ごあいさつ

通信Back number1996年4月~1997年3月

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1997年3月17日 No.100

 間違えると私に「すいません」などと謝る子がいます。そんな時つい「謝って済んだら警察いらん」,最近は「拓銀行って黙って金持ってくる」などと悪たれをついています。どうして間違えたからといって謝るのか私には不思議でしかたありません。その間違いから何か一大事が起こるとか,誰かに迷惑をかけるというわけでありません。私の手を煩わせたと思うのならお門違いだと思います。間違えるから塾にきているのです,間違いをなおしたりヒントを与えるのが私の仕事なのです,謝る必要はまったくありません。もしも謝る必要があるとするなら,子どもよりも私の方かもしれません。子ども達に十分に納得がいく説明ができなかったから間違えたのかもしれません。そもそも,謝るということは自分の過失を認めることであり,何かの時には責任をとらないといけないのです。だいたい,学校の勉強の間違いなど×がついて点数が引かれることで本人の責任は終わりです。その後どう間違えたかを確認し次に生かすことが大切なのです。謝るよりも間違いを大切にして教訓にしてほしいと思います。

 しかし,なぜ子ども達は謝るのでしょうか。間違いを恐れずに私は想像します。子ども達の謝り方から感じるのは,特に責任を感じて謝るというより,何となく口癖のようになっている感じです。軽い気持ちで言っているということは,普段から間違えると謝っているということで,間違えると怒られているのだろうか。もっと詮索すると,どこをどんな風に間違えたのか確かめないで謝ったら終わりで,ただ通り過ぎてしまっているのだろうか。ひょっとして「すいません」と言うことは子ども達にとって安易な逃げの言葉なんだろうかなどと私は疑い深くなります。もし私の想像が正しいのなら,子ども達に「すいません」などと言わせないでおこうと,私は意地悪く考えます。そして「謝って済んだら」などと言って少し子ども達を困らせてやろうなどとよからぬことをします。「ごめん」の後の子ども達の困ったような顔をながめるのも結構おもしろいものですよ。

 

 間違いを指摘されたときは,その原因を探してほしいものです。自分の間違いを見つけるというのは以外と難しいものです。他人の欠点や間違いはすぐ見つけることができるのに,人間は自分にはどうしても甘くなるようです。しかし,テストなどの時に間違いを指摘してくれる人はいません,自分でチェックするしかありません。自分のこともしっかり見ることができるように普段から練習するしか方法はありません。くどくなりますが,間違いを大切にして次のステップにする気持ちを持ってほしいと思います。

何となく思いつくことを書き,ダメならいいやと思って通信を始めましたが,記念すべき百号になりました。よく続いたな…月謝袋に入れるというのが効果的でしたね,目の前に人参をぶら下げて走るようなものでしょう。相変わらず内容には苦しみますが,書くことは以前より面白味を感じるようになりました。頭の中もいくらか整理されてボケ防止にもいいようですから,もう少し続けようと思っています。

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1997年2月16日(日)No.99

 「分かる」とか「理解する」ということがよく言われます。子ども達の勉強では「問題が解けること」イコール「理解している」ということのようです。しかし,本当でしょうか私はかなり疑わしいことだと思っています。私は高校入試や大学入試を通過してきましたが,今から思うと,あんなに何も分からないでよく問題を解いてきたなあと感心してしまいます。たとえば小学校のところですと,分数のわり算はなぜ分母分子をひっくり返してかけ算にできるのでしょうか。当たり前のようにしていることですが,子ども達が理解できるように説明するのはそう簡単ではないでしょう。実は理解なんかしていなくとも何とか問題が解けさえすればいいのです。極端な言い方をすると,ともかく解いて丸がもらえればいいのかもしれません。

 

