ごあいさつ

通信Back number 1988年10月~1989年3月

 

 

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1989.3.4 No.5

 暖かすぎる日が続きます。記録的な暖冬ということたそうです。これから中三は受験という時期ですが’何か季節感がおかしくなりそうです。でも、受験生には暖かいのはいいかもしれません。よいコンディションで試験を受けてほしいものです。

 これからという人がいれば、もう終わって進学先が決まった人もいます。これからの人は、決まった人におめでとうという気持ちと終わったことに対するうらやましさがあるようです。今まではほんの一部の人を除けば皆が同じ進路たったのですが、人によってコースが違うという初めての経験です。自分でコースを選んたことになります。子供にとっては大変なことたったと思います。

 初めてということは、これから何度も経験するということであり将来に向けて自分の進む道を選択する機会が何度もあるでしょう。

 「私のつきたい職業」という作文を冬の講習で中三に書いてもらい’ました。書きにくいかと考えてうそでもいいことにしたのですが、本当の部分もかなりあるようでした。自分の夢や将来についてまじめに考えているのがよくでていました。

 私の好きな言葉の一つに「たずねよ、さらば見いたさん。求めよさらば与えられん。門をたたけ、さらば開かれん。」というのがあります。積極的なところが気にいっています。子供達の夢や考えかたは、これからどんどん変わっていくのでしょうが、自分で判断を下し前向きに進んでほしいものです。

 DEKUNO BOWという私の友人がいます。同じように塾をやっています。信天翁がとぎれないようにと、励ましあるいは忠告を受けました。全面広告といっていい内容の物ですがこうしてできあがりました。四号ですので、三日坊主を返上したしたことになります。本当にうれしいですね。子供のころから散々三日坊主といわれてきた者にとっては大事業を成しとげたような気がいたします。みつ子の魂百までといいますが本当のようです。

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1989.2 No.4

 三学期が始まりました。長い冬休みと講習が終わりホッとしています。中三のことを考えると一息つくのは、まだ早いようです。でも、講習が終わると緊張が緩みます。しっかりと熱もだしたことですから。外野席からはスキーのやりすぎだと声がかかるようです。

 一年の初めであり、学年の仕上げの時期にあたります。今年もがんばってやりましょう。子供達にする説明も工夫をこらして色々とやってみよう。だいたいが、適当な思い付きを、後先のことを考えずやるほうですからはたしてどうでしょうか。あるとき、理科の説明だったのですが、思い付きを実行にうつしました。自分では当然といえば当然ですが自信はあるし、良い方法だと思い込んでいますやってみないとわからないなんてことは、かけらも考えてもいません。そうだ、通知せんを書かせよう。

 説明が終わってから、子供達に「これから通知せんをかくよ」と言うと、子供達から「えぇー」と声がでます。小さな紙を渡し、説明に対する通知せんだとわかると、みんな安心するようです。緊張がほぐれるのが、はっきりと見えます。今度は私がなんとなく落ちつかない気分になります。「通知せん」を回収し、子供達が帰ると急いで見ます。無記名ですが字を見ればだれが書いたかわかります子供もその辺は、よくわかっているようです。「5・大変よくわかった」に丸がついています。これは少し気を使っているな、お世辞の分を差し引くと「4」ぐらいかな。でも「5」はいいもんだ、子供も同じ気持ちだろうなきっと。「3・普通」これはなかなか厳しいなヽその他の欄にも「エネルギーがわからない」と書いてある。実にみことな評価です。エネルギーは説明をするつもりがなかったのに、時闘があまって進んでしまったのが本当でした。

 点数は良いほうがうれしい、子供の気配りは、自分の正直な気持ちを現わしたものと思いますが、優しい気持ちはうれしいですね。厳しい評価は的を射ているだけに、子供の観察力には頭がさがります。そのおかげで私も説明の仕方を考えます。その評価がなければきっと、ありきたりの説明でおわっていたでしょう。これからも時々、「通知せん」を書いてもらおうと考えています。 

