定的に違うことは脳の成長はどこで止まるのか誰にもわからないことではないでしょうか。背は確実にいつか伸びなくなりますが,脳はその人なりに成長を続ける可能性があると私は思います。昔から「五十の手習い」などと言いますが,伊能忠敬は引退後五十を過ぎてから勉強を始め,当時としては世界レベルの精度の日本地図を完成させました。ただし頭の中身の成長は背のように勝手に伸びていくという訳にはいかないのが困ったものです。少なくとも自分で伸びる伸ばそうとしなければいけないことは確かなようです。しかし,どうすれば伸びるのかが分かりにくい。また,厄介なことに成績は一本調子にのびる背と違って,上がったり下がったりします。それに色々な分野があって得意不得意がでます。何よりも目に見える尺度がはっきりしないため,本人も周りも成長していることに気がつかないことさえあるようです。ひなが卵からかえるまで,卵の中の成長は目にすることができません。同じように子ども達は成長し変わっていきます。「頭が良い」と子ども達が言うとき,何だか今の状態が変化しないかのように私には聞こえます。子ども達自身が変わる,変えると思うようになって欲しいと思っています。しかし,子ども達は今現在の結果だけで判断を下してしまいます。今しか見えない,そこが子どもなところではありますが,筋肉を鍛えるように頭は良くするものなのだと思ってほしいものです。言うのは簡単ですが,ではその方法はと言われると私もうなるしか無さそうです。でも,私もひょっとしたらまだ成長できるかも知れません。ここはちょっと頑張って頭のよくなる方法を考え,なんとか子ども達と一緒に頭が良くなればいいなあと思っています。 -------------------------------------------------------- |
2001年 6月 26日(火)No.151 「することがなくて退屈だ」ある塾生が言いました。それを聞いて暇な時間,することもなく退屈な時間は実はとても大切なのではないだろうかと私は思いました。子ども達の生活を考えると,学校に行き部活をし塾や習い事に通うなど結構スケジュールがつまっています。学校や塾でそれなりに充実した時間を過ごすのかも知れませんが,どうも私にはストンと納得できない物が残ります。
それは何かと考えると,学校も塾も大人がスケジュールを組み,場を設定している点にありそうです。例えば,もうすぐ夏休みになります。休みになると退屈で早く学校に行きたいと言う子がいます。私などずっと休みが続いてほしい口でしたから,そんなことはとても考えられないことでした。休みになると友だちと会えないとかの理由のようですが,この便利な世の中で友だちと連絡ぐらいとれよと私は思ってしまいます。出来合いの場があるのだから,他人とスケジュールールを調整し自分達の場を作ることが面倒なのでしょうか。高校生でさえ夏休みにキャンプに行きたくても,自分達で計画をたて実行するのが難しいということを,ある人から聞いたことがあります。つまり,何でも大人達が用意したもので済んできたせいでしょうか。
することがない時間は,自分の自由に使える時間という意味でもあります。どう過ごすか,何をするか,全部自分できめないといけません。子ども達にとって難しくて大変なことかもしれません。でも,自分の時間を自分でコントロールし他人との調整をする力は練習しないと身につかないでしょう。退屈な時間をどう過ごすか,今は良い時代でもあります。音楽やビデオやゲームなど30年前には考えられない程豊富にあります。退屈な時間は自分の好みや趣味を見つける良いチャンスと考えれば,とても大切な時間に思えます。しかし,何かの役に立たなくても,ボーット過ごすにしても完全に自分の時間を持てるということは素敵ではないでしょうか。ひょっとすると大人にとっては最高に贅沢なことなのかも知れません。 子ども達のスケジュールは管理され過ぎている,いえ,子ども達は様々なところで,様々な理由から管理されているようです。管理されていることに慣れてくる,それはそれで楽なのです。すべてが用意され,指示通り動けば全部がスムーズに進みます。なによりも,自分で考えたり準備をしたり面倒なことがいっさいありません。大人の方も子ども達に任せるより,管理する方が簡単ですが,何か欠けるように思えてなりません。子ども達の持っている力が十分に発揮されないのではと思います。成長する子ども達が,自立した人間になるためには自分のことを自分で管理するようにならなければなりません。とはいえ,私自身なかなか自分のことが管理できません。難しいことです。 -------------------------------------------------------- |
2001年 5月 28日(月)No.150 「〇〇中はレベルが低い」子ども達がよく言います。こうした評判は何となく伝わってくるのですが,子ども達は自分の通う中学の教師からも聞かされています。私自身も子ども達の成績がよくても「〇〇中だからね」などと言ってしまいます。高校入試を考えると中学内の位置だけでなく学区の中のどの位置にいるかが気になるのは当然です。しかし,中学内での位置が高くなければ全体での位置が高いはずがありません。良いのであれば素直に褒めてあげるのが当たり前で,反省しなければと思っています。
