ごあいさつ
通信Back number1997年4月~1998年3月
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1998年 3月 17日(火)No.112 子ども達はよく音楽を聞いています。ただし,学校の音楽ではありません。ヘッドホンステレオ,ポータブルCD・MDと持っている機械は様々ですが,機械の性能は昔よりよくて子ども達の音感やリズム感はとてもよく鍛えられていると思います。女の子など小さいころからピアノやエレクトーンを習っている子が多く,とてもよい耳をしています。おばさんは小学生の英語でテープを聞かせると耳の良さを感じるそうです。何度か子ども達とカラオケに行ったことがありますが,皆とても上手に歌い,私とおばさんは感心して聞いています。
こんな時代では,楽器にしろ歌にしろ音楽の先生より上手な子がいても不思議ではないのですから,先生はとても大変だと思います。私が子どものころだと先生がピアノを間違えたりしても,私などは全然わからなかったでしょうし何人の子が気がついたでしょうか。塾で数学を教えていて,自分よりもっと数学ができる子がいるのと同じ状態ですからやりにくいに違いありません。しかし一方では,点数の出るカラオケなど楽しそうに話すけれど歌のテストは嫌だという子がいるし,学校の音楽というとあまり喜ばない子も結構いるようです。学校の音楽と子ども達の聞くミュージックは別物なのかも知れません。
私が中学のころ,ビートルズのレコードを学校に持ってきていた同級生がいて,学校のレコードプレイヤー(子ども達はどんなものかわかるでしょうか?)を使って教室で聞いたことがあります。音楽の先生のクラス担任にそのことがばれて,クラス全員が音楽室に集められて怒られました。長い時間,実はそれ程でもなかったのかもしれないが,「ビートルズなんて音楽でない」なんて説教をされました。時代は変わりビートルズの曲が音楽の教科書に載っています。まあ35年以上もたちますから変わって当り前ですが,昔は子ども達が楽しんでいて先生に怒られた曲が教科書に採用される,子ども達は時代を先取りしていたということでしょうか。ひょっとして,今の子ども達が楽しんでいる曲もそうなるのでしょうか,歴史は繰り返すといいます。 ★今年の公立高校の入試について
ここ数年と変わらず,難関高といわれる高校の倍率の高いことが目立ちました。私立高校との併願が原因といわれ,私立人気の現われでしょうか。一方,入試問題のほうはどの教科も新傾向の問題が減りました。特にここ2年ほど平均点の低かった数学で目立ったようです。学区の再編などを含め,高校入試はまだまだ試行錯誤の時期がしばらく続くのでしょう。 -------------------------------------------------------- |
1998年 2月 16日(月)No.111 子ども達の会話の中にテレビ番組の話がよく出ます。レンタルビデオやテレビゲームが登場してテレビ番組をあまり見なくなったと新聞で読んだように思っていたのは記憶違いなのでしょうか。 仕事がら子ども達が見る時間帯は私は仕事中です。そのため子ども達の話を聞いても私にはよくわかりませんが,それぞれごひいきのタレントと番組があるようです。それと私にはとても意外に思えるのですが,みんなよくドラマを見ているようです。テレビドラマに対する私の評価が低いこともあると思いますが,私の子ども達はドラマなんか見ないのだろうという勝手な思い込みだったようです。
私が子どもの頃はテレビが娯楽の中心になってきた頃でしょう。今までに無い目新らしいもので私も夢中になって見たものです。しかし今は昔と違い色々な楽しいものが子ども達のまわりにあるのではないでしょうか。それにもかかわらずテレビが子ども達の話題になるということは,多様化の時代で好みも様々になったと言いながら,実は私の子どもの頃と大した違いが無いのかもしれません。
遠いエジプトの昔から「今どきの若い者は」という言い方がされてきたということですが,今どきの子どもも昔の子どももあまり変わっていないのかもしれません。何に夢中になるか,もっといいものがあるだろうにと,つい私は評価してしまいます。しかし年をとった私にはなれない「夢中になれる」ということは子ども達の特権なのでしょう。子ども達の年齢で夢中になるものがないほうが不思議ですし,問題なのかもしれません。夢中になり,冷めることもあればのめり込むこともあるでしょう。のめり込んで行くとそこから興味が広がり新しいことに関心がくこともあるでしょうし,冷めたら冷めたで違う世界に関心が移って行くのでしょうから,いずれにしても子ども達の世界が広くなり豊かになればいいことです。大人のようにわかったような顔をして世間を狭くすることは必要ないでしょう。 -------------------------------------------------------- |
