ごあいさつ
通信Back number2003年4月~2004年3月
前のページ 信天翁通信へ 次のページ |
2004年3月22日(月) No.184 進学・進級とあわただしい春です。進学・進級という言葉は,新しいスタートでもあり,何か今までと違ったものを期待させる響きがあります。まして,受験という関門をくぐりぬけた高校進学は,本当に次のステップへの新しいスタートト位置についたといえるでしょう。 経験したことのない場所ですから,不安がある反面,何か新しい出会いを期待できるでしょう。しかし,そうしたチャンスは誰かが与えてくれるものではないでしょう。A高校に入学すればとか高校生になればとか,如何にも勝手に機会が訪れそうな言い方をしますが,そんなことはないでしょう。やはり,テストの点数と同じ様に,自分で掴み取るものだと思います。いくら素晴らしい所にいたとしても,自分がアンテナを張り巡らせ,様々なものに接する気持ちがなければせっかくのすばらしいものも通り過ぎてしまうでしょう。反対につまらなそうに見える物も,角度を変えてみると素敵な部分が見えてくることもあるでしょう。自分で楽しいことすばらしい出会いを見つけることが出来れば素晴らしいことだし,そんな新しい場に進むから進学なのでしょう。 それからせっかく新しい処なのですから,周りを眺める気持ちがあればいいと思います。旅行に行けば風景を眺め,感動するように,新しい物が見え,それこそ同じ物の違った面が見えたり,何か感じることがあればすばらしいですね。自分で言うとなんだか,赤面ものですが,感動できる何かを見つけて欲しいと思います。 聖書にある「求めよ,さらば与えられん。たずねよ,さらば見出さん。門をたたけ,さらば開かれん。」という言葉を私は好きです。何かをなすために自分から積極的にアプローチするという様に,この言葉を私は解釈しています。まあ,信者ではありませんし,聖書の勉強だってしたことがありませんから正しい解釈はどうなのかは知りません。前向きに取り組むという感じが気に入っています。自分から何かを求める積極的な気持ちで,新しい生活をはじめて欲しいと思います。 進学だけではありません。進級,まっさらな教科書に変わります。気持ちを新たにして勉強に取り組む,何かを当てにするのではなく自分の手で掴み取る,そんな前向きな姿勢を持って欲しいですね。 新しい一年が私にも始まります。卒業する子がいて,新しく入ってくる子がいます。新しい出会いです。私も新しい何かを見つけることが出来るようにしたいものです。 ★今年度の高校入試を振り返って 今年度の高校入試は公立も厳しいものでしたが,私立高校は激震があったといえるでしょう。 ○私立高校…昨年までは受験すれば合格といった状態でしたが,今年度は立命館慶翔・北海・第一・光星の各高校でかなりの不合格者を出したようです。立命の合格者はA・Bランク,北海と第一は最低ランクがD,光星は当日点だけで合否を判定したようです。これらの高校は公立の滑り止めとはなりませんでした。中学側もこうしたことを事前に把握していなかったようで,相当あわてたようです,当然私もまったく知らず冷や汗をかかされました。ただ,この他の高校は従来とそう変化はありませんでした。来年度もどの高校も同じかどうかは分かりません。今年のように突如変身する高校がないとは限らないでしょう。こう考えると,私立の二校受験なども考慮する必要があるのかもしれません。
○公立高校…定員の削減もあり北校と当別が1.1倍だった他は,ほとんどの高校が高倍率で, 上位校と言われる高校の最低ランクがますます上昇したようです。来年は全て絶対評価によるランクになりますから,いくら実力があってもランクがないと受験校を選べなくなりそうです。どうやってランクを確保するかが大切になりそうです。 ------------------------------------------------------- |
2004年2月26日(木) No.183 何校かの中学に塾生は通っています。それらの中学のレベルが高いとか低いといったことが,子ども達の話題となることがあります。「中学のレベル」ということが子ども達にも気になるのでしょう。この近辺のいくつかの中学は,あまり評判が良いとは言えず,レベルが低いと言われているようです。子ども達の話しを聞いていると,中学の教師自ら,レベルが低いなどと言ったりすることもあるようです。「中学のレベル」,こういったことは低いよりは高いほうが良いことなのでしょう。しかし,中学のレベルが個人のレベルと一致する,「レベルの高い中学イコールA君のレベルが高い」とはなりません。 しかし,子ども達の話を聞いていると, どうもイコールになっているように感じます。「中学のレベル」が低いだから自分のレベルが低い,そんなニュアンスを感じることがあります。教師自身レベルが低いなどと言えば子どもがそう思うこともあるのかもしれませんし,そんなことを言う教師自身のレベルが低いため,子ども達のレベルが低くなることもあるでしょう。本来,子ども達一人一人のレベルは中学のレベルとは別問題です。まして,試験はスポーツでいうならば個人競技です。チームで何かを競うものではありません。中学のレベルが高いからといって,個人の点数を高くしてくれることはありません。個人個人がどのレベルにいるかが問題なのです。 いかに自分のレベルを上げるか?もし,子ども達が自分の通う中学のレベルが低いと思えば,中学を頼りにしないで,いかに自分のレベルを上げるかを考えれば良い事です。中学の問題ではなく,自分自身の問題としてとらえ,解決法を考えて欲しいものです。 レベルというと,テストのたびにクラスの平均点が高い低いとよく言います。平均点は全体的な傾向を見るにはそれなりに便利ですが,個人のことは何も分かりません。