ごあいさつ

通信Back number2007年4月~2008年3月

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2008年3月31日(月) NO.232

★新学年になります。講習前に休みを取らせていただき,気持ちをリフレッシュしてこれからも子ども達とお付き合いをしていきたいと思っています。嫌な勉強ですが,子ども達も私達もできるだけ楽しくやっていければと思います。

★楽しくと言えば,やはり遊ぶことでしょうか?テレビゲームが全盛のようですが,子ども達は対戦相手が人であるトランプや盤ゲームでも楽しく遊んでいました。当たり前のことですが,勉強に比べればすべての遊びは楽しいでしょう。

★子ども達のゲームの進め方には個性が現れます。慎重に進める子,大胆に勝負をする子や「策士策に溺れる」というタイプの子など見ていると面白いものです。進め方もそうですが,ゲーム中の子ども同士のやり取りも,性格が現れます。特に人の良さは,特に目立ちます。

★他人に「こうしてくれ」などといわれると「嫌」とは言えないタイプの子です。 このタイプの子はなかなか勝てません。自分のペースがつかめません。相手の土俵で勝負をしていますから,勝つことは難しいものがあります。

★しかし,そんな人の良い子でも,「勝ちたい,一位になりたい」と大抵は思っています。そして,人のペースや言われた通りにやっていては勝てないことを学習し,鍛えられていくように思います。

★そして,一人よがりだったり押し付けがましかったりという子もいますが,ゲームを楽しんでいるうちにそうした点を修正していきます。

★ゲームや遊びの中で勝負をすることは,子ども達を鍛えるだけでなく,人間関係やルールといったことの大切さを子ども達が習得していく一番身近で簡単な方法かもしれません。

★色々な意味で「遊び」は必要です。車を安全に運転するために「ハンドルの遊び」とか「ブレーキの遊び」が必要などとよく言われます。なんだか塾で遊ぶことの言い訳のようですが,「遊び」があるほうが勉強の能率は上がると思います。しかし,厄介なことに,「ハンドルやブレーキの遊び」が大きすぎれば運転にとって危険になります。必要な「遊び」がどの程度なのか?車の技術者は適切な遊びになるように調整をします。

★そうです,塾ではそうそう遊んでばかりいられません。勉強をする時間を確保しなければなりません。適切な遊びにしなければなりません。

 

★そして,私はというと子ども達と駆け引きをしなければなりません。「できるだけ遊びは少なく」と考える私と「できるだけ多く」と考える子ども達との駆け引きです。子どもといえども,なかなかの駆け引き上手です。どうかすると私の方がやりこめられてしまいます。

★そもそも,適切な遊びがどの程度なのかをつかむことは,なかなか難しいものです。しかし,効率よく勉強するためには上手に遊びと付き合っていかなければならないでしょう。子ども達だって遊んでばかりではいけないことを百も承知なのですから。

★新しい学年になり,学年によっては新しいメンバーが加わりました。新しいメンバーを含め,どう勉強しどう遊ぶのかを工夫しなければなりません。

★子ども達は真新しい成績表に,これから一年間の成果を書き込んでいくことになります。テストの点数や通知箋の「5,4,3,2,1」に一喜一憂が始まります。本来は子ども達を長い眼で見る必要があると思います。しかし,試験や色々な尺度で子ども達は評価されていきます。子ども達の成績を気にする私ですが,自分で成績をつけるわけではありません。ですから,子ども達の成績がテストの点数とつりあわないなど,様々な疑問や不平が出てきます。塾に通ってくれ身近に接していますから,そんな思い入れもあるかとは思います。

 何とか良い成績をと思い,一問でも多く解けるようにと思いますが,思い入れが強すぎる,熱血漢になると裏目に出ることもよくあります。肩の力を抜き,沈着冷静でなければいけませんね。

 長いようですが,節目に試験があり,特に中3は忙しく,試験に追われるように感じます。最小の努力で最高の結果を,少しでも効率よく,上手に時間を使っていこうと思います。

★学校のワークを持たせてください…前にも書きましたが,ワークの提出があります。少しずつこなさなければ,結構大変です。塾でもやるようにしたいと考えています。ただし,学校に持っていくのを忘れないように,よく注意してください。つまり,カバンからの出し入れが必要です。

 

こんな細かいことを書くのはほんとに嫌な感じです。でも現実だから仕方がないのでしょう。

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2008年2月25日(月) NO.231

 私に「できること」もあれば「できないこと」もあります。同じように,子ども達にも「できること」や「できないこと」があります。何ができて,できないかは人それぞれに違います。「できないこと」を「できるようにする」のが,勉強や練習をする目的だと思っています。そして,勉強と練習の成果で,「できないこと」ができるようになります。めでたしめでたしのようですが,ここからが問題です。

 例えば,代表的なものとして分数の約分があります。必要な約分をしない子どもがあまりにも多いのです。私が「約分しないといけないよ」というと,すらすら約分をします。「できること」なのにやらないのです。「なぜ,約分をしないのだろうか?」私には謎なのです。

 なぜ子ども達は約分を必要だと思わないのだろうか?約分をしなかったせいで減点や×をもらったりした経験が無いのだろうかと思いました。しかし,どの先生も約分忘れは×か減点にしていて,子ども達が約分の必要性を知らないようでもありません。点数を取るために必要だとわかっていても約分をしない。私は約分をさせるために,どのような対策をすればよいのだろうか?このあたりで私の思考は止まってしまいます。

 約分とは異なりますが,「しかられないから,しても良い」ということを,子ども達から聞くことがあります。「しかられたらしない」ということです。これは「言われなければしない」または「言われたからする」と,表裏一体のことなのではないかと思います。つまり,「約分をしなさい」と書いてあれば約分をするけれど,書いてないからしないのだろうかと私は疑っています。本当は,「しかられないから,しても良い」と「書いてないから約分しない」は無関係なのかもしれません。しかし,自分が「何かをする」あるいは「しない」の基準が自分の外部にあるというところが共通していると思います。