 

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1988.12.10 No.3

師走の声を聞いたかと思うと早いもので、もう十日を過ぎようとしています。師走とは、先生がいそがしくて走りまわる月だ、と子供のころに教えられたことを思い出します。中学生は期末試験が終わりのんぴりムードです。特に中3はたくさんあった試験がすんだこともあり、少しほっとした雰囲気です。後は、先生が成績をつけるのにいそがしいだけなんでしょうか。「先生」という言葉には独特の響きがあるように思っています。国会という場では、リクルートだとか税制論議だとか、師走にふさわしく「先生達が」走りまわっているようです。この「先生」の使いかたは、あまりよい意味を持たせていません。しかし、一般的に「先生」という言葉はよい意味、丁寧な言葉として使われます。こんなことを書いてきたのは、子供達が私を呼ぶとき、どのように呼ぶかと言いますと、大きく分けて三通りあります。一つは「先生」、もう一つは「おじさん」、最後は何と呼べばいいのか困って「あの」とか「ちょっと、ちょっと」などと声をかけてくれます。ここで、「おじさん」というのが、時々家庭で問題になるようです。子供達が自然に「おじさん」と初めから呼んでいる訳ではないのです。私の方から言いだした結果です。子供達から「おじさん」と家で言って注意されたと何度か聞いています。こんな訳ですから家族のかたは気にしないでください、お願いいたします。

 

「おじさん」と呼ぶように子供達に言ったのは、かなり以前のことですし、それに強制はしていません.「おじさん」は変だと言う子もいました、突然呼びかたを変えることがうまくいかない子もいたと思います。そのためグループによって呼びかたはまちまちになりました。その子、その子の私に対する感じかたが違うのですから仕方のないことと思っています。私の気持ちとレては、「先生」とはあまり呼ばれたくないというところでしようか.今の仕事を始めたころは、「先生」と呼ばれると他人が呼ばれていろような感じがして困りました。近ごろは少し慣れたのか割りと自然に返事が出来るようになったようです。これも困ったものだ、「先生」と呼ばれていると、それでなくとも、お山の大将のような性格があるのにこれ以上いい気になるのではと、不安になったりします。こう書くとずいぶんと謙虚なんですが一方では学校の教師なんかとは違うんだぞといった気持ちもあるようです。ともかく「先生」という言葉は、私には複雑な響きのあるやっかいな言葉です。

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1988.11.1 No.2

どの中学も中間テストが終わりました。成績が良かったと喜んだ顔が多いと、こちらもうれしくなります。勉強の成果が表われたのですし、その子の努力がみのったわけですから。「数学が一番悪かったさ」、「やっぱり、英語がだめだったさ」こういうのはこたえます。しくじったわけです、行った本人の失敗と私の失敗。こう考えてくるとどうもいけません。あの時の説明が悪かったんだろうか?いや他の所かな、一応の反省をするわけですが、うまくいきません。欠点を捜すといくらでもみつかります。いやになってきます。いやになって反省もおしまいにして、次はなんとかなるさなんて自分をなぐさめて終わりです。反省しただけ損をしたような気がします。失敗をしたときは、反対に子供達にうけたことや、うまくいった時のことを思い出す方がいいのです。手直しすろ所がはっきりとしてきます。考えてみると、試験の問題だって解けなくて困ったときは、前にうまく解けたことを思いだして、同じ方法を使うといいことがよくあります。

試験の結果の出てくるころですが、悪いほうばかりを見ないで、良い所を見て子供達の力を引き出せればと思う時期です。毎月月初めに出すようにと自分で決めたのですが、最初から挫折しました。そのうち、まだ大丈夫と思っている間に十一月になってしまいました.来月こそはと思っていますがあてにならないでしよう、きっと。全面的に宣伝広告になってしまいました。書くということは大変だとしみじみ思っています。