どうも,個人個人のレベルの問題ととらえるより,漠然と平均点で全体の問題のように言ってしまう。そんな習慣があるのかもしれません。また,自分の所属する集団と個人,どちらの問題かといったことをあまり考えず,あいまいにしているといったことがあるのかもしれません。現状では,中学を選択したり,教師を選択したりは出来ません。いま,自分のレベルを上げるために出来ること,やればいいことを自分で考えなければならないでしょう。子ども達にとって大変なことかもしれませんが,一人前になるためには,いい経験になるでしょう。 そもそも,「中学のレベル」,これは何を尺度にしているのかということがあります。おそらくは進学実績や,学力テストの平均が尺度になっていると思います。これらは中学の一面には違いがありませんが,全体ではありません。子ども達が充実した楽しい学校生活がおくれる中学であって欲しいと思います。 ★公立高校入試は3月3日。いつも子ども達に言うことですが,
実力を発揮し,好い結果を出して欲しいものです。あと私に出来ることは,受験する子ども達の幸運を祈るしかありませんが。 ------------------------------------------------------- |
2004年1月30日(金) No.182 私は子ども達に「同じことを同じ様に」と何度も何度も言います。小学生に言うよりも,問題練習が多い中学生によく言います。 同じ解き方で解ける問題をいかにも違ったように見せる,よくあるパターンです。それに引っかかった子は,知らないこと違ったこと何か違ったことをしなければ,と思い込んで問題が解けなくなってしまいます。そこで「同じことを同じ様に」ということになります。 小学校で習う簡単な加減乗除から始まり,簡単なことだと思うのですが,やはりそれなりの練習が必要なようです。計算は桁数が増えてくると,足し算では繰り上がり,引き算では繰り下がりが,掛け算では九九と足し算を,そして割り算は掛ける引くと同じことを何度も繰り返します。手順がたいせつということです。計算などで気付かないうちに練習してきています。通り過ぎた人間には当たり前のことで簡単に思えますが,同じ手順を繰り返していると意識している子は少ないように思います。私も,小学生を見ていて「ああ,こんな頃からやっているんだ」等といまさらのように思い直すことがよくあります。 考えてみると,学年が低いほど新しいことが次々と出てきます。足し算を習って,引き算そして掛け算と考え方の違ったものを習います。割り算が終わると,後は数の領域が広がっていくだけで基本的なことは変わりません。同じ手順が使えます。漢字なども最初に習ったものが,編や旁という形で出てくるので,読み方や意味が予想できることもあります。つまり,学年が進めば,今までと質的にまったく違ったものが出てくることは少なくなります。でも,最初に新しいものがどんどん出てきますから,子ども達から見れば今までと違ったことを習うという風に見えるのも無理はないのかもしれません。 子ども達には新しいことを習うのが勉強という思いもあると思います。じつはそれにプラスして,習ったことを順序だてて使うという事もあるのですが,こちらは子ども達にあまり意識されていないように感じます。確かに,まったく同じ繰り返しであっても,行を変えたり位置をずらしたり,何かしらの違いが子ども達を戸惑わせるようです。少しの違いに気を取られず同じことに注目していくと,覚えることや練習量を減らすことが出来ます。 そんなことを思い, 何とか子ども達に,どんな言葉であれ辞書を引く時は同じ手順ですから,それと同じように決まった手順で問題を解いて欲しいと思い「同じことを同じ様に」と言うことになります。 言うは易く,はたして私の説明がそうなっているのだろうか?子どもによって同じ様に説明していいのだろうか,いや違うだろう?私がどんなことを言っているか子ども達が家庭で話すことがあるでしょうか?自分では気付かずにいる言葉もあるようで,時々子ども達に指摘されます。子ども達からすれば「耳にたこ」かもしれませんが,これからもわたしは「同じことを同じ様に」と言い続けるのでしょう。 そこでいつも困るなあと思うのが,教科書にある「工夫して」などといった問題です。工夫ですから,子ども達からすると違ったやり方があるように思えるじゃありませんか。どうにかなるものではありませんが。何とかならないかなあと思ったりしています。 ★体調を整えてください★受験が近くなりました。夜型の勉強を朝型に変えてください。塾で受験生の様子を見ていると,少しぴりぴりしているようです。まわりは騒がないほうがいいようです。そもそも親が勉強をしても子ども達の受験勉強の役には立ちません。親の出来ることは体調管理の面で,食事や朝の起床時間など注意してあげるくらいでしょうか。親の信頼感や不安感は子ども達に伝わります。信じる親の眼は子ども達の励みになると思います。多少の不安は隠して,子どもを信頼し見守ってあげましょう。 ★桁数の大きな計算は新しい教科書からは消えたようです。手順の練習を考えるとどんなものでしょうか。
★道コンの個人成績表に「先生から一言」という欄があります。この欄を読んだ子ども達が「これおじさんが書いたんじゃないよね」と言います。私が書くと,どんな文になると子ども達が思っているのか分かりません。しかし,私が書いたものかどうかわかるのですから, 私が子ども達に話すことがそれなり受け入れられているように思え,私としてはうれしく思いました。本当は,もっと気の利いたことを言えれば良いのですが,なかなか難しいですね。 ------------------------------------------------------- |