 ルールや規則という言葉はあまり好きになれないのですが,「自分なりのルールや基準」はあってもいいのではないでしょうか?いつも外側にあるものを基準にして行動しているととても息苦しくなってくると思います。外側の基準ということは絶えず人の眼や評価を気にしなくてはならないということになると思います。

 他人の眼や評価をまったく気に掛けないのも良くない点があると思います。外出をしなくなると身なりや服装に関心がなくなります。それだけでとどまれば良いのですが,人との接触がなくなると,様々な興味や関心が失われていくと思います。それも困ったことです。その辺のバランスが問題になるのですが,どうもどちらかに偏ってしまいがちなところが気になります。私など,人の目を気にしないほうに偏りがち,いえ,人の意見を聞かない方に偏っているようで,気をつけなければなりません。しかし,バランスをとるというのは難しいことですね。

★公立高校の学力検査…私立の入試が終わり,公立高校の受検が近くなりました。第一志望とする子がほとんどですから,私立の時とは違った緊張感があるようです。「落ち着いて」とか「平常心で」など励ますことは簡単です。しかし,具体的にどうするかというアドバイスになると結構難しいものです。

 きちんとした食事と睡眠とは,十分にとること。「敵にカツ」などといって脂っこいものを食べたりしない。睡眠時間は十分にとり脳が十分に働く時間帯を考えて起床する。

 5分ほど静かにし,深呼吸をしてみる。気持ちが落ち着きます。いきなり深呼吸といわれても,その時に思いつきません。家で勉強をする前に深呼吸の練習をしてみたらどうでしょうか。

 勉強は基本的なことのおさらいをしておきましょう。特に,理科の実験・観察の見直しや社会の用語を確認すると良いかもしれません。

 思いつくことを書いてみました。ゆっくりと時間を過ごせればよいと思います。

★学年末テストが終わりました…みんな,よく勉強をしたと思います。そして,先週は1日をつぶして「モノポリー」という盤ゲームをして遊びました。今回は,私とおばさんは進行役を勤め,ゲームに参加しませんでしたが,次回には参加する予定です。「モノポリー」は人生ゲームを複雑にしたようなゲームです。勝つためには駆け引きと運とが必要で,大人も子どもも楽しめます。子ども達は,初めての子もいましたが,十分に楽しんだようです。そして,どのゲームもそうですが,ゲームには子ども達の性格が現れます。私達はゲームの進行をしながら子ども達を観察し楽しませてもらいました。

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2008年1月29日(火) No.230

 ーを専門とされていた,ある大学の先生からお聞きしたお話です。様々なお話を聞かせていただき,勉強させていただいた中の一つです。

 相談の内容は,「最近ぜんぜん勉強をしていないようです。以前は予習をしっかりやっていたので内容をよく理解していたようですが,このごろは勉強をサボっているようで分からなくなってしまったようです。」ざっとこんなことでした。どこにでもありそうな,ありふれた内容の相談事です。

 さて,この相談内容についてもう少し詳しく書くと,次のようになります。

 「最近,私の母はしっかりと予習をやっていないので,勉強内容がよく分からなくなったようです。そのため,私に勉強を教えられなくなってしまいました。私はとても困っています。何とか,母が以前のように勉強をするようにして下さい。」実は,高校生が,自分の母親について先生に相談していたのでした。こうなると何だかおかしい話になってきます。どこがおかしいのでしょうか?

    1 勉強をする主体は誰なのか,母それとも子どもなのか?

    2 勉強を進めるために何か問題があれば,それは誰が解決するべきなのか,母それとも子どもなのか? 

 ここでいう勉強は当然ながら学校の勉強です。ですから①の勉強の主体は子どもだと考えられます。しかし,相談の内容から,子どもは「母が勉強しなければならない」と考えていますから自分の問題と考えていないでしょう。

 2については,子ども自身が問題を抱えているケースと,周りに問題があるケースが考えられます。この相談では,本人に問題はなく周りである母親に問題があると子どもは考えていることになります。

 このあたりが,何だかおかしな相談だという原因ではないでしょうか。本来は子どもにとって学校の勉強は自分のことであるはずです。ところが,この相談ではそうした意識が子どもにはまったく感じられず,まるで他人事のようです。

 誰の問題であり,誰が解決するべきことなのか?親は子のために,そして,子どもを幸せにしたいという思いがあふれています。そうした思いから,母親は必死に勉強をし,子どもに教えてきたのでしょう。どこでどう間違ったか,母親の思いは子どもには伝わらなかったようで,こうした相談になってしまったのでしょう。

 「母親が気の毒」は,言うまでもありません。しかし,本来ならば子どもが自分で解決するべき問題を母親が解決しようとしたことが招いた結果でもあります。そして,この母親にとって一番気の毒なことは,我が子のことを「自分の力で勉強をやれる」と信じられなかったことだと私は思います。

 信用してもらえなかったこの子の将来がとても不安に思えます。母親に信頼されなかった自分に自信を持ち社会に出ていくことができるのでしょうか。

 親に信頼されることによって,その信頼に応えようと子どもは行動するのではないでしょうか?ここで,少し厄介なことは,気持ちと行動を上手に一致させることが難しいということでしょう。特に勉強などという面倒なことであれば,なかなか行動に移せません。親として信頼するといっても,神や仏ではない身です。いらいらとしてくるのも仕方がありません。しかし,親は子どもと違い,経験を積んだ大人です。忍の一字で我慢の時でしょうか。どこまで耐えればよいのか?実は私には分かりませんが,子育ては実は親が耐えるということなのかもしれません。子どもの人生です。親がしてやれることには限りがあります。

 いつの日か,子どもは自立し一人前の大人になっていきます。親として,子どもについて様々なことを心配する。これは当たり前のことです。しかし,何をすることが子どもにとって重要なことか,これはなかなか難しいことのようです。ただ一つ,親は最後まで,子どもを信頼してあげなければならないでしょう。親の信頼は,子どもにとっては大切な心の支えではないかと思います。

★忍の一字と書きました。ところで私は我慢ということが嫌いです。実際,子ども達と接していると忍というのはとても苦痛です。もし私が我慢をしているとき,子ども達は私を見て,私が我慢をしているとわかるのでしょうか?私のことについてはどうか分かりません。しかし,子ども達は「母さんが我慢している」ということは分かっていると思います。

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2007年12月24日(月) No.229

 12月は学校で三者懇談が行われます。そして塾でも懇談をしました。中学生のお母さんと懇談すると,必ず私が話題にすることの一つにワークや提出物のことがあります。相対評価の頃は試験の偏差値を見ると五段階評価が予想できました。しかし,絶対評価になり成績に占める試験のウェートが小さくなり,ワークやノート,プリントの類の提出物が成績を左右することが多くなりました。当然子ども達のほとんどが提出物に神経質になります。また,私も提出物を子ども達がどのように扱うかということに神経質にならざるを得ません。

 その一方,以前からワークやノートの提出はありましたが,何のために提出するか,私にはその目的がどうもよくわからないのです。提出物をチェックすることにより,教師は子ども達の何を把握しようとしているのでしょうか?