 確かに,子ども達には「理解」できないことは大変困ることでしょう。しかし,何もかも分からないとできないということはないはずです。分からなくても自分の知っていることを使って,色々と試しているうちにうまく行くというのはよくあることではないでしょうか。反対に何もかも分かってからやろうなどと思うと何もできなくなってしまいます。「こんな感じかな」と手探りしながらというのが本当ではないでしょうか。ところが何故か勉強だけはいろいろと試してみることよりも「理解する」事の方が大切なようです。子ども達はよくいいます。「分からないからできない」。どうしてそんなに完全でないといけないのでしょうか。そのため子ども達は金縛りにあったように何もしなくなっているようです。分かるためには色々なことをしてみる必要があります。失敗したらやり直せばいいのです,自分の知識を総動員し,時には想像力も使ってこうだろうかとやっていくことが「理解」につながると思います。今はテストの時期です。全部分かることなど期待する方が間違いのように私は思います。知っていることを全部使って何とか答えを見つけるしかありません。そんなことの繰り返しが「分かる」ために大切なのではないでしょうか。

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1997年1月20日(月)No.98

 雪の少ないおだやかな年末年始でとても助かりました。雪かきのない冬の講習というのも珍しいことでした。天候ですから,人の思ったようにならないのが当たり前です。なにも天候に限らず思ったようにならないのが,普通の人間の生活ではないでしょうか。「予定は未定であって決定ではない」私の昔からの友達がよく言いました。いくら立派な計画や予定を立てたところで,その通りに事が進むという方が少ないでしょう。計画や予定というのは最終目標にいかに行き着くかという,道筋のアウトラインのようなものです。何か障害物があれば取り除いたり,それとも別の道を行ったりします。最終目標に到着するのにどちらがよりベターなのかを考える必要があるだけです。つまり,計画や予定などは変わることが前提にあるもので,途中で今まで気がつかなかったいい方法を見つけたならば計画などにこだわる必要は何もありませんから,計画などにこだわる必要はありませんから計画などどんどん変更すればよいのです。いつもそんな気持ちで私は予定を組みます。

 ところが子ども達はどうも予定にこだわるようです。「時間割と違う」とか「時間割通りにやったことがない」とかよく言います。まるで時間割を守ることがとても大切なように聞こえます。まるでどこかのお役人の言い方のようです。計画通りに実行することと最終目的に行き着くことは,必ずしもイコールではありません。自分一人で生きているのではありませんから,他人との関係から状況が変わったりします。また,天候によって左右されることもあるでしょう。周りの状態によっては,最初にベストと思われたことがあまりよくないということだって起きます。計画にこだわって目標を見失ってはどうしようもありません。よく「途中の経過が大切だ」と言います,これは計画を守ると言うことではなく,目標に向かって最適な方法を選ぶということだと思います。誤りに早く気づき修正していく力が必要だということです。方法や道が一つということはめったにありません。自分が判断を下し方法を選ぶ,もし失敗しても次にはその失敗が生かせると思います。計画通り決められたことを決められたようにするということは確かに楽なことに違いありませんし,失敗も少ないかもしれません。しかし,状況の変化や失敗に終わったとき動きがとれなくなるのではないでしょうか。また,様々な方法や時には抜け道だってあるかもしれません。広い視野から物事をみることができるようになれば素敵ではありませんか。景色だって広く見渡せる方がいいものです。細かい予定などあまり気にせず,目標に向かっているかどうかを心がけましょう。

◆講習が無事終わりほっとしています。講習は終わったけれど入試はこれからです。残りわずかな日数ですが,しっかりとやらねばと思います。しかし,インフルエンザがはやっています,体の調子には十分気をつけて心身ともにベストの状態で当日を迎えたいものです。

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1996年12月12日(木)No.97

 「楽しい授業」という本があります,内容も題の通りなかなか楽しい本です。その本の題名の通り子ども達と一緒に楽しく笑うことばかりだといいのですが,なかなかそうはいきません。かっかと怒ることもあります。いつもおおらかに広い心を持って子ども達に接するというのが理想かもしれませんが,神や仏ではないし悟りきった聖人君子でもない普通の人間の私にはとても難しいことです。実際,ほとんどの人が私と同じ様な普通の人間だと思っています。

 