2003年12月27日(木) No.181 私が中学生だった頃,今から40年近い昔の話です。集団就職という言葉があり中卒の子ども達が金の卵と言われ,中学を卒業と同時に働く人が少なくなかった時代でした。そのころ私が習った国語の教師が「中学の国語の目標は新聞の社説を読めるようになることである。」といった内容のことを言いました。今思うに,新聞の社説には政治や経済など世間についての意見や考えが書かれていますから,社説を読み理解できることが,社会人として必要であり,中学を卒業するということは大人と同等の社会の一員,つまり一人前になるという様に,その教師は考えていたのだと思います。 社説を読む,国語の力だけでなく社会的な関心など,結構なレベルを要求されます。中学を卒業する事は一人前になるということ,また社会に出るため高いレベルを要求されるということが,中学生の私にそれなりのインパクトを与えたせいか,今頃まで覚えていたようです。 今,中卒で社会に出て行く子はほとんどいないと言っていいでしょう。とすると子ども達はいつ一人前になるのでしょうか,いえ,いつ子ども達は一人前と認められるのでしょうか?本当はいつから大人といった境界線などなく,だんだんと大人になって行きます。しかし,大学の入試や入学式に親がついて行くのが珍しいことではない時代です。ひょっとして,中学の教師や私も含め大人達は子ども達を一人前に育てようとしているのだろうかと思ったりします。 最近相撲の横綱朝青龍が横綱の品位に欠け問題だと新聞をにぎわしているようです。地位にふさわしい品格などもって生まれたものではありません。横綱の品位は相撲の社会の中で育てられるものなのでしょう。同じ様に,子ども達は勝手に大人になるわけではありません。人間として成長するのは人間の社会の中で育てられてこそ大人になるのでしょう。 子ども達は学校という社会でかなりの時間を過ごします。そして義務教育は中学でおしまいです。義務教育に求められることがどんな内容なのか,国が国民に求めるもの,あるいは国民が国に求めるもの,その時代によって異なるのは当然です。今,豊かになり,子ども達が義務教育を終えても社会に出て行かなくなりました。そのせいか,子ども達の成長がゆっくりのように感じることがあります。と言うよりは大人がゆっくりさせていると言うか,どう育てるのか義務教育の目標がはっきりしなくなったような気がします。 さて,私は何を目標に子ども達に向かっているのでしょうか?成績を上げる高校入試に合格させる。まずは問題が解けるようにということです。私のいう問題には日常生活での人と人とが起こす問題は含まれません。学校の問題の解法と大人になることがどう結びついているのか,私にはちょっと分かりません。でも,まったく無関係では寂しいし,関係があってほしいと思っています。 いずれにせよ冬の講習で,問題のとき方をマスターして一人前になってもらわなくてはと思っています。
★個人懇談にはたくさんのお母さん達に来ていただき参考になりました。前に書いた国語の教師のことも懇談の中で思い出しました。親の思い,子の思いはいつも一致するとは限りません。親は子のことを心配し,色々な障害を取り除こうとします。当然といえば当然ですが,見かたを変えれば,子のことを信頼していない,育てようとしているのだろうかとも受け取れます。白か黒かといった境目や解答のある問題ではありません。また同じ親の子でも,共通点はありますが子によって違います。子ども一人一人に違った接し方が求められるようです。でも,子ども達を大人が信頼してやることがやはり大切だと思いました。
★以前から予想もされ言われてもきたことですが,ランクが上昇しています。今年の高校入試の最低ランクがどの程度なのか,過去のランクを信じていいのか判断が難しくなっています。ランクが上昇すれば,当日点まで上昇すると予想されます。受験生は心して講習に取り組んで下さい。 -------------------------------------------------------- |
2003年11月27日(木) No.180 最近の新聞で,記事なのか投書なのか忘れましたが,「やつ」という言葉は使わないほうが良いということを目にしました。漫画に「うる星やつら」というのがありますが,その「やつら」の「やつ」のことです。「やつ」は良い意味の言葉として使わないといったことが書かれていたようですが,反対に私は「やつ」に良い印象を持ったことがあり,その記事が目に入りました。 私が良いなと思ったのは,かなり昔のことです。新しい塾生が来ることになっていました。新しい子が増えると,ほとんどの場合,子ども達は喜びます。しかし,新しい子どもが来るというのは,私やおばさんにとってそれなりの緊張感があります。一クラスの人数はわずかですが,いえ反対にわずかですから,クラスの雰囲気は大切です。面接はしていますが,他の子ども達とうまくいくだろうか等やはり気になります。どんな子だろうと思って,同じ中学の子に「○○を知っているか」と聞きました。その返事が「うん知ってるよ,良いやつだよ」だったのです。「良いやつ」と聞きほっとしたことを覚えています。 特に新人について他に何か話したわけではありません。ただ「良いやつだよ」という言葉の響きが,なんとなく自分達の仲間として認め受け入れてくれるような感じがしたからです。他人のことを聞かれたとき,例えば私が,誰かに塾生がどんな子どもかと聞かれたとします。私は何と答えればいいのでしょうか。結構難しいと思います。成績や性格,塾での様子など様々なことが頭をよぎります。とても一言で言えそうにありません。色々なことを言えば言うほど,子どもの本当の姿がぼやけてしまうような気がします。 同じ言葉でも使われる場面によって,感じ方が違います。差別語など使ってはいけない言葉も多々あるようです。でも,そのときの「やつ」はとても良い響きでした。私も,その場にふさわしい良い響きの言葉を使いたいと思います。 しかし,気軽に「知っているかい」と聞きましたが,考えてみると塾生に,新人のことを尋ねるというのがそもそもおかしいのでしょう。聞かれたほうも,ほめるにせよけなすにせよ,どう答えたものやら難しいに決まっています。だれかについて知りたいことがあるにしろ,あまり他の人に聞くものではないと思いました。やはり自分の目で確かめなければいけないでしょう。自分のことを語るのならともかく,警察やカウンセラーではありませんから,他人について質問するのは控えようと思います。