疑問に感じる一つは,ワークを子ども達に家庭学習としてやらせる目的は何か?おそらく学習内容を理解し問題が解けるようにすることだろうと思います。つまり,試験で良い点数を取れるようにするといって間違いではないでしょう。

 そして,もう一つはワークの評価の基準がどのようなところにあるのでしょうか?まず手付かずの状態で出せば,間違いなく評価は低いでしょう。答えを書く,これは自力で解いたものと赤ペンの修正も含むようです,そして,答えあわせをしてあることが最低限の条件なのだろうと私は思っています。また,きたないよりは綺麗な方が良いようです。同じ先生に提出しているワークを何冊か,できれば評価の違うワークを見比べれば評価の基準が見えてくるでしょう。そして良い評価を得る方法も見えてくることでしょう。

 さて,ここから,私の身勝手な理屈になります。

 目的は「理解し問題を解く力をつける」,その手段はワークをやること。

 もし,この論理を推し進めると,

  1.  ワークをきちんとやり,試験の点数が良い。
  2.  ワークをきちんとやったが,試験の点数が悪い。
  3.  ワークをきちんとやらず,試験の点数が悪い。
  4. ワークをきちんとやらなかったが,試験の点数は良い。

 この4通りのパターンが考えられます。1と3は,まあ,何となくわかるような気がします。しかし,2と4はどう考えればよいのでしょうか?

 まず2の場合,「きちんとやった」のに点数が悪いということは,ワークは目的にふさわしい手段ではなかった,ということが言えそうです。これから試験で点数を取るためには,普通なら,手段の変更を考えてもおかしくないと思います。実は,「きちんとやった」と書きましたが,きちんとやるとはどのようにすることなのか,これがなかなか難しいものです。ですから,今はどのようなやり方にしろ,ワークを「きちんとやった」ことにしておきます。

 次に4の場合,点数が良かったということは,どのような方法かはわかりませんが目的は果たしました。今後も同じ方法を続け,試験の点数は取れるかもしれません。しかし,ワークの評価は低く教科の評価は下がる可能性があります。

 こう考えると,ワークを評価するとは子ども達の何を評価しようとしているのでしょうか?また,ワークを通して子ども達の何が見えてくるのでしょうか?

 しかし,前提となる条件を,目的と手段というように私が勝手に決めて話を進めました。ですから,ワークをやる目的が違っていれば,話はまったく別の展開となります。例えば,1と2は持続的に物事をすることができるという評価が可能です。それでも,私は何のために持続するのかが問題だと思います。

 そして,このようなことはワークに限らないでしょう。例えば,綺麗なノートを取っているから,必ずしも試験の点数が良いとは限りません。自分流に,人が見ても訳のわからないノートを取っていても試験の点数が良いかもしれません。

 ワークをすること綺麗にノートを取ること,こうしたことは特に疑問を持たれずに良いこととされているようです。しかし,こうしたことにも目的や意図があるはずです。綺麗にノートを取る,それが目的ならば,綺麗でないため評価が低くても仕方がありません。しかし,他に目的があるのなら,その目的に適っているかどうかが評価の基準になるべきだと思います。

 実は,この頃,子ども達と勉強をしていてとても気になっていることが,目的を持ってやっているだろうかということです。解答を導くために解法があり解法には手順があります。目的や意図を持ち,手順を追いかけ,正解にたどり着けるように上手に説明したいものだと思っています。

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2007年11月27日 No.228

 定期試験そして中3の学力Cのテストが終わりました。子ども達は,私を含め真面目によく勉強したと思います。結果はどうだったでしょうか。

 子ども達の中には「こんなに勉強したのに,成績が悪かったら,がっかりだ」と思う子達がいると思います。子ども達がそう感じるのは無理もないと思います。成果が目に見える点数になれば,達成感を感じられます。しかし,結果が点数として現われなければ,がっかりするのは当然でしょう。

 さて,そこで成果がなかった理由を考えると,2通りあると私は考えます。

  1. 勉強法に間違いはなかった…勉強の成果が現れるには時間のかかることがあります。すぐに結果は現れないが,継続することで成果が現れます。勉強を始めるのが遅く,試験には時間的に間に合わなかった。
  2. 勉強法がまずかった…試験で点数を取るということは,スポーツやゲームで勝つ方法とそれほど変わりはないと思います。戦略・戦術やテクニックなどが必要でしょう。特に戦略・戦術を間違えてしまった。

 1.の場合は,2.と関連付けて考えると,時期を見誤ったともいえますが,方法に間違いがないのですから,そのまま勉強を継続することになります。しかし,2学期のテストはとても試験範囲が広く,短期間のにわか勉強でカバーできる様なものではありません。見通しが甘かったと反省し普段から地味に勉強をすることが必要でしょう。そして,この場合に注意するべきことは勉強法が適切かどうかの判断が難しいという点です。「石の上にも三年」といいますが,手ごたえのなかったことを続けるのは相当の忍耐が必要です。私にはちょっと無理なようで,きっと,すぐにやり方を変えようとするでしょう。