 ところが大人というのは勝手なもので,子ども達には聖人君子になれということが時々あるようです。例えば,嫌いな先生とでも仲良くしろとか,クラスのみんなと仲良くしろとかいいます。理想論として正しいことだと思います。しかし,現実には相性のいい人がいれば悪い人もいます。自分と合わない人と仲良くとまでいかなくても,それなりのつきあいをすれば良いのではないでしょうか。合わない人がいるという事実を無視してみんなと仲良くなどと理想を言ってもしかたないのではないでしょうか。もし,みんなが仲良しという理想の社会なら失恋ということもなくなります。(文学作品は面白味がなくなるでしょう。)しかし,残念ながら自分がいくら好きになっても相手が自分を好いてくれるとは限りません。ですから私は無理してまで仲良くする必要はないと思っています。人とのつきあいは仲良くしなければ,けんか大好き人間は別にして,けんかとは限らないでしょう。自分が親しくつきあう人,それなりにつきあう人,場合によっては避けたい人など色々のつきあいかたがあると思います。大人に限らず子ども達だって同じはずです。

 私も年をとったという事かもしれませんが,現実と理想をはっきり区別するようになってきたと自分では感じています。事実として良くないものでも存在するものは存在します。どんなことでも,嫌いなものは嫌い,でもそんなことでけんかしたり怒っても何も自分にいいことはありません。それなりのつきあい方があるはずだと思い,うまい方法がないかと考えることにしています。これは本当をいうと単にずるいだけなのかもしれません。いや,ずるさも生きていくには必要なんだと居直ってもおります。

◆公立高校の入試の日程は右の表の通りです。勉強が大切なのと同じように体調を整えることも受験勉強の一部です。朝型の規則正しい生活週間を身につけるように今から練習して下さい。

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 1996年11月18日(月)No.96

 パフィ(カタカナでなくアルファベットだったかもしれない)という女の子2人組のグループが,子ども達の話題になったことがあります。「『アジアの純情』という曲を歌っているだろう」と私は知ったかぶりをして言いました。たまたま,私はパフィをテレビで見ていたのです。「違うよ,おじさん。『アジアの純真』だよ」と子ども達から訂正されました。さらに「『アジアの純情』だと演歌だよ」とのことでした。間違いを指摘されたのも癪ですが,『純情』がなぜ演歌なのか気になりました。『純情』を広辞苑でひくと「自然のままで飾り気のない人情。邪心のない一途な純愛。」例として『純情な乙女』や『純情可憐』となっています。『純真』をひくと「まじりけのないこと。邪念や私欲のないこと」『純真な気持ち』でした。似たような意味ですが,人情・一途な純愛とか純情可憐は確かに演歌系の雰囲気なのかもしれません。ということで,子ども達の指摘は当たっているのかもしれません。しかし,私がもっと感心したのは,『純情』という言葉から演歌を思い浮かべるということでした。また「書き言葉」と「話し言葉」といった言葉の分けかたならともかく,演歌系とか歌の世界で区別するということには驚かされます。歌が好きでよく知っている人ならば子ども達の感覚が当たり前なのかもしれませんが,私にはとても不思議なことに思えました。それと子ども達は演歌世代というものを感じているのかもしれません。カラオケの話がときどきでて「お父さんやお母さんは演歌しか歌わない(歌えないと言いたいのかもしれない)」といったことをよく話しています。演歌を歌う世代と自分達とは世界が違うんだという気持ちが子ども達にあるのかもしれません。しかし,演歌が昔からあるようにロックだって昔からあります。私の世代はビートルズエイジといわれ,中高校生の頃はグループサウンズが華やかな時代でした。私から見れば,曲が変わり歌手が変わっていますが夢中になったり熱くなったり,何にも昔と変わりません。ただ,レコードがCDに変わり値段も安くなって子ども達にはいい時代なのかもしれません。そして,彼らもあと二十年もすれば自分の言ったことがそのまま自分に返ってくることは予想できないでしょう。そこがまだまだ子どもなのでしょう。