それにしても〇〇中のレベルは何によって測るのでしょうか。これと似たように感じることはクラスのレベルが低いという話です。クラス担任はクラスの平均点が高いと御機嫌で低いと悪いようです。こんなことから,おそらく学力テストの中学ごとの平均点を較べ,〇〇中のレベルが決まるのだと思います。しかし,平均点が高くなっても子ども一人一人の成績が上がったりすることはありません。 平均点というやつは注意して見ないといけません。例えば,二人が50点ずつ取ると二人の平均点は当然50点になりますが,一人が零点もう一人が百点でも平均点は50点です。この二つの平均点を較べ,どちらがレベルが高いなどと言えるのでしょうか。極端な例ですが,平均点は全体のことを言い当てているようで,このように一人一人について何も見えなくしているというところもあります。これが,お米や乳牛のような農作物などは個々が同じレベルにそろっている方が良いということになります。しかし子ども達は農作物とは違います。一人一人違う子ども達を中学やクラス全体で較べることに特別な意味があるとは思えません。レベルの高い子が一人でも多くなれば良く,子ども一人一人のレベルが高ければ何も問題はないのです。
なぜ,中学の教師は「〇〇中(このクラスだったりもします)はレベルが低い」と子ども達にいうのでしょうか。もっと勉強しろと言いたいのでしょうか?だったら言い方を変えないといけないでしょう。「レベルが低い」と言われた子ども達は「どうせ低いんだから」と受け止め,勉強しない口実になってしまっているように感じます。参考までに私の受け止め方だと「教師のレベルの低さが平均点の低さに表れているんじゃないの」と意地悪くなってしまいます。子ども達のことを考えて言っているのかも知れませんが,中学全体の平均点が子ども一人一人に合うはずはありません。もう点数を上げれない子もいれば,まだまだ上げることができる子もいるでしょう。全体の話と一人一人の話がごちゃまぜになっている感じです。きちんと分けて対応するべきでしょう。
しかし,「言うは易く,行うは難し」で,わずか6名でさえなかなか一人一人に目がいくようで見えていない部分があると思います。まして30人ものクラスでは大変でしょう。いずれにせよ他山の石として私も注意しなくてはと思っています。 ・ペットボトルなど持たせてください。中学の部活が本格的に始まっています。部活が終わって急いで塾にかけつける子もいます。のどが乾いたりお腹がすいていたり落着いて勉強ができません。時間がなければお茶やスポーツドリンクをお腹の方はチョコレートやあめが一時おさえになります。また育ち盛りの中学生は早い時間帯が晩御飯の時間と重なりお腹がすくようですから持たせてあげて下さい。 ★教師が話題に出ません。去年の6月の通信を見ると担任や新しいクラスが子ども達の話題に登場しましたが今年はあまり出てきません。良い教師に恵まれたのか,子ども達が醒めているのか?家庭ではいかがでしょうか?家庭で十分に話しているので塾では話さないのかも知れません。いずれにしても子ども達の話をよく聞いてあげて下さい。
-------------------------------------------------------- |
2001年 4月 23日(月)No.149 ★部活をしている子ども達が結構います。そのため筋トレのことが話題になったりします。私は「筋トレで大切なことは,今どの筋肉を鍛えているか,意識してすることだよ」と子ども達に言ったりします。そして筋トレから,ふと勉強は脳トレ,筋力トレーニングならぬ脳力トレーニングなどと連想しました。しかし脳トレは脳のどこを鍛えているのかはっきりしていないなあ。英語と数学は脳のどの部分を使っているのだろうか?違うような気もするが同じような部分もあるようにも思う。多分,同じ数学でも計算と文章題とでは鍛えられる部分が違うのだろう。音楽と数学はきっと脳の違った部分だろうとは思うが美術と音楽が同じとも思えない。人間が脳についてどのくらいの知識を持っているのか,右脳と左脳など脳の働きのいくらかは分かっているのでしょうが,詳しいことはまだまだ知られていないように思います。今までの経験でも,お口の達者な子が国語ができると決まったものではないし,英語の単語を覚えたりはなぜか女の子の方が上手な傾向があります。他にも日本語がしっかりしていると英語が良くできる英語ができるようになると国語も良くなるなどといったことがあるようです。手を動かす筋肉とか足を動かす筋肉など筋肉は役割がはっきりしています。ですからどの筋肉を鍛えるかをはっきり意識できますが,計算をすると脳のこの部分が鍛えられるといったように意識できません。と言うよりも脳の一部分だけを使って解く問題などないのではないか複雑に脳の色々な部分が協力していると思います。 ここを鍛えれば数学の問題がスラスラ解けるとか,もしそんなことができれば,せめてはっきりと目的意識を持ってできればもう少し勉強がやり易くなるのだろうかと思いました。でも,計算は演算装置で記憶はハードディスクとなると人間の脳がコンピューターみたいでおかしいのかもしれません。成長期にある子ども達は筋トレも注意しないと発育に悪い影響が出たりします。ある特定の筋力を鍛えると全体のバランスが悪くなったり,鍛え過ぎて身長が伸びなくなったりするようです。やれば良いと言うものではないということです。人間の脳も同じように特定の部分だけ鍛えようなどとするとバランスが悪くなるのかも知れません。特に若いうちは色々なことを見たり聞いたり経験してみることでより良く成長するのでしょう。脳のことが良く分からないまでも経験からも人間は学びます。色々な経験が必要なことを「良く遊び,よく学べ」「可愛い子には旅を」などのことわざが良くあらわしていると思います。 学校の勉強など脳のほんの一部分を鍛えているだけでしょう。また教科の内容などは今までの経験からこの程度のことは必要ということで設定されているのでしょう。(新しい指導要領は色々と言われているようですが)しかし,取りあえず脳を鍛えておかないとこれからの世の中大変なんだということで,子ども達はトレーニングに励む必要があります。私には衰えないようにトレーニングが必要なので,一緒にやっていこうと思っています。
-------------------------------------------------------- |
前のページ 信天翁通信へ 次のページ |