 次の2.の場合は色々なことが考えられます。例えば,試験範囲は広くても教科書の一言一句すべてがテストに出るわけではありません。どこを捨てるかを決めることで勉強の効率がよくなります。よく言われる「山を掛ける」ことですが,うまくいったでしょうか?1年生のように試験をあまり受けていないのであれば仕方ありません。しかし,何度か試験を受けている2・3年生で「山をはずした」となれば,教科担任の観察が足りないといえます。先生は重要なポイントが何かわかるように授業をしているはずです。「山が掛かる」ように,先生の授業の特徴をつかむようによく観察しましょう。また,捨てることを考える時は目標点数の設定も大切になります。満点を狙うような勉強をしているケースが多く見られます。自分ができないところを何とかするのが勉強ですが,目標点数によっては捨ててもかまわないところが必ずというほどあります。特に試験が近くなればなるほど,わからないところよりも確実に点が取れるところをしっかりやる必要があります。

 そして,勉強で一番大切なことは,「間違い」にどう対処するかです。学校のワークや塾の宿題のプリントをどう活用するかということでもあります。できなかった問題を,自分の手で答えを調べたでしょうか?解答の丸写しはしていないでしょうか?「間違い」は貴重なものです。理科・社会や英語であれば教科書や参考書で調べる,あるいは数学の問題ならばどこを間違えたかを考えるなど,丁寧に扱うことが大切です。ただ,こうした勉強法は人により様々です。色々な方法を試し,自分に適した最善のものを探すしかないと思います。

 最後に残ることとして,わからないこと知らないことにいかに答えるかということがあります。知っていることしか出ないなんて試験はめったにあることではありません。こうなると,問題を如何に読むかということが大切になります。問題の文章は見方を変えれば,ヒントのかたまりです。試験問題には,普通は一つの答えしかありません。問題の文章のどこかに答えを一つに限定するためのポイントがあるはずです。文中のどの言葉も,同じ重みで使われているということはありません。「山を掛ける」のと同じ様に,大切な言葉とそれ程でもない言葉があります。いつも,どの言葉を捨てればよいかと思いながら読む練習が必要です。

 一言で勉強と片付けますが,そんなに簡単なことではありません。「何かをするついでに」とか「空いた時間を使った片手間仕事」というわけには行きません。当然,試験前のにわか勉強で間に合うようなものではありません。地味に,できれば計画的に少しずつ丁寧にやらなければならないことは間違いありません。

 

 そう考えれば,最初に書いた「こんなに勉強したのに,成績が悪かったら,がっかりだ」などと思う必要はありません。にわか勉強を反省し,少しずつ地味に勉強を続ければよいことです。「最小の努力で最大の効果」をと思いながら,子ども達と勉強をしています。しかし,子ども達の貴重な時間を割くことはやむを得ません。つまり,点数を取るということは,子ども達が点数と引き換えに何かを捨てることでもあります。それが何なのかは目に見えないことのようです。勉強とは捨てることの練習かなどと思う私であります。

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2007年10月25日(木)No.227

 数学や算数の勉強に積み木を使うことが時々あります。私の息子達が遊んだもので落書きがあったりしますが,ありふれた木製の積み木です。プラスチック製ではありません。

 これは積み木の材質ということになります。材質が違うと手触りが違います。積み木によっては色が付けられています。そうすると,同じ木製でも手触りが違い見た目も変わりますます。その他,積み木について考えると,何種類か立方体・直方体・円柱や三角柱など形に違いがあります。そして,同じ形でも大きさが違ったりしています。同じ材質で作られたものですから,大きさが違えば重さが違います。値段も違います。

 書いてきた事柄は,何と言えばよいのか分かりませんので,積み木の属性ととりあえず言っておきます。その属性は一個の積み木にたくさんあります。その属性について人間は名前を付けていきます。色・形や重さなどなど…。そし属性のいくつかは学校で勉強することになります。

 大きさ(体積として)や重さは量として数値を用いて表されます。形の名前にも辺の数が三角形や四角形のように関係しています。色や匂いや手触りといったものは数値にはならないようですが,美術や理科では普通に扱われます。理科では色を問う問題がよく出題されます。

 たった一個の積み木に,思いついただけでもこんなに属性があります。単純な積み木でこんなにあるのですから,複雑な造りのものになればどれほどあるのかと思います。人間はどれほど属性を見つけ名前をつけたり数値化したりしてきたのでしょうか?

 ところで,積み木の重さを数値にしたとします。その数値だけでどんな積み木か想像できる人がいるでしょうか?きっといないでしょう。では,体積だけでは,あるいは形の名前だけではどうでしょう。一つの情報だけでは積み木について何もわかりません。では情報を増やしていきます。形や大きさや重さ,数で表せるものをすべて数値化したらどうでしょうか。まだ何か足りないようです。では色や手触りなどもすべて書き出します。情報が多くなり,少しは積み木が想像できるでしょう。

 細かく正確な情報をたくさん並べ,それを総合したら積み木になるのでしょうか。なるかもしれませんが,何だか足りないように思います。初めに書いたように,使い古しの積み木です。作った人はどんな風に遊んで欲しいと思ったのでしょうか。遊んだ子ども達はどんな思いで遊んだのでしょうか。こんなものが積み木の属性になるかどうかはわかりませんが,持ち主にとってはとても大切な属性ではないでしょうか。

 

 さて,人間は自分自身についても無数の属性を思いついたようです。生まれた時は身長・体重程度です。しかし,成長するにつれ身体的なもの以外にも,点数など数値で表せるもの,性格や好みなど数値にならないものなど,様々な属性が人間についてきます。属性には評価がついてまわることが多くあります。評価は良いにこしたことがありませんが,良くても悪くても,ひっくるめて私なのです。何だかつらい世ですね。

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2007年9月27日(木)No.226

 中1の数学は方程式の練習をしています。方程式といっても,やはり計算練習ですから,今ひとつ面白みにかけます。しかし,算数を卒業し少し数学らしくなってきたでしょうか。

 「天秤と同じで左右の釣り合いが取れている状態だよ」など等式の性質を,そして,基本的な方程式の解き方を説明します。ここまでは教科書とほぼ同じ順序で進みます。この後,教科書では少しずつ複雑な方程式へと進みます。天邪鬼な私は,括弧のある方程式や少数・分数を含む問題を除き,少し複雑な方程式から簡単な方程式へと進めます。なぜ逆戻りをするように進めるのか,子ども達は不思議なようです。