1998年 1月 19日(月)No.110 「どうしてこんな勉強をするの。世の中で何かの役にたつの」よく子ども達から言われることです。「教養を身につけるため」「今は役にたたないように見えても後で役にたつ」いろんな答があり,それなりに一理はありますが,子ども達に対する説得力はあまりないようです。私も子ども達を納得させるようなこれといった答はありません。理科や数学のときは,「このくだらない勉強のおかげでテレビやゲーム機というものが作られたのだから」などと言うと「そうなの」とか言っていますが,「作る人だけが勉強すればいいのに」というあたりが本音だろうと思います。英語は「日本にいるのだから」と子ども達は言います。「身の回りにあふれているよ」とか「みんなの世代は外国に出ていく世代だよ」などと私達は言いますが,子ども達にとっては特に実感のあることではないようです。
社会科のとき,ある子から「大学でしてる様な歴史の細かい研究なんて何かの役にたつの」と聞かれました。「もし何の役にたたなくても,それで研究者が満足できるならそれだけでも役にたっていると思うよ」ととりあえず答えました。その後で「役にたつことだけをやり役にたたないことが禁じられた時代」があったことを思い出しました。学校に行っても勉強はなく,勤労動員として子ども達が働いた時代です。そんな時代の子ども達がはたして幸せだったのでしょうか。また,まったく無駄のない生活ということを考えてみるとどうでしょうか。私は息がつまるような気がします。無駄話もなく,笑うこともないような世界はたまりません。何の役にもたたない,無駄と思われることができるということはとても素晴しい時代だといえるのかもしれません。「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉があるくらいですから,必要な物だけで人は生きているのでしょうか。人は昔から「遊び」を生活の中に取り入れてきました。一見無駄なような遊びは,人が生きていく上でとても大切なものだからでしょう。何の役にたちそうもない勉強ですが,人間の幅を広げ大きくしてくれ物なのでしょう。多分,こんなことを子ども達に言ってもわかってくれないと思います。ひょっとしたら,子ども達はわかる必要もないことなのかもしれません。「なぜこんな勉強を」と思うことが本当は大切なので,自分には何が必要で何が大切なのか,疑問を感じることから学ぶことが多いのではないでしょうか。子ども達の疑問は,感じることの鈍くなってきている大人の私をはっとさせることもあります。色々な思いをもって成長して行く子ども達の疑問に少しでも私が答えられればいいと思っています。
★冬の講習が終わりました。3年生には長くて大変な講習(おじさんが大変だったという声もあります)だったようですが,皆きちんと出席しよく頑張ったと思います。学校が始まればすぐに学年末テストと何だか息つくいとまもないような忙しさです。しかもこれで終わりではあ -------------------------------------------------------- |
1997年 12月 18日(木)No.109 かっかとなり怒る,怒ったこちらは良く覚えていますが子ども達はまったくというくらい覚えていないようです。まして私が何を怒ったかにいたっては全然心に残っていないでしょう。そんなことは十分承知していますが,凡人の私はついつい怒ってしまいます。これも怒った次の曜日の子ども達との場面です。怒った内容について子ども達に伝えておきたいことがあり,「この間怒ったことだけど」と私が言いかけたところ,子ども達のほうは「何のこと?」と言った調子で何も覚えていないようでした。まあいつものことだしと思い,私が怒った場面の説明をしました。その時は雰囲気がしらっとしたものになりましたから,私としてはかなり強い調子で怒ったつもりでした。ところが「あれで怒ったの,あんなのは怒ったうちにはいらない,いつももっとひどく怒られている」と言われ絶句してしまいました。あまりに驚いたせいか,話そうと思っていたことまで忘れてしまいました。 一体いつもどんなふうに怒られているのでしょうか。そもそも,どんな場面で何をしたために怒られたのでしょうか。子ども達の口ぶりから感じられるのは,何度も何度も怒られているようで慣れているという雰囲気です。みんながそうなのか特定の子どもだけなのか,そのあたりはよくわかりません。しかし,怒るということは喜んだり悲しんだりと同じように人間の感情の現われです。そんな感情に慣れてしまうというのははたしていいことなのでしょうか。人がどうして嬉しいのだろうか悲しいのだろうか怒っているのだろうかといったことを子ども達が感じなくなるということではないでしょうか。人の感情にたいして無感動になるなんて寂しい状態ではありませんか。