しかし,その新しい塾生は返事の通り「良いやつ」でした。そして,今まで,たくさんの「良いやつ」と出会いお付き合いをしています。これからも,もっともっとたくさんの「良いやつ」との出会いがあるだろうと期待しています。 -------------------------------------------------------- |
2003年10月22日(水) No.179 色々な予定をたてるとき,皆さんはどのようにしてたてるのでしょうか?計画のたて方は大まかに二通りで,今はじめることから考えるか,それとも最後の結果から考えるかのどちらかになると思います。出かけるとき,何時に出発できるか,それとも何時に着かなければならないか,どちらから予定を組むかの違いと言っていいでしょう。 子ども達が試験の問題を解くときに同じ様なことが起こります。問題があれば当然答が決まっています。問題から出発するか,答(実際には答に近いところ)から出発するかということになります。この両方の区別をし,使い分けができると問題は解きやすくなります。さて,問題と答とどちらから出発する問題がたやすく解けるでしょうか?私は答から出発できる問題の方が簡単だと思います。問題から出発すると解法が何通りも考えられることがありますが,答から出発しますと方法が限られてくるからです。目的地がわかっていれば進むべき方向が決まってくるのと同じです。でも,これから見つける答を出発点にするということが不思議なのか,子ども達を見ているとなかなか難しいようです。 これから見つける答,わからないことを元に問題を考える,なんだか言葉としておかしいかもしれません。実は,答または解法を予想するということです。こんな答・こんな形になるだろうとか想像してほしいということです。予想する手掛かりがまったくないわけではありません。問題文の中にヒントになることが隠されています。つまり進むべき方向を問題に合わせてやってみるということです。ただ,この方法は最初の予想が間違いだと最初から予想をたてなければならずリスクを伴うかもしれません。 しかし,科学者が実験をするとき帰無仮説をたてます。無駄かもしれない仮説,つまり予想です。新発見新発明は大ニュースですから,仮説が間違えていることの方が多いようです。科学者でさえ,間違え,失敗をしているのです。まして子どもが失敗するのは仕方がありません。 先が見えている,問題を解いているときはいいのかもしれませんが,先の見えたゲームやテレビドラマなど面白くありません。わからないからはらはらどきどきがあって楽しいのです。カードゲームでも相手はどんな手をしているのか,どう進めようとしているのか,予想することで楽しみが増えます。わからないからと言って何もしないとゲームは進みません。こうしたら勝てるだろうと思いながら手を進め,ゲームは上達していきます。勉強やテストもそんな感じで進めることが出来れば,そんな甘くはありませんが,と思っています。
★世の中の問題になると,答はある様なない様な,無数に答があって,人によって正解が違うなど当たり前ではないでしょうか?ある問題がどう解決できれば良いのか人によって違うことがごく普通です。そのため出来るだけ皆が納得できる結論を決めてから解決方法を考えるということは珍しくありません。子ども達に大人のこんな話をしても仕方ありませんが,答から解決法を考える,そしてやってみるということはわかって欲しいと思います。じっとしていて,何かが解決するということは考えにくいことです。特に勉強など,間違えたからといって,別に大きな問題が起きるわけではありません。だからこそ,子どもの頃ほど間違える練習をしておくことが出来ます。思い切って間違えて欲しいし,間違えてもいいような環境を何とか作りたいと思います。 -------------------------------------------------------- |
2003年9月19日(金) No.178 教科書の内容が減らされ,昔に比べ簡単になった。ずいぶんと言われてきました。テスト対策をしていると,確かに難しい問題が減ったなと思うことがよくあります。そんなとき,私は子ども達に「こんな簡単な問題ばかりだ,馬鹿にするなと怒りなさい」,「減らされた中身は正答率が低いところだよ,今の子どもには解けない,だから教科書から消えた。みんなは昔の子どもより馬鹿だと言われているのだよ。」などと言います。 子ども達の能力や実力をどう判断するのか,難しいことだと思います。教科書の内容は文科省が心配してくれますが,例えば,公共交通機関を利用して子ども達だけで出かける,などといったことは親が心配しなければなりません。道に迷わないだろうか,バスなど行き先を間違えずにちゃんと乗れるだろうか,不良や変な大人に出会ったりしないだろうか。色々と心配の種はつきません。道に迷った時は交番や商店で道を尋ねることが出来る。バスの行き先は字が読めるから確認できる。不良に会わないように人通りの少ない道は歩かないとか,もしからまれたらどう逃げるか。など等,子ども達が問題の解決能力があると判断をすると,子どもだけで外出をさせることになります。しかし能力がないと判断すれば,おそらく外出は禁止でしょう。カラオケは密室でタバコをすったり酒を飲んだりするかもしれない。