 小学校の算数と方程式の違いは次のような点だと思います。小学校の算数は,式にある通り計算していけば答えが出ます。しかし,方程式を解くためには,計算の前に式の形を変えていかなければなりません。「解ける式の形を作る」,自分で目標を持って意図的に式の形を変えなければ解けません。このように,意図が必要になることが大きな違いです。

 簡単な式から複雑な式の手順で進めると,「移項する」という技術的なことは簡単に覚えてくれます。しかし,目的や意図も無く,むやみと式の形を変える子が結構いました。「意図・目的を持って」ということが子ども達にうまく伝わらなかったことが複雑な形から説明する大きな理由です。一見すると複雑に見えても,目的の式の形がはっきりしていれば,手数を掛ければ解けることを覚えて欲しかったからです。

 そして,「意図・目的」に合わせ問題を解くためには,手順が大切になります。その手順を覚えてもらうため,手数のかかる問題を先にやった方が良いようです。簡単な式を先にやると,よく式を見ないで,簡単な手順で答えが出ると思う子が結構います。式をよく見て,自分は何をすればよいか,目的に合った手順を考えることはとても大切です。

 手順を踏み,どんな複雑な形の式も最終的には単純な形の式にしてしまいます。そのために移項したり計算をしたりします。しかし,目的である最後の式の形を意識しないことには,何のために何をしているのかわからなくなってしまいます。

 方程式に限らず,子ども達は,「こうしろ,ああしろ」ということは言われたことを言われたとおりにやります。しかし,これを続けていくと,学校や塾では解けるけれど,自分一人になると解けないといったことになります。子ども達が自分の力で問題を解いていくためには,「目的意識」をしっかり持つ必要があります。

 ところで,計算のテクニックや問題の解法というのは,意図や目的をスムースに進めていくための手段,大工仕事の道具のような物といってよいでしょう。道具を上手に扱えないと困りますから,その練習は必要です。しかし,何を造るかを考えなければ,立派な道具も宝の持ち腐れになります。そして,そんな子が結構いるように思います。

 「何のために何をするのか」意図を持って問題に取り組むようになれば,子ども達の成績はずっとよくなるでしょう。子ども達に,いきなり「意図や目的」を持てと言えば持てるのか?そんな簡単にできるようになるものでもありません。私達は,普段から絶えずしっかりと,子ども達に「何のためにこれをするのか」を伝えなければならないでしょう。

★勉強にはエネルギーが必要です。

 運動に比べ勉強は大してエネルギーの必要がなく,楽だと思っている人が多いように思います。そんなことは決してありません。道新の連載記事《「生きる」しくみ》に『脳の神経細胞の活動に利用できるエネルギー源は、グルコースだけです。神経細胞は食べ物に入っている脂肪やタンパク質(アミノ酸)はエネルギー源として利用できません。ですから、脳を使うとグルコースがどんどん消費されます。こうして血液中のグルコースは減少傾向を示します。こうなると脳もエネルギー不足で疲労してくるのです。

 さらに,血液中のグルコースの減少は,脳の中の視床下部という場所にある摂食中枢を活性化させます。こうして空腹感を感じることになります。つまり脳を使うとおなかが減ることになるのです。でも,体は動かしていないので,実はそれほどのエネルギー補給は必要ありません。脳の疲労を回復させるためには,グルコースを多く含む甘いものが効果的です。』とあります。

 体力は使いませんがそれなりのエネルギーの補給が必要です。体調管理を含め,勉強に取り組むためには食生活も重要というお話です。

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2007年8月27日(月)No.225

 特に取り得も無い人間だけど,眼だけはよかった。近くも遠くも,何の不自由なく見えました。しかし,本や新聞の小さな文字が読みにくくなり,老眼鏡が必要になりました。老眼は進み,最近は眼鏡が必需品になっています。それでも,かけたりはずしたりが面倒で,眼鏡なしで本を読もうとします。やはりというか,不精を決め込んではいけません。文字が黒いしみのようにしか見えなくて読めないし,疲れるだけです。遠くを見ている限り,昔と同じように見えているようですが,近く,特に文字の読み書きの場面では,風景が違ってしまいました。

 風景が一変し,「はて,みんなにはどう見えているのだろうか?」と初めて思うようになりました。近視の人,乱視の人や遠視の人は私と同じ物を,同じ様に見ているのでしょうか?

 古い卒業生に,問題文を読ませると,行をとばしたりする子がいました。どうしてかと不思議に思っていると,片目は視力が無いことが原因でした。また,視力は普通でも,眼球の運動に問題があり,字を追うのが難しい子もいました。色弱の子は,ホワイトボードに赤ペンで書くと見にくかったそうです。私が当たり前のように見ていた風景や文字がこの子ども達にはどのように見えていたのでしょうか?

 こんなことを思いながら,子ども達と問題を解いていて「この子達は,私と同じ文字を見ているのだろうか?」とふと思いました。日常的に子ども達に文を読ませます。私が見ている文字を読んでいることは,声に出し一字一句間違いなく読んでいますから,間違いありません。しかし,同じ風景を見ているのでしょうか? 文章を読み,そこからどんな風景を子ども達は見ているのでしょうか? 