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1988.10.1 創刊号

「考える」という言葉を考える

  子供が問題を解けないでいるときや、私の質問に対して「分からない」と答えたときなど「もう少しよく考えてごらん」と軽く言ってしまうことがよくあります。ここで少し考えてみたいのですが「考える」ということは、子供がどんなことをすることなんでしょうか。大人は気安く「考えろ」と言いますが。

 「考える」とはどんなことをすればよいのか、子供たちは知らないのではないのかと何年か前から考えるようになりました。実を言うと「考えろ」と言っている大人、自分も含めてよく知らないのではないかと疑っています。本当はよく知らないことなので、なんて言えばよいのか困ってかっこうをつけて「考えてごらん」なんて言っているのかもしれません。こんなよくわからない「考える」という言葉は、なるべく使わないようにと反省しています。

 子供たちの問題がうまく解けない場面を思い浮かべると、解決するために自分の知っていることの中からどれを使うのか決めようとしなかったり(足し算か引き算かを決めようとしないようなこと)、全く知らないとあきらめていることがあります。「考える」というのは、自分の知っていることを活用すると言うことではないでしょうか。また、どんなことを使うのか決める、自分で判断をすることだと考えられます。

 もう一つは、見えないことを見る、想像したり・連想したりすることではないでしょうか。歴史の古い出来事や、外国のこと、いえ日本国内でも見えません。また、見えないものとして、わざと隠してあるものがあります。xの前の1などがそうです。表現を変えてあるものもあります。このへんになると、じつは疑ってかかれということでしょうか、裏を読めということでしょうか。どちらにしろ、素直な良い子であってほしいという、親の気持ちとは反対のようですね。

 「考える」ということは、何をすることか色々と書いてきました。ほかにも、まだまだあると思います。大人として、子供達に中身のよくわからない「考える」のような言葉を使うのはやめて、もっとわかりよい言葉を選ぶように心がけたいものです。

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「カッパ」の感想文

  かなり前になりますが、「カッパ」という読み物を読みました。」感想文を書くように子供達に頼みました。ありがたいことに三人の子供達が書いてくれました。次の三編です。なお、これは小学生だけに行なったものです。

 

 「かんそう文」

 ちょっと、気持ち悪かったけど、おもしろかった。カッパは本当はいるのでしょうか。これはどうなるのかな。でも、わたしはいないと思う。はるかくんと、ねばっていました。とってもおもしろかったです。また、こんどもやってください。

 

 「カッパについてのかんそう文」

 私はカッパはいると思う。なぜならカッパはどんなかっこうか、それはみんなが想像できるし、カッパのとくちょうもわかる。カッパがいないとかんがえている人は、今までにはカッパのしゃしんが一枚もないと言っているがそれじゃあどうやってカッパのかっこうを想像できたり、カッパのとくちょうをしってるのだろうか?それは、本当にカッパをみたからわかることではないのだろうか?

 でもカッパは本当にいるかどうかは、自分たちのかんがえにまかせていいと思う。

 

 「カッパ」の話を読んで

 カッパはどうしてあんなに手が長いのか。どうして人間にいたずらしたのか。それに、どうして水の中にすんでいるのかふしぎに思った。それに、カッパは、手をきられても、もとどうりにできる薬をつくられるのは、頭がいいんだなーと思った。

 

 夏休みに子供達に作文を書いてもらいました。それぞれの個性がでていて、楽しく読ませてもらいました。しかし、子供達だけに書かせるのは不公平ではないか。自分も書く必要があるのでは、また書くことによって自分の頭の中を整理しようと思いつき、できあがった物がこれです。

 思いつきと自分の都合が優先しますから書く内容は独断と偏見、一人よがりになるでしょう。なお、都合という面ではいろいろのお知らせ(講習の案内など)にも利用します。その他、塾の宣伝として使いますからぜひ読んでいただきたいと思っています。

 また、子供達の書いた物なども載せる予定です。

 

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