◆今月読んだ本…果物の本を読みました。少し季節はずれですが,サクランボは氷水に浮かせて食べると酸味が抑えられておいしいそうです。おいしい果物の見分け方として,みかんは平べったくツル(木とつながっていた部分)があまり太くないのがよく,リンゴは尻の青いのはダメだそうです。それにしても,定期購読の雑誌がたまっていきます。それぐらい読まないということです。何とか“つんどく”の山を減らしたいものです。

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 1996年10月21日(月)No.95

 11月には期末テストがあります。中3になると毎月のようにテストが続き,子ども達にすればいい加減うんざりというところでしょうか。塾でもテスト勉強が続きます,子ども達が英語の問題を解いている様子を見ておばさんがこう言います,「知っている単語を探さないと問題は解けないのに,わからない単語ばかり探している。」言われてみるとおばさんの言うとおりです。どの科目でもわからないことを探しているようですが,特に苦手としている科目で目立ちます。「こんなことは覚えていない」「これは知らない」こんな事柄をたくさん集めても問題を解く力にはなりません。テストとは知っていることを使って何とかしていくしかないのです。例えば,英語なら「手紙」という単語がわかったら,書いているのか読んでいるのかどちらかだろうと予想してもそんなにはずれないでしょう。三角形の面積を求める数学の問題なら「底辺×高さ÷2」を使えるだろうと思ってもほぼ間違うことはありません。でも,子ども達の多くは知っている単語より知らない単語が気になって仕方がないし,底辺の長さや高さより何か自分の知らない解き方が気になるようです。

 知らないことを集めてくると,わからない・解けないといった後ろ向きの発想につながっていくようです。実際に子ども達はすぐにあきらめてしまいます。子ども達に限らず,何かをするときはわかっていることから始めないと巧くいかないのが当たり前ではないでしょうか。例えばジグソーパズルを作る時,よくわからない絵柄から組み立て始めるでしょうか。周りのわかりやすいところからスタートする方がスムースにいきます。わかるところを埋めていくと残りは少なくなってだんだん全体がよく見えてわかるようになります。パズルだって勉強だって同じようなものです。知っていること・わかることを使う前向きな発想に変えると目の前が明るくなるのにと思って仕方ありません。

 子ども達が,知らないこと・わからないことばかり気にするのはなぜでしょうか。やはり,失敗を恐れるということが原因の一つと思います。ミスを犯さないようにするにはすべての点でチェックが必要です。これもよし,あれも大丈夫といった調子です。ジグソーパズルなら,はめてうまくいかなければ次のでやり直しといった気楽さがありますが,勉強にはそうした気楽さがないようです。自分の知識をフルに活用して間違える方が新しいこともよくわかるのです。間違えないことに汲々としていると周りが見えなくなって,できることまでできなくなります。

 勉強の失敗なんてたかがしれたものです。思いっきりよく自分の持てるものを発揮してほしいものです。

◆血圧が少し高いせいでしょうか,それともカルシュウムガ足りないのでしょうか,この頃怒りっぽくなっています。子ども達はどんな風に受け取めているでしょうか。自分のことは案外気がつかないことが多いので,こうした自覚症状があるということはかなり重症ではないかと気になったりします。単に年のせいなのか,あるいは,私にも人並みにストレスがあってそのせいなのでしょうか。自分のしたいことができない,思うようにならないことなど誰にでもあることです。だからといってイライラしているようでは子どもっぽいですね。子どもと同じ目線でなどとよくいいますがこんなところを子どもと合わせてはいけませんね。私ももう少し大人にならないといけないですね。

◆今月読んだ本…これもストレスの原因だろうか?「酒つれづれ」は何とか読み終えました。お酒にまつわるエッセイで読んでいるときはおもしろかったのですが,中身は覚えていません。その他「新編折々の歌」を気の向いた時にパラパラと眼をとおします。昔はあまり好きになれない詩の本でしたが,解説がついてあることもあって気楽に読んでいます。