私はいつも子ども達と接する時,できるだけ自分の感情に流されないように感情をむき出しにするのではなくできるだけ論理的にしようと心がけていますがなかなかそうもいきません。しかし,これからの世の中,特に世界が狭くなる時代にあっては,子ども達は自分の感情を上手に相手に伝えることが必要になるでしょう。大人である私達はつい相手が子ども達ということから,頭ごなしいどなったりということがありがちのようです。相手は子ども達です,そんなことのないよう,今まで以上に落ち着いて対応できるようにと思った次第です。 ・卒業生が勉強をするといって遊びに来ます。そんな子ども達の一人が「ひげの名言(迷言)集」というのを書いてくれました。以前書いた「同じことを同じように」もその一つで,これは何度も言ったなということから,そんなこと言ったのだろうかということまで書いてあります。またそれを読んだ現役の中学生が他にも書き加えてくれました。塾生のだれもが知っていることもあれば特定の塾生しかわからないものや,自分では気付いていない口癖などが書かれていて結構赤面ものです。でも,せっかく書いてくれたものですから折を見て通信に書いてご紹介しようと思っています。 -------------------------------------------------------- |
1997年 11月 25日(火)No.108 最近久しぶりに私の髭が子ども達の話題になりました。「高校に合格したら髭を剃ってくれる」と子ども,「○○高校に合格したらいいよ」と私が答えました。4年ほど前に剃ったことがありますから,今いる塾生で髭のない私を見たことのある子は三年生に数人いるだけでしょう。一度見て見たい,怖い物みたさの様なものでしょうか。
髭を剃るのが面倒でのばし始めた,たかが髭ですが,されど髭という気がします。髭をのばし始めたころ,九年ほど前は,今と違って珍しいこともあって,どこに行ってもじろじろと見られているように感じ,反対に私は他人の髭はとても気になるようになりました。色々な髭があり,きちんと手入れもしないといけないとか神経を使うようになりました。あまりわからないかもしれませんが,きっと昔よりお洒落になったと思います。人と同じではつまらないけれど,立派な髭やああなればという素敵なな髭もあります。また,髭をのばしてから人は特徴があり違うこと,様々な人がいることが当り前と強く思うようになりました。何か自分が少し変わったように思います。自分でハサミを使って髭を切りますが,なかなかうまくいきません。最近はいくらか上手になりましたが,手がつりそうになったり指を切ったり,それなりに手入れは大変な思いをすることもあります。しかし,髭は自分の特徴として意識し,また子ども達も認めていてくれていて,それなりにいいもんだと思っています。それに自分でさえ最近は髭のない顔を見ていませんから変に思うかもしれません。
子ども達が髪形にこだわるように,私は髭にこだわっているといえるし愛着もあるようです。なんだか髭を落とすのは痛ましいような気もしますが,ほっておいても自然にのびてくるものです。それにこの程度のことで,試験勉強の励みにでもなるのなら簡単で安い物です。春になれば毎年のように髭を落とすことになれば私も気分転換になっていいのかもしれません。何にせよ,髭を落とせるように高校に合格してちょうだいというのが私の気持ちです。 -------------------------------------------------------- |
1997年 10月 24日(金)No.107 この春の卒業生に「同じことを同じようにする」と何度も何度も言いました。今の塾生にも言いますが,受験のときにも頭からはなれなかったという子がいましたから,受験前に相当うるさく言ったのでしょう。同じようにする,簡単なようですが子ども達を見ていると,けっこう難しいことのようです。どの科目もそうですが,同じ単元の問題でも少しずつ出題の形式を変えてあります。早い話しが誤魔化そうとしているといっていいのでしょう。実は同じ単元の問題なら,よほどひねった問題を除くと,同じ方法を使えば解けるのです。ところが,子ども達は簡単に引っかかって知らない問題だと思い混乱してしまいます。体格がよくてもそこは子供です,問題を作るずるい大人になかなか太刀打ちできません。そこで私は,「よくわからなくても今までと同じようにともかくやってみること,同じことを同じようにやれ」と言います。勉強は原理原則を覚え利用することです。そこで原理原則ですが,これは同じことを同じようにするということです。使うことによってしっかりと覚え忘れません。