携帯電話は出会い系サイトなど命に係わる問題がある。文化省は国民を心配し?教える内容を減らしますが,親は子どもを心配し禁止事項を増やします。昔はなかった心配の種が増えているのでしょう。親の心配は十分わかりますが,一方,禁止事項が多いということは文科省と同じ様に子どもの能力を認めていないということにもなります。 フランスの公園で親の同伴を禁止しているところがあるという話を思い出します。付き添いの親が色々と心配して子どもに口を出すと,子どもは自分の実力を親に見せようとし無理をすることがあり,かえって危険だからだそうです。それにしても,能力を認めてもらえない子どもは自分をどんな子だと,また認めてくれない親のことをどう思うのでしょうか? 子どもを心配する,親として当たり前のことですが,言い換えれば子どもの能力を認めていないし子どもを信用していないと言えるのではないでしょうか。しかし子どもの力,出来る子と出来ない事を正確に見極めることは難しいことでしょう。出来ないことをやらせるわけにはいきません。力がつくまでは保護したり教えたりが必要なことは言うまでもありません。鳥に巣立ちがあるように子ども達も大人の手を離れていくのでしょう。鳥達は誰に教わるのでもなく巣立ちの時期をどのようにして知るのでしょうか?野性の本能と言えるのかもしれません。自然から離れてしまった私達は何を手がかりにすればいいのでしょうか。ただ,子ども達を認め信じているということは子ども達に伝えなければいけないことは間違いないと思います。親が子どもの力を認め信じると,認められていると感じた子どもは自分に自信を持ち無理をせず自分のペースで様々な問題に立ち向かえるようになるのではないかと思います。
子ども達がなかなか問題を解けないと,こんな問題さっさと解けよといらいらする私です。それよりも何故出来ないのかを考えなければいけないのですが,なかなかうまくいきません。こんなときこそ,塾生は私達の子どもではありませんが,同じ様に子ども達の力を信じなければ行けないのでしょう。私が子ども達の能力を認め信じていなければ,子ども達は勉強を出来るようにもならないだろうし成長もないと思います。 ★中三は学力テスト・定期試験と続きます。毎年同じことを書いていますが,体調を崩さないように十分注意してください。塾の方も試験勉強の関係で曜日や時間帯を変えたりします。その都度,子ども達に連絡をしますが出来るだけ確認をとるようにしてください。 -------------------------------------------------------- |
2003年8月27日(水) No.177 「ほんの少しのそうぞうりょくとそうぞうりょく」,話し言葉や平仮名で書くとわかりにくいのですが,漢字で書くと「想像力と創造力」となります。私が思いついた語呂合わせとしては,良い出来だと思っています。漢字だとなんだか大袈裟に思える言葉です。私流に平たく言えば」,「ああかな,こうかな,何かと似ていないかと思え」,「ああしてみよう,こうしてみよう,思うようにやってみろ」となります。 「習っていない」,「わからない」,「やったことがない」は子ども達の口癖かと思うほどよく出てきます。例えば,すでに習った漢字を組合せた新出の熟語の読みなど,読んでみれば当たることが多いのですが,読もうとしない。また,中学でも三角形の面積を求める問題が出ます。当然,面積の公式は小学校で習っています。しかし,公式を使おうとする子は多くいません。知っている知識,憶えている事柄を使おうとしない。ぼんやりと答を待つ姿勢が目立ちます。どうも,「間違えてはいけない,思うようにやってはいけない」という思い込みがあるように私達には見えます。 物事を憶え,使っていくためには失敗から学ぶことが大切です。車を運転していて,道を間違えながら目的地にたどり着くのと,同乗者に道案内してもらって着くのとではどちらが道をよく憶えるか。よく言われることでしょうが,案内者がいる方が時間はかからなくて効率的かもしれません。しかし,道を憶えるには間違えながらも自力でたどり着くほうが,よほどよく憶えます。道を間違えて,あちこちうろうろするうちに,知らないお店に気がついたり,新たな発見があったり楽しみが増えるかもしれません。ともかく失敗を恐れていると一歩も動けなくなってしまいます。 ぼんやりと答を待っている子どもの目は,ぼんやりしています。以前に習ったことを思いだすとか,自分から「ああしてみよう」とか思わないと,子どもといえどもボケるのではないかと本当に心配になります。 何より,テストに知っていること憶えていることしか出ないなどということはありえません。忘れたこと,見たことがない問題をどうやっつけるかが得点につながります。自分の知っていることをフルに活用し,「ああしてみる,こうしてみる」やっているうちに糸口が見つかるのではないかと思います。「知っている,知らない」だけの勝負ならコンピューターにかないません。コンピューターと違って人間様のすばらしいところは,「ああかな,こうかな」と思い,「ああして,こうして」とやれるところだと思います。思い切って間違えて欲しいし,そんな雰囲気を作るように,私達も心がけないといけません。