 問題文は「何に答えるか」という点に注目して読まなければなりません。ぼんやりと読んでいては答えられません。でもそれだけで解けるわけではありません。問題に書かれた様々なことを読まなければなりません。そして,いざ解く時には全体をぼんやりながめていると,見えてくるものがあり,うまく解けるといったこともあります。

 ぼんやりと風景をながめることもあれば,その中の何かを注意して見ることもあります。問題の文章を読むときに似ているように思います。ながめているだけでは何も気がつかないこともあれば,注目していると周りが見えなくなることもあります。どちらが大切というよりは,いつもアンテナを張り巡らしているという気持ちが大切なように思います。

 でも,風景と問題文は基本的に違います。風景は個人個人の自分の思いで見ることができます。趣味に合う,合わないといったことは自由です。そして解釈の仕方に制限がありません。

 ところが問題文には,そうした自由度が一切ありません。解釈が決められています。私の読み方と子ども達の読み方が違ってはいけない世界です。私にとって「当然のこと」は子ども達にとっても「当然」でなければならない。まさか,ありえない世界と思います。だから,間違いや楽しい様々な答えが出たりします。子ども達と,問題を解いていて珍答迷答と出くわすのは,こんな読み方もあるのかと感心させられることもよくあり,楽しいことです。

 

 しかし,試験などというものが控えています。そうのんびりと構えていられないのが本音です。ついつい,「こう読め」・「こう解釈しろ」となりがちです。例えば,「記号で答えなさい」という問いに言葉で答える。わかっていることが確認できても,「読んでいない」と言われればそれまでですし,×になったり減点されたりのようです。「きちんと読め」とは言いますが,そのほかの部分をきちんと読んでいれば特に困ることが無いし,何か大切なものがするりと手からこぼれるような気もします。トンボの眼と私の眼と,同じ物が同じように見えるのでしょうか?トンボにはトンボの世界として見え,私の世界とは違うのでしょう。子ども達と私の眼が見ているもの,同じ文字が並んでいますが,本当に同じものなのか,いえ,同じでなければいけないのだろうか,などと思ったりしています。

★夏休みが終わりました★講習が終わり,学校が始まりました。最近は二期制が導入されたこともあり,二学期が始まったといえないようです。学校の様子が変わり,二学期の中間テストを実施する学校が少なくなりました。そのため,11月の定期テストは試験範囲がとても広くなります。普段から少しでも勉強をするよう心がけてください。特にワークの提出を考えれば,間近になってからでは間に合いません。試験近くになって試験勉強どころか,ワークの解答写しをしないといけないなどと言った状態にならないように注意してください。

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2007年7月30日(月)No.224

 先月の通信で小学生が詩を読んでいることを書きました。中学生は詩を読む余裕がありません。その代わりといっては何ですが,英語の教科書を読んでいます。小・中学生に共通していることは,読むことは嫌がらないという点です。そして,おばさんによれば,意外なことに中学生は英語を読みたがるそうです。授業中にあてられて読まされることもありますから,読めるようになりたいという気持ちがあることは間違いありません。そして,声を出すことはそれなりに気持ちが良いことだからかもしれません。でも,問題集やワークブックをやるよりは楽だということも理由の一つかもしれません。

 英語の教科書は国語のように名文を集めて作られてはいません。そして,会話形式が多くなっていますから,お世辞にも美しい文とは言えないものだと思います。しかし,読めないことには意味を取ることができません。意味がわからないとスペルを覚えることは至難の業,不可能に近いと言ってもいいでしょう。まずは読めるようにならないと次のステップに進めませんから,読みの練習はやむを得ないでしょう。

 しかし,読めるようになったから,必ず書けるかというとなかなかそうは行きません。英語ができる子ども達は読み方をきちんと意識して書いています。しかし,できない子ども達はアルファベットを書き写しているだけで,読みなど考えていないと言っていいでしょう。ですから,おばさんや私は「読み」と「書き」は関係があると説明し,読み方を意識して書くように指示をします。しかし,その子の頭の中では「読み」と「書き」は別物のようで,読む練習と書く練習がつながらず,書く練習は書く練習だけになっているようです。

 どうしてこんなことになってしまうのか,不思議に思います。その理由として考えられることは,最初に習う単語は易しい単語が多く,記憶力のよい子ども達は,まるで漢字の「飛鳥」を「あすか」と読む熟字訓のように,読み方もスペルも丸暗記してしまうようです。記憶力が衰えつつある私には考えられないことですが,子ども達はいとも簡単に覚えます。そして,その調子で覚えていけば大丈夫だと勘違いしてしまうようです。はじめの頃には問題が無いのですが,単語が増えていくのですから,だんだんと大変になってきます。

 そこで,子ども達に「読み」と「書き」との間にルールがあることを教えることにしています。そのために,フォニックスという指導方法を利用しています。その手順は簡単に書くと,次のようなものです。

  1.  アルファベットの持つ音を覚えます。表音文字であるアルファベットには,一つ一つの文字に音が割り振られています。
  2. 二つめのアルファベットの読み方を覚える。例えば,「a」は「ア」と読むときと「エイ」と読むときがあります。つまり,漢字のように読み方が二通りあるものがあります。どちらで読むかは,スペルにルールがあります。スペルをみれば読み方がわかるようになっていますから,そのルールを覚える。
  3. アルファベットの組み合わせで決められた音を覚える。「th」は「ズ」または「ス」のように読みます。漢字の,熟字訓のようなものでしょうか。これもスペルと音の間にあるルールといえます。

 読み方とスペルの間のルールを覚えていく勉強です。ですから,フォニックスのルールを覚えると音からスペルを予測することができますから,読むことも書くことも楽になります。そして,ルールの数は,小中学校で習う漢字に比べればその数は少なく,百も覚えれば,たいていの単語は読めるようになります。漢字の読みを覚えることと比べるとかなり楽だと思います。そして,ルールですから必ず例外があります。あとは,その例外を覚えていくことになります。

 フォニックスのルールは単語のスペルをアルファベットに分解し,そして組み合わせることによりスペルが出来上がっていることを教えるといってよいでしょう。でも,子ども達は分けて考えたり関連付けて覚えたりといったことを,あまり練習していません。丸暗記を脱し,関係を考えながら物事をするためにはそれなりの時間と労力が必要です。

 しかし,「努力」は嫌いだと話す私です。何とか最小の労力で最大の効果が上がるように工夫しなければなりません。どうも残念なことですが,嫌いな努力を私がしなければならないようです。

★講習が始まりました。規則正しくと思いますが,時間帯が変わる日があります。日程には十分注意してください。長期の休みです。食事をきちんと取るなど生活のリズムに注意してください。また,暑い時期です十分に水分補給をしてください。塾にお茶や,スポーツドリンクを持参するのも方法かと思います。