また,違うように見えても同じ原理が働いていることに気がつくようになり,物を見る力がついてきます。でも子ども達は,「間違えたらどうするの」と私に聞いてきます。「間違えたら直せばいい,原則からはずれていればこれは例外だと気がつくから,それで一つ新しいことを覚えられる」と私は答えます。こんなとき子ども達の方が私より年寄りじみて見えます。間違えることなど気にせずどんどんやってみることから道がひろがるのではないでしょうか。自分の知っていることを使って,いえ知っていることしか使えません,同じようにやってこそ新しいことも覚えるものではないでしょうか。新しいこと見たことがないと思っても「同じことを同じように」やってほしいと思っています。
子ども達だけが違いや新しいことに目がいき同じところにはなかなか気がつかないということではないと思います。大人も同じで新しいことに目がいくのではないでしょうか。新しいことに臆病になってなかなか手が出せない,機械音痴などという人はそんな傾向があるのかもしれませんし,年をとるにつれてそうなるのかもしれません。しかし,若い子ども達が臆病になってしまうのは困ったことです。でもこれは勉強の面だけのようで生活のいろいろな場面では新しいことにいろいろと挑戦しているはずです。また,様々な新商品が出ます。ほんの少し変えただけとか,場合によっては名前が変わっただけみたいなものでも,新しいというだけで注目するのではないでしょうか。私などもそんなコマーシャルにつられて欲しくなったり,時には買ったりします。いいのか悪いのかは別にして,新しいことにどんどんチャレンジする気持ちだけはなくさないようにしたいと思っています。 ★一月ほど前,近所に貸ビデオ屋さんが開店しました。子ども達の間でも,会員になったとかなるとか,話題になりました。私も野次馬根性から,近くに行ったついでにその会員になってきました。カードばかりが増えてなどと思っていましたが,安く借りることができることに釣られて,大いに利用しているこの頃です。映画館にいく手間はなく,テレビのように時間を気にすることもなく,いつでもトイレタイムをとることができる気軽さと快適さにはまっています。最新作からけっこう旧作もあったりして,しばらくの間楽しめるようです。何でもやってみるということなのですが新作を見ておくと子ども達との話題について行けるところもあり,これもまあいいもんだと思っているのではまりつずけるのかもしれません。 -------------------------------------------------------- |
1997年 9月 20日(土)No.106 先日久しぶりに山小屋の御主人に会って様々なお話しをうかがってきました。山小屋の御主人と言っても大学や高校で教え,退職してからはカウンセリングの仕事をしておられる方です。お会いすればいつも良いお話しを聞かせていただきます。その中に「自分に◯」と「自分に×」というお話しがあります。たまたま,中間テストが終わった時期だったこともあって特に印象に残りました。私を含めて子ども達のまわりの大人は,成績が良いとか悪いとか,なかなかうるさいものがあります。まして,テストの後はいつもより何かとうるさいことでしょう。子ども達も「良かった」「悪かった」とか「あいつは頭が良い」といったことを話題にします。そんな子ども達の話題を聞いていて気になったのは,「良い」とか「悪い」は何か他と比べて決まります,一体その基準は何だろうかということです。
「良い」は「自分に◯」,「悪い」は「自分に×」と,考えると,子ども達は特に意識をしていないかもしれませんが,自分のある一面をどう評価しているかがわかります。子ども達は何を物差しにしてに自分に◯や×をつけているのでしょう。時としてその物差しが他人との位置関係であることがあります。他人と比べることで◯か×かが決まるため,良い点数を取っても×のことがあります。反対に悪いときに◯になったりします。そのせいか本人の自信にならないし実力も安定しないようです。他人とは違う自分です,自分なりに勉強をしそれなりの手応えがあれば自信になり実力として安定してきます。確かに人に負けないように努力をするのはいいのでしょうが,それは他人と比べることではないでしょう。人より良いから◯ではなく,昨日の自分より今日の自分が◯だから人より成績が良かったりするというのが本当でしょう。「みんなと比べて点数は悪いけど,自分としては良かった。」そう言って自分に◯の子は自信をつけていくのだと思います。