まあ,こんな心配は勉強の時だけだとは思うのですが,遊んだり,好きなことをしている時の子ども達の目は輝いているに違いありません。確かに,藻岩で焚き火をしているときの子ども達の姿は,勉強の時とはずいぶんと違って,楽しそうにしています。 ★二学期の中間テストを実施しない中学校が増えてきました。中間テストがあるのは,近辺では上篠路中学だけです。子ども達は単純に試験の回数が減ると喜んだりしているようです。しかし,試験回数を減らす理由とメリットはどのへんにあるのでしょうか。私が思うには,回数が減ると失敗を取り返すチャンスが少ないということになります。また,試験範囲が広く普段から心がけて勉強しないと,にわか勉強では追いつかないということです。範囲が広く色々な問題が少しずつ出ることは入試のようですから,練習になって良いのかもしれません。一長一短のようですが,広い範囲だと忘れずに普段からしっかりやるようにしましょう。 ★涼しい夏休みでした,講習は楽で助かりましたが,海やキャンプに行くには好くありません。子ども達には,少し寂しい夏休みだったかもしれません。休みが終わり長い二学期が始まりました。生活リズムが休み中とは違ってきます。体調を崩したりしないようにしてください。特に中三は。部活が終わるなど生活時間帯の変化が大きかったり,毎月のようにテストが続いたりと大変な面もあります。体調には十分気をつけてください。 ★初めて山小屋で勉強をしましたが,とてもよかったと思いました。また夏休みに計画しようと思っています。 -------------------------------------------------------- |
2003年7月28日(月) No.176 漫画の話で申し訳ありませんが,ある落語家が主人公です。将来を期待される若手の落語家ですが,賭け事が好きで落語に身が入りません。それを見かねて名人が「目先の勝った負けたに賭ける小さな賭け事はやめて,もっと大きな賭け事をしろ」と若手の落語家に言います。「落語に賭けてみろ,人生を賭けてみろ」ということです。若手の落語家はその後,小さな賭け事はやめて落語に賭け真打になるという話です。 人生を賭ける,そんな大げさな事はめったにないと思いますが,確かに毎日の生活は賭けのようなことが多いようです。例えば,果物を買う,どれがおいしいか選んで買います。まあ,これも賭けといえば賭けでしょう。たべればすぐに結果がわかります。おいしければ勝ちで,まずければ負けといったところでしょうか?何かを選ぶ,選択するということは日常的によくあります。また,何を選択したかによって,賭け事のように勝ち負けがないかもしれませんが,結果が変わってくることがよくあります。そう思うと,選択するということは賭け事に似ているようです。 毎日様々な場面で私達は選択を迫られます。今中学生,特に三年生は選択を迫られています。どの高校を受験するかという選択です。一生が決まるというほどの選択ではありませんが,子ども達の人生のいくばくかは懸かっているように私は思います。というより子ども達が自分の人生で,初めて,全てではないのだけれど将来というものを賭けているかもしれないということを知って欲しいと思います。また,A高校を選択する事はB高校を捨てたということも知っておいて欲しいと思います。選ぶということは捨てる事を伴っています。将来の高校生活や新しい未知の仲間の事など,何を失うのかわかりません。気がつくことさえないかもしれません。 時には先の事をよく考え,時には結果を気にせず適当に選びます。面白い事にというか不思議というか,よく考えたから結果がいいという保証はありません。何気なく選んだ事が一生の仕事になるかもしれません。その仕事が面白くて,といったこともあるかもしれません。考えに考え,迷いに迷った結果,明智光秀は三日天下で終わりました。しかし,明智光秀が不幸だったかどうかはわかりません。行動を起こさず,あのときなどと思って過ごすよりは,本人は自分の負けと死を納得していたかもしれません。 色々な事を賭け事にたとえてきました。しかし決定的に違う点は,賭け事は勝ち負けがはっきりしていますが,人生に勝ち負けはあるのでしょうか。私はないように思います。もしあるとすればそれは他人が決めることではないでしょう。本人がどう結果を受け止めるかではないでしょうか? とか何とか言いながら,私ぐらいの歳になると,あのときもう少しよく考えればなどということも結構あります。後の祭りというやつですね。そんな感じで私の場合,特別なことを除くと,何事につけ果物を選ぶほど真剣に考えて選んでいないようです。暇な時間,通信を書くという選択をしていれば,とっくに通信は書きあがっていて講習の最中にばたばたしなくてもすんだはずです。結果がわかっていてもこのていたらくですから,後は推して知るべしでしょう。どうも子ども達にえらそうに言えるほどの物はないようです。「後の後悔,先に立たず」と言いますが,後悔を先に活かすことはできるはずだし,子ども達にはそうなって欲しいものです。 ★山小屋便り
-------------------------------------------------------- |
2003年6月25日(水) No.175 定期テスト中の子に,テストがまだ始まっていない子が「テスト頑張ってね」と声をかけます。ありふれた光景です。こういう励ましの言葉は,良いのか悪いのか,考えさせられます。「頑張ってね」声をかけられたほうが頑張っていなくて,つまり勉強していないのなら,それなりに良いのかもしれません。もし勉強を頑張ってしている場合は,どうなるのでしょうか?もっと勉強しろと言っていることになりませんか。「頑張ってね」嫌味な受け取り方かもしれませんが,「普段は頑張ってないのだから,テストのときは頑張りなさい」と言っているのと同じです。子ども達は普段の授業や家にいるとき,頑張ってはいないのでしょうか。特に楽しい勉強,だったらいいのですが,現実はそううまくはいきません。嫌で,気が向かないのだけれど授業はあるしテストがある。外からはわかりませんが,つらいところでその子なりに頑張っているのが本当だと思います。 「頑張る」に限らず「ベストを尽くす」など励ましとして使う言葉は,私にはとても厄介です。例えば,テストの点数は満点で行き止まりです。しかし「頑張る」はどこまでやればいいのでしょうか。行き止まりというか,限度があるのでしょうか。