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1996年9月24日(月)No.94

 「五輪選手は目が命」・「一流ほど高い能力」その他に「瞬時の見極め,選手鍛錬」などもあります。今年の7月9日付けの朝日新聞の見出しです。スポーツの一流選手は眼が良いし,眼は一流になれるかどうかの大きな鍵だとまで書いてあります。眼が良いといっても学校の視力検査とは調べることが全く違い,動いている物を見たりする能力の検査が中心のようです。一定水準以上の選手でそうした能力を調べたところ,レベルの高い選手ほど眼が良く,そして鍛錬して眼が良くなるにつれて選手のレベルも向上したそうです。でも,中学生ぐらいではそういった関係はなかったとのことでした。

 

 スポーツとは関係がないのに,私は子ども達の学習の様子を見ていると確かに眼の良し悪しがあるのじゃないだろうかと思ってしまいます。これも学校の視力検査とは違って,例えば,短い時間でたくさんの字を読みとるといったようなことです。スポーツ選手の検査の中にも六桁の数字を十分の一秒間見て何桁まで読み取れるかというものがあるそうです。試験とは限られた時間の中ですることですから,早く読みとる力が必要なことは当然のことかもしれません。また,似たような文や字をきちんと見分ける力が要求されます。「選べ」「すべて選べ」の違い,「正しいもの」「誤っているもの」の違いなどです。読んだり見たりすることに時間がかかったり苦労をしているようなことでは,肝心の問題を解くときには疲れ切っているのではないだろうかという子もいます。スポーツ選手は動くものに対して,子ども達は活字に対する視力といえるのかもしれません。勉強にも「眼が命」と言えるのではないかと私は思っています。いずれにせよ鍛錬で良くなるのかもしれませんから,しっかりと子ども達を鍛えることにしなければならないでしょう。

◆自転車のライトは必ずつけて下さい◆

 自転車のライトは明るくするということよりも,自動車から見て目立つようにという役割が大きい物です。自分の存在を早く相手に伝え身を守るため,必ずライトをつけて下さい。また,万が一の事故が起きたとき無灯火は過失とみなされ賠償などの点で不利になるそうです,気をつけて下さい。

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1996年8月26日(月)No.93

 「おじさんが作った問題だからこんな簡単なはずがない」なんだか私はずいぶん意地が悪く聞こえるではありませんか。そんな意地悪なんてことはありません,とっても親切です。といっても子ども達に話しかけるときは,何とか子ども達の意表を突こうといつも考えます。ですから子ども達からみると意地が悪いというのが正しいのかもしれません。簡単なことをいかにも難しそうに子ども達に質問をします。なかなか答えが出ないので,私が正解を言ってしまうと子ども達から「なあんだ,そんなのでいいの」などと返ってきます。反対に簡単そうに見えながら実は難しいといった質問もします。子ども達からたくさん声がありますが正しいものがでません。そんなときは「ひっかけだあ!」と声があがります。こんなことを繰り返していると子ども達はだんだんと私の質問などに対して用心深くなってくるのも仕方がないのかもしません。時には私の目的が読まれてしまって子ども達から「やっぱりね」などとすっかりやられてしまうこともあります。やられたときは残念というより,ちゃんと私の意図をきちんと読んだのですから「なかなかやるんでしょう」と感心しています。

 つきあいが長くなれば,当然私の好みや癖を子ども達はわかってきます。意外なほど細かく観察していることがあって驚かされます。なかには,私の顔つきや話し方の変化から,正解かどうかを予測するという子もいます。私は子ども達にばれないようにとポーカーフェイスを心がけることになります。こうなるとなんだか狐と狸のばかしあいみたいですが,いかにうまくできるか,子ども達とのやりとりでは楽しい場面なのです。裏を読むというとあまりいい意味で使わないのかもしれません。しかし,相手の意図を正確に読みとるということは実際の場面では必要なことではないでしょうか。私の場合は私の意図を子ども達から隠そうとするのですが,普通の会話は相手に自分の気持ちを伝えるのが目的です。ところが,なかなか相手に気持ちを伝えるというのは難し面があります。例えば,私が子ども達の気持ちを言葉から理解するためには,やはり何を言おうとしているのかを考えなければなりません。コンピューターは相手の言いたいことなど考えずに言葉通りにしか解釈しませんが,人間は足りない言葉や意味を相手の立場に立って考えることができます。人とつきあっていく上で相手の意図を正確に判断するということはとても大切なことではないでしょうか。蛇足ながら,テスト問題の出題者の求めている答えを正確に見つけるのがもっと上手だといいのに,そのためには私がもっと工夫しなければいけないということでしょう。