しかし,私自身もそうですが,自分の子どもが人よりも上位にいると何となく安心してしまいます。そんな気持ちは子ども達に伝わり,子ども達も親と同じように感じるのでしょう。親が人と比べて子どもに◯を出したりしているようではいけませんね。親が子ども達に◯を出してあげないと子ども達は「自分に◯」にはならないでしょう。人と比べていない「自分に◯」の子は元気があります。「自分に◯」を出して,元気に自信をもって何事にも興味をもってやるようになると本当の実力がついてくると思います。私も「塾生に◯」を出してみんなが元気に勉強できるようにしないといけませんね。 ★9月16日,中秋の名月しかも皆既月食が重なっていました。月食は夜中から明け方にかけてです。起きていられるだろうかなどと気にかけていましたが,台風のおかげでいらぬ心配となってしまいました。ここのところ札幌では月食の日はお天気が悪く満足に月がかけていくのを見ることがないようです。せっかくの天文ショーなのに残念でした。次の機会を楽しみにしましょう。 ★子ども達とつきあっていると,いらついたりかっとなったり,まあ子ども達とレベルを合わせ大人げないと言うことでしょうか。「◯◯の授業ね,全然わかんないし何も覚えてないの,いつも怒っててそれしか覚えてないの」と子ども達の声。子ども達からすれば何を怒られたかもわからないということでした。先生が怒ったことはよく覚えていますが,たいていの子ども達は何をそんなに起こっているのかがわからないことが多いようです。年齢が違い価値観も違う子ども達に自分の価値観を押し付けているということかもしれません。いずれにせよ,授業中に怒るなんてまったく意味はなさそうだし,それどころか血圧が上がり体にも良くないし,何もいいことはなさそうなので私も怒らないように心がけましょう。とは言うもののなかなかこれが難しいのです。 -------------------------------------------------------- |
1997年 8月 20日(水)No.105 「男子,三日会わざれば刮目して見るべし」という言葉を何かの本で読んだ記憶があります。男子というものは絶えず成長しているのだから,わずか三日間会わないだけでも注意してよく見ろといった意味でしょうか。成長するのは男子だけではありませんから「男子」の部分を「人間」と変えるほうがふさわしいのと,ここで言う成長は体格のことではなく人間的なことをさしています。二十歳前後で体格は出来上がりますが精神的なことはまだまだ成長を続けるでしょうし,良し悪しの程は別にして変化して行くことは間違いないでしょう。 私自身を考えると昔と比べ変ったとは思いますが,成長したかどうかは怪しいようです。だいたい私位の年齢よりも十代の子ども達にこそ「三日会わざれば刮目して見るべし」という言葉がふさわしいのではないでしょうか。ところが,子ども達を見ていると自分が成長し変化していくと思っていないように見えることが時々あります。多少の照隠しもあるでしょうが,「頭が悪い」だとか「どうせできない」といった言葉を時折使います。頭はこれから良くしていくものだと前向きに考え,自分は今もこれからもどんどん変化していくということに気がついてほしいと思う場面です。極端な言い方ですが,子どものころは「昨日と同じ自分などありえない」と言ってもいいと思います。 子ども達の変化には,日々目に見えて変わっていく変化と,ある日突然変わるという二種類の変化があります。背が伸びたり何となくお洒落になったりとか,外面的なことは目に見えるわかりやすい変化といえるでしょう。ところが勉強など外から見ることができない部分では,ある日突然できなかった計算ができるようになったり英語の文法がすっとわかったりすることがあります。塾だけでなく,学校や家でも勉強をしているのですから当然のことかもしれませんが,単に時間をかけたり,たくさん練習したといった量の問題とは異なる質的なものを感じます。目に見えない積み重ねとよく言います,確かにあるとは思いますが,単なる積み重ねではない何かがあって変わったと感じられます。物の見方とか考え方ということかもしれませんが,なんだかそんな言い方ではすべてを表せていないようです。私の目から見るとある日突然ですが,変わるべくして変わっているというのが本当なのかもしれません。まさに,「刮目して見るべし」なのです。しかし子ども達自身には変わったという自覚はないようで,そのため,なかなか子ども達に自信がつかないということが残念でなりません。いずれにせよ,子ども達はどんどん変わっていくのだし,いくらか私が良い手助けができればいいと思っています。 こうした子どもの変化の原因がはっきりとわかると授業の進め方や説明の仕方に役立てることができるのですが,子ども達を見ていると変わり方が皆それぞれ違うようなのです。結局は一人一人の様子を見ながら,私自身がやり方を変えながら進めるしかないのでしょう。 ★毎年のことですが,やはり長い講習です。こんなに宿題を出した講習は初めてでした。皆よくやってきたしそれなりの効果はあったようで特に覚えることの多い理科や社会は成果があると感じました。