本人の思う頑張りと親や教師が思う頑張りは必ずしも一致しません。さらに厄介なことに,頑張りとテストの点数はイコールになりません。頑張ったにもかかわらず点数が悪かった,そんな時皆さんは子ども達にどう対応しますか。頑張って,悪い言葉ではないのでしょうが,どこまでやれば誰もが納得するのでしょうか。五十点が六十点,じゃあ次は七十点,満点になれば終わりでしょうか。満点を維持することは点数を上げるよりもっとつらいことです。ミスは許されないからです。いったいどこが行き止まりなのでしょうか? 頑張りは結果を出すまでの途中経過です。色々な場面で,結果はともかく経過が大切だと言います。しかし,テストの点数について誰も途中経過を考慮してくれません。絶対評価などといってみても子ども達が家庭や色々な場面でどんな頑張りをしているかなどわかりません。所詮は目に見える結果です。授業態度・興味関心などといっても,教師の目に見えるところに限られます。経過が大切と言うけれど,経過は評価されないようです。頑張ったけれど結果を残せなかった子ども達には気の毒な現実かもしれません。 子ども達からよく聞く「テストだから頑張る」,私に対してまさか「頑張らない」とも言えないでしょう。しかし,どうも私は感心しません。いかにも「普段勉強していません」と自分で言っているようです。いつものようにやって結果を残せるようになってほしいと思います。
「頑張る」いつも普通に使う励ましの言葉に違いありません。私のようにこだわるほうがおかしいのでしょう。しかし,「頑張る」に代わる好い励ましの言葉がないのだろうかと思います。何かないでしょうか? 職員室は全面禁煙になったのでしょうか♥
★五月一日に健康増進法という法律が施行されました。受動喫煙の害を考え公共の場では禁煙を,という内容が含まれています。しかし,罰則はなく努力規定のみです。地下鉄のホームは順次,全面的に禁煙になるそうですが,学校の職員室はどう対応しているのでしょうか?ちょっと子ども達に聞いてみてください。 -------------------------------------------------------- |
2003年5月22日(火) No.174 子ども達から英語のヒアリングの練習法について質問されることが時々あります。私が中学・高校のころはヒアリングのテストなどなかったし,英語は好きでもなく,また勉強熱心な生徒でもありませんでしたからヒアリングの練習などしたことがありませんでした。それでも大学にはいってからは,英会話ができればと思ってラジオ英会話を聞くなど,勉強をやり始めましたが結局のところ挫折しました。英語に限らず言葉の学習は,自動車の運転のように「習うより,慣れろ」が有効なところがあるかと思います日本語を聞いて育った私達は,特に勉強をしませんが,話せるようになっています。英語の勉強と考えるよりも親しむと考えた方が,かえって身につくのではないでしょうか。 親しむといえば私と同年輩では音楽だったようです。ビートルズから英語の勉強をした人は多いようです。もっと古い時代は駐留米軍向けのラジオの音楽番組などを聞いていたそうです。音楽の他には映画を見るという方法です。中学生にもなると字幕スーパーの映画だって見ると思います。一日中一つの映画を見続ける,同じ映画を一日に何回上映するのかわかりませんが,これも昔からある方法です。欠点としては,映画の種類によっては,例えば,ギャング映画だとスラングなどあまり上品とはいえない言葉遣いでしょう。でも場面がありますから,どんなときに使う言葉かは中学生にだってわかるでしょう。それと,字幕は限られた時間に読めるように短くしてあって逐語訳ではありません。 昔の貧乏学生が映画を見るのは大変なことでした。封切館は入れ替えがあるので,トイレに隠れて何回も見たといった話を聞きました。しかし,今は便利な時代です。百円も出せばレンタルビデオが一週間も借りることができます。時間があれば,飽きなければ何度でも見直せます。方法はともあれ,自分から積極的に英語に接すると考えれば色々な方法があるはずです。モルモン教の人達は,宗教色が嫌だということはありますが,向こうから積極的に話しかけてくれます。そんなときにこちらが英語を使ってみるのもいいかもしれません。 勉強,特に学校の勉強というと,教科書だとか授業だとか狭い意味で考えてしまいます。学校の勉強が特別孤立した物ではなくて,もっと広い世界とつながっています。人間が長い時間をかけて積み上げてきた膨大な知識の世界のほんの一部を知ることから,学校の勉強が良くわかるようになるという面があります。学校の勉強とこだわらず,様々なことに関心を持ち接してみると,すぐに効果として現れないと思いますが,特に勉強をしなくても知っている聞いたことがあるといったことから,テストの点数や成績につながることがあるのでしょう。高い山ほど裾野が広い,広い裾野があれば高く積み上げることが可能です。 テストのためにといった勉強も必要ですが,ビデオ・テレビ・ステレオなど,いえインターネットなどなど,最新の技術を利用して広い世界に接することもいいのではないでしょうか。アンテナを張っている,これが一番大切なように思えます。引っかかった物に接してみる,楽しんでみると思えればいいのではないでしょうか。楽しみを増やすつもりで! ★学校の行事予定を見ておかしかったこと。「ていねい清掃」という日がありました。特別にこんな日を設けるということは,この学校は普段丁寧に掃除をしていないんだ。そう思って学校で使う言葉を考えると不思議な用語が結構あります。いわく「宿泊学習」・「調べ学習」・「スキー学習」などなど「~学習」がやたらと多いのです。「~学習」となっていない日は学習をしていないのだろうかと言いたくなってきます。それとも何でも学習とつけていれば大義名分が立つということなのかしら,などと思ってしまいます。特別な行事という意味があるのかもしれませんが,「ていねい清掃」など大掃除で十分だと思います。普通のことを普通に言えばいいのに,なんだか世間の感覚からずれた学校という感じがしてなりません。 ★定期テストは必ず受けてください★今月は定期テストがあります。定期テストは必ず受けてください。定期テストを受けることができなかった場合成績は下がるようです。 もし定期テストが近くなって具合が悪い時は,無理をせず,学校を休み体調を整えてテストを受けるようにしてください。 ★山小屋便り