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1996年7月18日(木)No.92

 「できました」と子ども達が言うことがあります。真面目に言っている時もあれば多少ふざけた調子で言っている時もあります。ふざけた調子で言う子は,「できました」を聞くと私のリズムがどことなく狂うのに気がついているようです。「できた」とか「できたよ」と言われると,問題が解けたんだと自然な感じで私に伝わり,さあチェックしようという体勢にうつれます。しかし「できました」の時は,私は何となく誰か他の人に言っているのかなと横を見てしまうような感じになり,タイミングがずれた妙な気持ちになります。そんな私の様子がわかっていて子ども達は言うのですから,なかなか好いタイミングを選んでいます。できるだけ私がずっこけるだろうというタイミングをはかっていて,私も何も言えなくなってしまいます。しかし,私の方も慣れてくると声で誰が言ったかわかりますから,そうそう子ども達にやられてばかりではありません。ずっこけずにうまくやったなと私が思っていると,とても好いタイミングにいつも真面目に言う子が「できました」と真面目に言います。私の方は無警戒な状態ですから,本当に調子がはずれてしまいます。ふざけて言う子であれば私も強い調子で対応することもできますが,真面目に言われたのでは何とも言いようがありません。計画的にやっているのではないのですが子ども達の連携プレイのように見事なところがあります。

 

 子ども達が私に丁寧な言葉を使うのは電話の時です。調子の狂うという点では「できました」以上かもしれません。塾で私と話すときと様子が違って「です」「ます」が多くなるからです。子どものほうが緊張していたり話しにくそうにしているのが電話を通してわかり,何だか私はおかしくなって笑いそうになることもあります。親の目から見ると,他人ときちんと話せるのだろうかということが気にかかります。私も自分の子どもが電話で話しているととても気になります,当り前のことに違いありません。しかし,他人とどんな調子で話すかは相手と自分との距離感を表わしているのだと思います。私は子ども達との距離感が近いほうがいいと思っていますが,子ども達の方がどうかはわかりません。私と同じように近くがいいという子がいれば,敬して近づかずという子もいるでしょう。色々な思いの子ども達がいて当然だと思います。そんな色々な子ども達が,塾の中で居場所を見つけてくれればうれしいことだと思っています。

・今月読んだ本…何か読んだんだろうか,忙しいを理由にして読まなくなっています。でも,岩波ジュニア新書「論理的に考えること」が読みさしのはずです。”推理とは”などと説明があるのは推理小説の推理かなどと納得したようです。しかし”推論”となると読んでいる時はなるほどと思いますが,すぐに忘れてわからない状態です。でも何となく面白いので,最後まで読んでみたいと思っています。しかし今のところ何度も中断するような調子で悪戦苦闘中です。

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1996年6月24日(月)No.91

 「だれなの」とよく子ども達が私に尋ねます。私は「名前を知りたかったら,探偵の勉強をしたらいいよ」,「将来刑事志望なのかな」と言ったりしています。また「どうして名前が知りたいのだろう」といつも不思議に感じます。塾には学校も学年も違う子ども達が来ています。名前を聞いたところで,もしも私が「○○だよ」と名前を言っても,知らない人のことで子ども達には何もわからないはずです。実際,子ども達は知らない名前を聞くと性別・学校や学年などどんどん聞いてきます。ひととおり聞いて,全然知らない人だとわかったのか,聞くべき質問がすんだからなのか何もなかったかのように他の話題に移っていきます。ただそれだけなのです,それで私は面倒なこともあって「自分で捜査すれば」などと言ったりするのです。しかし,言われても言われても子ども達は名前を聞かずにいられないかのように「だれなの」と言います。