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2007年6月25日(月)No.223

 小学生の国語は詩を読むことから始めています。今,読んでいる詩集は「ポケット詩集」や「パタポン」です。難しい詩や簡単な詩もあれば,長い詩や短い詩もありますが,毎回一つを読みます。一人がまず1行目を読み,次の人は次の行,これを繰り返し最後の行まで読みます。最後の行を読むと,最初の行を読む人を変えて同じことを繰り返します。面倒なようですが,全員が最初の行から最後まで読むことになります。3人いれば同じ詩を三回,4人いれば四回読んでいます。

 そして最近,小学生だけの宿題として,今までに読んだ詩を書いてもらうことにしました。いつも読んでいる詩集の詩を書き写す宿題です。やり方は次の通りで,子ども達に伝えてあります。

    ①改行や旧字体でもの文字でも書いてある通りに書き写す。

    ただし,ルビを除く(子ども用なので読み仮名を振ってあります)

    ②土日を除く毎日,詩を一つ書き写す。

    ⓷家庭学習として学校に提出してもかまわない。

どちらかと言えば積極的に出すように子ども達に言っています。

 ②を実行するのは,おそらく子ども達にとって相当に難しいことだと思っています。もし,私がやれと言われたとしたら,おそらく提出期限前に,まとめて書き写すのがやっとでしょう。無理と思いながらこんな指示を子ども達にするのはどうかと自分でも思います。「子ども達に毎日書いて欲しい」という思いはあります。しかし,この指示は「私がそうでありたかった」という私の願望と言ったほうが正しいでしょう。習いたかったピアノを習えなかった親が,子どもにピアノを習わせるようなものでしょうか?毎日コツコツと何かをやれなかった自分を省みて,コツコツやってほしいという,子ども達にとって,とても迷惑な話なのでしょう。しかし,書かない日があってもかまいませんから,思い出したら詩を一つ書いてみて欲しいと思っています。

 ③は家庭学習をやるように担任から言われている子ども達がいますので,家庭学習と兼ねると,子ども達の負担がないかと思ったからです。実際に提出した子ども達がいます。担任の先生のコメントは個性が出ているのか,なかなかおもしろいことが書いてあります。

 詩を読み・書く,別に詩である必要はないのです。長い文章でもいいと思います。ただ,限られた時間の中で,完結した作品となると,詩が最適と思います。そして,詩を通して子ども達がたくさんの美しい言葉や言葉の美しい使い方に触れてくれればいいと思っています。豊かな語彙を持つことは,遠回りのようですが勉強にきっと役立つと私は考えています。さて,少し奇麗事過ぎることを書いてきました。

 子ども達の勉強の実際の場面で,最低限のこととして,正確に読み・正確に書ける様になってほしいのです。現実は味気ないもので,テストという厄介なものがあります。答案の書き方を間違えると×がついてきます。書かれてある指示通りに答案は作成しなければなりません。こんな現実的な問題もあって小学生に宿題を出しています。

 宿題といえば,試験と成績に追われ,仕方がないのかもしれませんが中学生は味気ないプリントばかりです。さびしい限りです。

★定期テスト…ほとんどの中学で終わりました。どの学年もよく勉強しました。特に中一は,ご苦労様でした。初めての経験に加え,親から十分に言われているだろうに,私からやいのやいの言われ大変だったと思います。2・3年生は,宿泊や修学旅行といった行事が立て込んだ中,よくやりました。きっと結果がついてきてくれたに違いないと思います。

 回数も多くやりましたし,中体連のため毎年開店休業の状態ということもあり,試験休みとして中学生は7月第一週をお休みにします。

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2007年5月23日(水)No.222

 小学生は整数の掛け算,小数の掛け算・割り算,分数の通分・約分と加減の計算。中学生はプラス・マイナスの計算,文字式の計算。計算の練習は,まるで訓練のようで,どうしても好きになれません。毎日のような訓練に,ちょっとうんざりしています。近頃になって少し文章題をやりはじめ,私としては勉強している感じがしています。子ども達はどう受け止めているでしょうか。

 数学・算数の担当が私なので,私が数学・算数が好きだと思っている子ども達が多いようです。しかし,小学校の頃から私は算数が嫌いでした。「計算が遅い,不正確だ」と言われ続けたし,実際そうです。だからいまだに計算は大嫌いで,たくさんやらされた計算練習は,自分がするのも人にやらせるのも嫌です。計算ができないと困るのはもっともですが,たくさんやれば上手になるという考え方にどうも納得がいきません。

 百枡計算などがもてはやされているようです。確かに朝起きて簡単な計算をすることで脳は活性化し,勉強の準備運動としてはいいかもしれません。しかし,百枡の計算が速くできるようになり,その結果として算数や数学の力が伸びるとは思えません。

 九九の練習でもそうですが,計算で速さを競うことにどれだけの意味があるのでしょうか?九九を唱えることができても,九九の不思議な美しさを知っている子どもがあまりにも少ないと思います。例えば,

9・18・27・36・45・54・63・72・81

と並ぶ九の段です。十の位は1から8と上がり,一の位は9から1へと下がっていきます。そして十と一の位の数を合わせればどれも9になります。簡単なことですが,これを子ども達に話すと,子ども達はその不思議さに感心します。同じようなことが三の段にもあります。五の段の一の位は五とゼロしか表れません。不思議と言えば不思議な答えです。そして,その不思議な美しさを実際の計算に使って,私は昔より正確に計算ができるようになりました。

 子ども達は「筆算してもいい」とか「筆算でないと出来ない」とか,何か申し訳ないことのように私に言います。どうも暗算ができることが素晴らしいことのように思っているようです。しかし,子ども達に「人間は計算機ではない,暗算なんかする必要はない,筆算しなさい」と言います。筆算をして数を良く眺めることのほうが暗算よりもよほど大切だと思います。筆算をし,自分のしていることを眺めていると,ひょっとして掛け算や割り算をどんな仕組みでしているのか,何か感じることがあるかもしれません。

 本来,勉強は目的に合わせ,その仕組みや成り立ちを考え丁寧にやるべきものだと思います。そのためには,練習は目的にかなった方法で行わなければなりません。ところが,目的や仕組みを考えず,やみくもに速さと量を競っているようです。まるで,バブルというか働き蜂といわれた日本の姿がそのまま残っているようです。