-------------------------------------------------------- |
2003年4月22日(火) No.173 新学年が始まりました。子ども達が学校で過ごす時間は長いものです。楽しい時間ばかりだといいのですが,そんなわけにはいかないでしょう。小学校は担任との相性が合わないと大変です。中学は教科担任制ですから時間で教師が代わるだけいいのですが,合う合わないがお互い引き立て役になり,嫌な授業はとても耐えられないといった状態になるようです。辛い時間をどう過ごすか,難しい問題です。授業中とは子ども達にはどうすることもできない時間です。じっと座っていては時間の無駄と思う私は,「授業が分からないときは自分で教科書や学校のワークの問題を解けばいい」と子ども達に言います。しかし問題を解いていると「何をしている」と言われるそうです。他に子ども達に言えそうなことは「教科書を黙読する,国語や英語などは指で書く練習ができる」くらいでしょうか。学校で宿題やその日の小テストの練習をすれば家に帰ってからの自由時間が増えます。少しでも自分の時間を増やすとストレスを発散できるし,疲れも残らないと思いますがなかなかうまくいかないようです。 今の時期,中1は新しい環境,中2はクラス替えや宿泊の班編成,中3はさほどでもないようですが,それでも修学旅行の班編成などでかなりストレスがあるようです。希望に萌える新学年は子ども達の口から愚痴が出る時期でもあります。親も大変ですが,子ども達の愚痴を「ああ,そうなの」と聞いてあげてください。特にアドバイスを子ども達は期待しているのではありません。自分の思いを,楽しいことも苦しいことも,様々な思いを聞いてくれるだけでいいのです。気持ちが楽になり,また,元気を回復して明日を過ごせるのです。何もかも楽しい,なんてことはないでしょうが,元気ないい顔で塾に通ってほしいと思います。塾でだって,子ども達が勉強がわかって(これが一番難しい)楽しく元気に過ごせるように私達もしっかりやらなければいけないのは当然です。 ★今春の受験★北校など難関校の倍率が高かったことが目立ちました。ランクのインフレと私立校の充実によるものだと思います。しかし,見方を変えると冒険をした受験生が増え,実力とランクを持った受験生は今までと同じ様なものでしょうから,倍率ほどの激戦ではなかったように思います。冷たい言い方ですが合格するべくして合格し落ちるべく落ちたのではないでしょうか? 一方20%枠を超えて激戦が続いた開成は,ほぼ枠内に収まりました。今までの反動でしょうか,来春はそのまた反動で枠を超えるかもしれません。 いずれにせよ,ランクと点数どちらも必要なことは以前と同じです。選択肢を多く持つためにランクを,合格するために点数を取らなければなりません。なかなか子ども達も大変ですが,しっかりやらなければなりません。 ★絶対評価について★導入されて一年がたちました。絶対評価の大雑把な仕組みは次のように考えてよさそうです。色々と言われているように評価のインフレ傾向は確かなようです。なお,評価基準が定期テストの点数とその他の要因にわかれている事は以前と変わりません。 ★定期テストの点数が基準で順位は関係ありません。 点数には幅があり,中学によって多少異なります。
• 定期テストの評価に占める割合は小さくなりました。(50%程度か?) • テストの難易度が問題になります。簡単だと全員5だって可能です。 • あくまでも基準です。このとおりつくとは限りません。 ★その他の要因としては • 小テスト・提出物・忘れ物・授業態度・etc? • 科目によって異なり,実技科目は実技のテストの比重が大きい。 • 教師の好みなど恣意的なものが入りやすくわかりにくい。 定期テストで点数を取り,提出物をきちんと提出し真面目にやっていればそう問題はなさそうで,今までより,4や5はとりやすくなっています。ただ,細々とした日常的なことに,これまで以上に注意しなければいけないようです。 ★学区が変わる?★現在,札幌市内は五つの学区に細かく分けられ,受験できる高校はそう多くありません。しかし,この学区での受験は来春が最後になりそうです。選択肢をもっと多くという意見が以前からあり,今の中二の受験からは市内全部が一学区になるという新聞報道がありました。たくさんの高校から受けたい学校を選ぶことができる,これはこれで良いことだと思います。たしかに,高校間の序列はもっと細かくなるかもしれませんが,同じランクで受験可能な高校は増えるかもしれません。しかし,ランクがなかったりすると,思いもよらない遠くの高校を受験といったことになりかねません。ただ,子ども達が高校を選ぶ基準は成績など限られたものしか無いのが実情です。私にしても塾の卒業生が通った高校については少し事情がわかりますが,案外高校について知らないことに気づかされます。高校について少しでも知るように心がけておく必要があるでしょう。 きちんと調べていませんが,ホームページのある高校もあるようです。 -------------------------------------------------------- |
前のページ 信天翁通信へ 次のページ |