 

 色々なことに気がつく,他人のことに関心があるなど良いことなのかもしれません。しかし,やたらと人の名前を知りたがるのにはまいります。そんな様子を見ていると,人の名前を聞くのが習慣になっている様な気がします。人に対する関心や,特に意味があって聞いているようには見えません。また,どういう場面でよく聞かれるかというと,ホワイトボードやカレンダーの落書き,忘れ物,時には棚に置いていったごみなど様々ですが,他の子どもがどちらかというとあまり褒められない失敗など何かやったあとが残っている時が多いように思います。そんなこんなで私は彼等の口ぶりからどうも犯人探しのようでいやな感じがしてなりません。確かに薬害エイズなど責任の所在をはっきりさせないといけないものもありますが,子ども達のたいしたこともない失敗やいたずらなど誰がしたなど,どうでもいいと私は思っています。落書きや忘れ物から「誰」以外の楽しい話題が子ども達の間から出てくる様に私も上手にリード出来るようにならないといけないということでしょう。

・今月読んだ本…毎月とっている雑誌をはじめ,あまり読まなかったですね。読みもしない雑誌を買う,とっても無駄なんですが,いわゆるつん読だけでも気分が落ち着きます。少々かさばる精神安定剤みたいです。「斜影はるかな国」(逢坂剛著)というスペインを舞台にした長編のサスペンスは一気に読みました。あまり推理小説は読まないのですがこの人のは面白くて好きですね。

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1996年5月27日(月)No.90

 5年生の算数で,容積の説明をしているとき,実物で何かないかと思いついたのが五合升でした。農業試験場に勤めている私の友人の結婚式の引出物の一つとしてもらった物です。升には友人と奥さんの名前が書かれています。子供たちにとって升などという物も五合という量もどのくらいなのか見当がつきません。実物を見た子ども達は,一合升ならお酒を飲むものとして知っていました。ところで,その五合升には記念の品ですから結婚式の年月日が書かれていました。だれかが「何年前なの?」と言い,私が「15年前」と答えます。その子が「まだ生まれていない」と言います。5年生ですから誕生日が来て11歳です。私にしても15年というと人生の三分の一ですからずいぶん昔のことだと思います。しかし,子ども達からすると記憶がないどころか何もない,自分が生まれていないということは地球だってないという世界のことです。何もない世界というのはどんな世界なのでしょうか,真っ暗で何も見えないというのは恐ろしい感じがします。光のない世界は子どもでなくとも怖いものがあるのではないでしょうか?底のわからない真っ暗な穴を覗いているような気がしてショックでした。そのあと,升はお酒を飲むだけでなくお米の量をはかったりするのに使うんだよなどと話しました。しかし,ボタンを押すだけで必要な量のお米が出てくる時代です,どこまでも私と子ども達の話は歯車がかみ合うはずもありません。「まだ生まれていない」何もない世界の話が子ども達にわからないのは当り前なのかもしれません。

 

 しかし,私と子ども達は同じ時代を生きています,同じ空気を呼吸しているのです。ところが私には子ども達の言っていることがわからないことがあります。「まだ生まれていない」時代ではなく今現在です。何となく愕然とさせられます。子どもならともかく大人である私がといった気持ちがどこかにあります。実は単に私の勉強不足なのかもしれませんが,ともかくショックでした。

  • 最近読んだ本

 年のせいか段々と本を読むのがおっくになってきています。ゴールデンウィークの帰省はフェリーの時間が60時間ほど,半分以上は寝ているのですが,することもなく時間だけはたっぷりとありました。フェリーの中でこそ本を読もうと持って入った本の半分も読めませんでした。一体何をしていたのでしょうか。それでも何とか読んだ本が森毅著「はみだし数学のすすめ- 人生,チャンスは二度ある」でした。数学者の書いた本ですが,数学のことは少なく,たまにあっても私にはよくわからないし面白くもないので読み飛ばします。面白かったのは数学の試験の受け方についてのことでした。