宿題の出し方など反省点もありましたが次に生かすことができそうです。また,初めてといえば小学生の理科と社会をやり,思っても見なかった内容に驚いたり感心したり,子ども達より私のほうがよほど勉強になったかもしれてません。やはり新しい試みは,やらないといけないようですね。 -------------------------------------------------------- |
1997年 7月 19日(月)No.104 毎週のように高1の連中が勉強をしに(ほんの少しするだけで後は遊んでいる)来ています。彼等の会話に「うちの高校」という言葉が何度か出てきます。「自分が所属している」高校という意味で使っているのでしょう。小学生や中学生だって「うちのクラス」「うちの学校」と同じ様なことを普通に言っています。私の息子も進学するたびに「うちの高校」「うちの大学」と言っています。それどころか大人も「うちの会社」なんて言っているのではないでしょうか。それくらい「うちの○○」はごく普通に使われる言い方なのでしょう。ところで,私は「うちの○○」が何故か気に入りません。理由は,今も考えているのですが,よくわかりません。多分,固有名詞があるのだから名前を言ったほうが良いと思っていることがあるようです。また「うちの○○」は自分の所属するところを表わしますから,裏返して見れば相手に対して「あんたは違う」と言っているようなものではないでしょうか。「違う」,つまり,何か相手を拒絶しているような感じがして嫌なようです。こんなことを感じる人はあまりいないようで,単に私の考えすぎということなのかもしれません。そもそも,人は必ずどこかに所属して生きています。一番は家族でしょう,そして社会の何かの組織に所属します。しかし所属が違うからと拒絶することは何か変ですね。ところが,子ども達の様子を見ていると所属が違うことは,人とつきあう上でかなり重要な要素として働いているように見えます。クラス・部活・学校,はては塾でのクラスの違いに至るまで無関係ではないようです。実際のところ子ども達が相手を拒絶しているわけではないのだから私が気にするのはおかしいのでしょう。あと理由として考えられるのは,私は大学を出て働いた世界が,いろいろ派閥のあるところで,どこに所属するかとか,肩書きがどうなっているかとか面倒なところだったせいではないかということです。特に肩書きによって付き合いが変わるといってもいいようなところで,よく,肩書きなしでもまわりの人達は同じように付き合ってくれるのだろうかと思ったものです。人と一対一で付き合うとき所属なんて関係ないことなんだからと,その昔,若かりしころに思ったことがそのまま残っているのでしょう。高校生達がそんなことを気にして話している訳はありません。しかし,子ども達を見ると,所属を気にすることで世間を狭めているように感じることがあります。これからどんどん世界が広がる子ども達です。できるだけ広い世界を感じて欲しいという私の思いということで気になっているのかもしれません。 ★期末テストが終わり子ども達から点数やを聞いています。どの中学もテストが難しかったという印象を受けました。そのため子ども達は点数が低くてがっかりしているようでしたが,を見てほっとした子が多いようでした。特に英語や数学がいつもに比べ平均点が低く,ひょっとしたら新学力観とかが関係しているのだろうかなどと思ったりしています。また,1年生の英語は教科書が変わったことも影響しているのかもしれません。今後の様子を見ないとはっきりとわかりませんが,テストの問題が難しくなってきているのかもしれません。 -------------------------------------------------------- |
1997年 6月 18日(水)No.103 定期テストが近づくと,プリントを使って復習をします。科目とプリントをする順番を指定し,後は自由にやらせます。子ども達の様子が様々に違ってくるのは出来ない所にさしかかったときです。人の不幸を喜んではいけませんが,子ども達の様子を見ているのもなかなか面白いものです。実は立ち往生する場面こそ大切だと私は思っています。子ども達がどうしようとするのか,それに対して私がどう対応するかがポイントです。テストのときはだれも手助けしてくれないのですから,基本的には子ども達が自力で解決するのがベストです。