 練習の成果といえば,私は社会人になるまで「逆」という漢字を間違えて書いていました。いつどこで間違えて覚えたのかわかりませんが,十分に練習して覚えたのでしょう。試験に出ただろうが,×を付けられても直らなかったのでしょうか?不思議に思えてなりません。練習は,いたずらに量をこなすのではなく,丁寧に良く見てやりたいものです。

 練習とは違いますが,脳の活性化には,私は文章や詩を読んだり書き写したりの方が計算より気持ちが良くて,余程いいと思います。ひょっとして写経などいいのかもしれません。

★試験勉強★ゴールデンウィークが終わり,5月末から運動会,宿泊や修学旅行などの諸行事がたくさん予定され忙しい時期になりました。諸行事が終わってから,あるいはその合間をぬって中学の定期試験があります。試験対策の勉強をしなければなりません。子ども達に予定などはその都度連絡しますが,不規則になりますので注意してください。特に食事が抜けるようなことがないようにしてください。やはり勉強には万全の体調が必要です。

★連休中はのんびりと過ごし,レンタルDVDを 楽しみました。もっともDVDプレイヤーの調子が悪くて少しいらいらさせられましたが, サスペンス・ラブロマンスなどなど・・・。そして,試験勉強といいますと,テレビのドラマで見た方も多いと思いますが,「ドラゴン桜」も見ました。コメディタッチのドラマでした。しかし,試験勉強をゲームと捉えたり,楽しく覚える方法を考えたり,勉強法としては納得させられる部分はありました。そして,「一番嫌いな言葉だが,がんばれ」と主人公が子どもを励ますシーンでは,おばさんと二人大爆笑でした。

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2007年4月24日(火)No.221

四月,進学・進級の時期であり,子ども達の環境が大きく変わったりします。小学校と中学校では学校生活の違い,特に,クラス担任制から教科担任制への変化は大きく,その変化についていくのに,子ども達は大変なようです。小学校では,一日に一人の先生とお付き合いをすればよかったのですが,教科ごとに先生が変わる中学では一日に五,六人の先生とお付き合いしなければなりません。名前を覚えるだけでも一苦労です。そして,先生達は先生達でそれぞれの思いを持って子ども達に接するでしょう。異なる個性の先生達に接し,何が何だか,混乱する子も中にはいるでしょう。

 一日の間に,こんなに個性の異なる大人達と向き合うことは,子ども達にとって初めての経験かもしれません。異なる個性の集団と出会い,子ども達は自然と比較検討を始めます。「数学の先生は,理科の先生は」などといった調子で私たちに報告してくれます。第一印象ですし,先生達のほんの一面しか子ども達は見ていませんが,当然「好き,嫌い」といった話題になります。そんな時,ふと私は子ども達に「動物園に行ったら,みんなはどうする」と聞いてみました。「色々な動物を見る」と返事が返ってきました。ちょっと失礼かと思いましたが,子ども達に「動物園に行ったと思って,色々な先生を観察すればいいよ」と私は言いました。子ども達には,こんな先生がいれば,あんな先生もいる,評判のいい先生,あまりかんばしくない先生,いろんな人がいます。できれば,自分が真似る手本となるような所がないか,よく見て欲しいと思います。

 子ども達は自分の経験したことのないことに接した時,「変だ」と言いがちです。そして,子ども達が「変だ」と言うとき,変なものを受け入れないといったニュアンスを,私は感じます。せっかく未知のものに接し,世間が広がるチャンスではないでしょうか。「変だ」と思っても,眺めてみれば,何か見えるかもしれません。自分の知っている世界など,ほんの小さな世界です。十代という感受性が豊かな時期に,様々なことに触れ,どんどんと世界を広げていってくれればいいと思います。先生という大人を通して,今までとは違った世間を見てみることも面白いのではないでしょうか。これから,高校や大学そして社会に出てどんどんと世界を広げていく予行演習のようなものでしょう。

 とここまで書いてはきましたが,塾と違って,子ども達が中学校を選んだり担任の先生を選んだりはできません。「好き,嫌い」などと思ってもお付き合いしなければなりません。相性の合わない先生と無理にあわせる必要はないと思います。でも,どうしてもお付き合いしなければなりません。自分にとって都合の悪い事実でも,受け入れなければなりません。自分に都合の悪い事実を受け入れる,これは大人にだって面倒なことです。子ども達にとって大変なことでしょうが,何とか上手にお付き合いする方法を学んでいって欲しいと思います。

 そして先生達の評判を話す子ども達は,実は先生達によって,見られる立場でもあります。「変だ」と思われる程度は何ということはありません。しかし,にらまれるようなことがない様に,上手にお付き合いし,自分をアピールして欲しいと思っています。

 しかし,多くの卒業生たちはそれなりにお付き合いをしてきた訳ですから,私の心配は杞憂なのでしょう。ただ,しばらくは,子ども達にとって相当のストレスになっているものと思います。愚痴もたくさん出てくるのではないでしょうか。お父さんもお母さんも子ども達の愚痴を聞いてあげてください。子ども達の愚痴を復唱するか,「そうなの」と聞いてあげるだけで,子ども達はホッとするそうです。

 立場を変えて見ると,先生達にとっても大変な時期なのかも知れません。子ども達から品定めされる立場ですから。お互い,楽しい有意義な,新しい出会いになれば良いと思います。

★回り順でやむを得ず町内会の役員を引き受けました。面倒だと思っていましたが,予想以上でした。いい経験だと考え,前向きにと思いました。しかし,この歳でいい経験でもあるまいし,この考え方には,ちょっと無理があるようです。子ども達の勉強と一緒で,「やらねばならぬ」と思うと気がめいります。どうせやらなければならないことですから,何か楽しみを見つけ,楽しくなるようにやろう,と考えると少し気が楽になりました。今更ですが,「やらねばならぬ」勉強を子ども達とやる私です。少しでも楽しんでやろう,また,子ども達自身もどうすれば楽しくなるか考えてもらおうと思っています。

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