 だいたい試験に出る問題は完全に解き方がわかる問題なんてのは少なく,わからないなりに自分の知っていることを何とか使って解いていくことを考えたほうがよいということです。勉強嫌いの私には心強いことです。しかし,目の前の問題を前にして勉強なんてのんびりしたことは言っておれません。有り合わせで間に合わせるしかありません。でも,毎日の生活はこんなことがほとんどではないでしょうか。そこそこ何とかするのが処世術ではないでしょうか。

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1996年4月19日(金)No.89

新学年です。当然のように子ども達は張り切っています。1年生も2年生も興奮気味です。1年生は新しい環境になり,色々と報告することがたくさーんあるようで,話したいことがぱんぱんにふくらんだ子もいるようです。家庭ではいかがでしょうか,うるさいほどおしゃべりな子もいれば,ぼそぼそとしか話さない子もいると思いますが,よく聞いてあげてください。話をよく聞いてあげてほしい点では2年生も同じです。クラス替えがあり担任が替わり友達と違うクラスになったりと,子ども達にとっては大変な出来事です。先生達の評判など1年生と違ってよく知っていて楽しいことだけでなく不満も多くなっていると思います。その点から見ると1年生よりも話を聞いてほしいかもしれません。「ふーん,そうなの」ときいてあげるのが一番いいそうです。子ども達は自分の価値判断を持つ年頃ですから,いろいろと自分で考えたことを聞いてほしいようです。体が大きくなって生意気なことをしゃべるようでも,おかあさん達に話を聞いてほしいのは小さい頃と変わらないようです。3年生はクラス替えのないのが普通ですが,T中学ではクラスが変わり全体に落ちつきがないようです。しかし,1年生を除くと塾のメンバーはあまり変動がなく,子ども達はいつもの年より安定しているようです。興奮状態は少しづつおさまってきますが,その代わり疲れがたまってきます,特に1年生が大変なようで,塾の終わる7時半頃はぐったりする子が多くなります。相当なストレスのようですから,前にも書いたように子ども達の話をよく聞いてあげてください。快適で楽しい学校生活を送るためには体調と精神的な安定が必要だと思います。いい時期に連休がありますから,心身ともに十分にリフレッシュしてください。私たちもまた,連休を利用して里帰りをいたします。帰れば帰ったで何やかやと忙しいのですが,行き帰りのフェリーは退屈なくらい時間がありますからのんびりしてきたいと思っています。

★お願い・年間行事予定表について

 各学校とも年間行事予定表が配布される頃と思います。塾のスケジュールを立てようと思いますので,年間行事予定表を貸してください。よろしくお願いいたします。

★数学パズル 

 下の1から9までの数字の間の□に+か-を入れ,答えが1になるようにしてください。

   1□2□3□4□5□6□7□8□9=1

 ピーター・フランクルの数学パズル集からの抜粋です。適当にあてはめても正解にたどり着けるでしょう。しかし,+・-だけですから,数学より算数の世界といってよいでしょう。簡単な決まりがないか考えてみてください。

 ”勉強”という言葉を辞書でひいてみました。「学問や技術を学ぶこと」は当然ですが,他に「精を出してつとめること」「商品をやすく売ること」などと書いてあります。”努力”もひいてみると「目標実現のため,心身を労してつとめること」とありました。商品を安く売ってもらうのは好きですが,「精を出す」とか「心身を労し」などどうも好きになれません。しかし,遊ぶ時間を作ったり楽をするための努力は惜しまないようです。考えてみると洗濯機や掃除機などの家庭用品は人間が楽ができるようにと作られた物だと思います。楽をしようと努力した結果なのでしょう。ということは人間は努力をしないと楽ができないということになるのでしょうか。だとしたらなんとも皮肉なことですが,私も何とか楽をするため努力をしたいと思っています。

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