さて,子ども達の様子はどうかというと,さっと飛ばして次に移る子『後でどうするのかな,ほったらかしにするなよ』,ワークを引っぱり出して調べている子『調べるのはいいことだけど,その前に何も思わなかったんだろうか,何か思えよ』,「うんうん」うなってこそいませんが何か思い出そうとしている子『時間もないしさっさとあきらめて調べろよ』,ぼーっとしてるように見える子『調べるとか何かすることあるだろうに』,おしゃべりを始める子『うるさいなこのやろうしゃべるな』など様々です。なお『』の中は私が腹の中でぶつぶつ言っていることです。若い頃に比べると忍耐強くなりました,とはいえ時にそのまま声に出していることもあります。神や仏ではあらぬ身であり,何かと子ども達に文句を言いたくなる私です。妙にプライドの高いところのある私でして(単なる「お山の大将」という言い方もある)自分の方法が勉強するには一番良い手順だし最良のものと思っているところがあります。ですからそれからはずれているとすぐ「ああしろ,こうしろ」と文句が言いたくなります。しかし,誰にでも合う最高のものなんてあるはずがありません。自分なりの方法を見つけるしかないのです。子ども達なりに見つけようとしているところに私が文句を言うのは筋違いというものでしょう。目的は,解けなかった問題が解けるように,また同じ失敗を繰り返さないということです。もし私の文句が何かのヒントになり,役に立つかもしれないと子ども達が思えば,子ども達は私に耳を傾けてくれるでしょう。子ども達も私を見ています。何が大切でどうすればいいのか子ども達なりに考えて私と接しているはずです。わたしもぶつぶつ言っていないで何が必要なのか子ども達に負けないよう考えなければなりません。
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1997年 5月 19日(月)No.102 今年のゴールデンウィークは出かけたりもしましたが,何といってもパソコンに懸けた時間が一番長かったでしょう。今も画面をにらんでいますが,その後遺症か眼が何だかおかしな感じです。早い話が子ども達のゲームのやりすぎと同じ症状でしょう。私は兄弟でただ一人メガネのお世話にならず,眼だけは良く視力は数年前でも2でした。パソコンで眼が疲れていることもあるのでしょうが,自分では認めたくありませんが,どうも老眼がかかってきているのかもと心配しています。サングラスとなるとおしゃれかもしれませんが,老メガネは今一よくありません。しかし,字を読むために苦労したところで何もいいことはないし,そんな苦労もしたくはありませんから,必要に応じて老メガネを使うことになるのでしょう。しかし,子ども達はそんな面倒は苦にならないようで,目を細めたり隣の子の書いたのを見たりと,たいそう努力を重ねています。メガネさえかければそんなことから解放されて楽でいいと思うのですが子ども達は労は惜しみません。ラーメンを食べるときにメガネが曇るというのはたしかに不便ですが見ることが楽になることを思えばそんなことは些細なことではないでしょうか。まあ,ラーメンはともかく,メガネの容貌が気になる年齢ということでしょうか。一時,マイナスイメージをプラスにかえようとしておしゃれなメガネなんて宣伝をやっていたと思うのですが,うまくいかなかったようですね。私の母親は強度の近視で,メガネを見慣れて育ったせいかメガネがあまり気になりません。それどころか母親とメガネが結びついて母親の特徴のように思っているせいか,どうしてメガネが嫌がられるのか私にはよくわかりません。今は昔と違って様々なメガネが売られていますから,自分によくあった個性的なメガネをしているのもまたいいものではないでしょうか。私は髭をのばすようになってから,外見には違いありませんが,自分の特徴を売るのはいいことだと思うようになりました。自分に備わったものは近視でも何でも,みんな良い意味に解釈して使わない手はないはずです。 字を見たり読んだりに神経を使うより,どんなメガネが自分に似合うかと考える方がよほど楽しいと思いませんかどんなものでしょう。根気よく探せば,きっと気にいった物があるんじゃないかと私は思います。しかし,母は娘がメガネが必要になることは心配していましたから,母はメガネが嫌なのかもしれません。まあ,そんなときはコンタクトという手もあるようです。たかが字を見るなんてつまらないことに努力しないですむに越したことはありません。ちょっと気になるのは,私の父はメガネをしょっちゅう探していました。それを思いだすと。いつもかけていてよい近視のメガネと違い老眼鏡はきっと面倒でしょうね。できれば使わないで済ませたいものです。 ★四十肩でしょうかそれとも五十肩でしょうか,そのうえ運動不足ときます。痛いと言って良くなるわけでなし,揉んでもらっても一時しのぎです。根本的な対策と思いストレッチの本を買いました。筋肉を延ばしリラックスさせるということです。お世辞にも熱心にやってはいませんが効果的にやるには,何となく図を見て同じ姿勢をとるというのではなく,今どの筋肉を延ばしているのか意識してやればいいそうです。遊びでなければ,勉強でも何でも目的意識をしっかり持ってやることが大切なことはあたりまえです。しかし,毎回同じことを繰り返して慣れてくると目的なんてことは忘れてしまいそうです。私などが典型かもしれません。4年ごとに教科書が変わり,今年がその年ですが内容は大きく変わらず,毎年同じことの繰り返しと言ってもいいでしょう。私がしっかりと目的意識を持たないことには子ども達のほうもぼんやりしてしまいます。そんなことのないように気を引き締めてと思うこのごろです。 -------------------------------------------------------- |
1997年 4月 21日(月)No.101 ★受験が終わって一段落,また新しい1年の始まりです。私やおばさんにとっては「また新しい」ですが,子ども達にとっては初めての学年であり今まで経験したことのない本当に新しい年の始まりです。中学校・新学年に限らず,宿泊や修学旅行,当然高校入試も生まれて初めてのことです。楽しみなような不安なような,ある意味では一番楽しい時期かもしれません。そのせいか毎年のことですが,子ども達は何となく気持ちが高ぶっているいるように見えます。自分では気付いていないようですが,お兄ちゃんやお姉ちゃんがいて色々と情報通の子どもや,いつもしらけた感じのする子どもでも興奮し緊張しています。春という始まりの季節は,やはり独特の雰囲気があります。 今のところ,どの学年も新しい先生の話題がよく出ています。早々と先生に対する評価が行われています。なかなか子ども達の評価は厳しいものがあります。家庭でもよく聞いてみてください,子ども達の観察眼はなかなかのもです。また,大人と見ている所が違ったりして面白いものです。私が中学生のころと今の子ども達でも人気のある先生のタイプは同じように思いますが,お父さんやお母さんとではどうでしょうか。子ども達みんなが,良いと思える先生と出会えればこんな良いことはないのですが。それと何といっても中3の話題は修学旅行です。すでに学校でもいろいろと説明が行われているようで,小遣いの額や,どうやって小遣いを残すかなどが話題になっています。他の中学と何かと比べては,うらやましがったり自慢しあったりしています。旅行に出かける前の楽しみは昔と同じようで,関係ないよなんて顔をした子どもも色々と気になるようです。 先生のこと修学旅行のこと,この時期に毎年毎年繰り返される風景ですが,何とも微笑ましいものがあって見飽きるということもありません。私も「今の子どもは」などという年齢になり,私の子ども時代とずいぶん違うと思ったりしますが,子どもは子どもで変わらないことも多いようです。子どもが変わったというよりは,世の中や子どもを取り巻く環境が変わり子ども達の対応の仕方が違ってきただけなのでしょう。楽しいことが一杯の中学生活や修学旅行になればうれしいですね。毎年同じようなスケジュールを過ごす私ですが,子ども達の顔触れと個性は違います。何度も何度も春を迎えた私でも,毎年変わる子ども達のおかげでまったく新しい年を始めることができるようです。今年も子ども達と一緒に楽しく,腹を立てたり文句を言うこともあるのでしょうが,勉強できればと思っています。 ◆お休みのお知らせ◆ 4月27日~5月5日…新学年で,特に環境が大きく変わった中1は疲れるころです。たまったストレスを解消しリフレッシュしてください。私は,休みの間,ひょっとしたらかえってストレスが溜まるかもしれないのですが,仕事を離れてパソコンで色々と遊びたいと計画しています。子ども達がゲームをするのと変わりませんね。
◆今年の1年生は女の子ばかりで元気いっぱいという感じです。私はこの頃どうも女の子のほうが元気がいいように思います。元気というのは自分を発揮しているという意味です。何しろ今年の卒業生は女の子が一人きりでしたが他の男の子達に負けないくらいでした。男の子も女の子に負けないくらい元気を出してほしいと,同性として思っています。男の子の元気のないのは,ひょっとしてテレビのコマーシャルのせいだろうかと私は疑っています。缶コーヒーなんか飲んでホットしているサラリーマンを見ていて元気がなくなっているのだろうかと,つい思ってしまうのです。缶コーヒーなんてあんまりにも安っぽくありませんか,百十円です,男の値うちも下がったもんだと感じるのは私だけでしょうか。とにかく女の子に負けないくらい男の子も元気よく自分を発揮してほしいと思っています。まあ,男の値うちなんてことを言う私は,単に歳を取っただけということかもしれません。 ところで,塾にかよって来ている男の子は皆元気ですからご安心ください。 -------------------------------------------------------- |
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